あっと言う間に1週間が過ぎてシャバットを迎えています。
神は全世界の全てを創造され、神は場所と時を聖別されました。
人、動物、物、場所、そして時を聖別されました。
4月5日には、春の聖別された祭り、過越の祭りがやって来るので、その前に神の家についても記事にUpしたいと思っています。
シャバット=時、そして神の家=宮=神殿、神との婚姻関係の中に招かれた事実は全部繋がって1つなのです。聖書は全部繋がり同じテーマ、同じ内容、同じ福音が記されています。だからどの箇所も取り除いたり出来ない性質、それが神の言葉なのです。
場所=神の宮聖なる方の住まう場所です。神の臨在が住まう場所神の宮である人の中には神の臨在が住まっています。
しかも、神の宮の中=人=神の臨在があり、そして人も神の中に
存在していると言う摩訶不思議な現実があります。
シャバットが与えられた理由は、”印”でもあります。
出エジプト31:12 主はまたモーセに言われた、
31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。
31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。
31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、
かつ、いこわれたからである』」。
イスラエル〜イスラエルの神に繋がる全ての人=イスラエルと
代表者名が書いてあるのです。イスラエルだけへの教えなんて読む場合、あなた=異邦人はイスラエル=イエシュアとは関係ありませんと言う事と全く同じ事なのです。
神がされた通り、神がデザインされた通りを人が生きる、これほどシンプルであり明らかな事実はないのです。神がそうデザインされたらか、神の創造物は全て神のデザインに沿って生きるのが
一番ふさわしい、フィット〜安らぐのです。
10の言葉の第4番目に、”安息日=シャバット=第七日目を覚えて聖別しなさい”と言う神の言葉の項目を異邦人の世界では変えてしまいました。以前記事で紹介したある説教者の解説はクリスチャンの世界では一般的な教えの解説です。
以下の解説は聖書とは何の関係も無い、パウロはそんな発言も
していないものです。
<パウロが、「モーセの律法からの自由」を説いた。律法を守らなくてもいい、と言うことをパウロは語った。律法の中でも一番大事なものは十戒、クリスチャンは十戒を守らなくてもいいのだと言われたら驚くだろう。いや他のモーセの律法はともかく、
十戒だけは守るべきだと思う人の方が多いのではないか。>
神の教えで一番大事=十戒、一番大事なものなのに守らなくても良い。支離滅裂な解説。いや、十戒だけは守る=これは聖書=神の教え全体の項目であるから、神の教えを守るなら、どれかを差し引き付け足しなど出来ないと言う大前提を全く見失っている発言です。もし十戒を守ると言うならば、それは神の言葉全体を守っていると言う意味になるからなのです。普通に考えたら支離滅裂な解説です。神は神の言葉を人間が一点一画も破壊してはならないと教えています。
パウロは神の教えを、もうこれからは守らなくても良いなどと一度も言っていないのに、異邦人は勝手に神の言葉を、パウロの発言を変形させ自由自在に自分達の思い、意見を述べているだけなのです。
聖書記者全員は100%もれなく誰でもモーセの五書を指して全てを語っている事実を念頭に置いて下さい。
ヤコブ2:9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、トラーによって違反者として宣告される。
2:10 なぜなら、トラーをことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
2:11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、トラーの違反者になったことになる。
申命記4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。
更に異邦人解説者はこう書いています。
<でも、私たちは十戒を守ってはいないのです。>
その通りです。十戒を守っていないと言う意味は、神の言葉を守っていません、神の言葉を破っていますと宣言している事に気が付いてもいないのです。神の言葉の75%は廃れたと言う人間が作った教えを信じてるから、神の言葉なんて重要視しなくても良いと言っているのです。それほど、異邦人に取っては神の言葉に対する敬意がない、神の言葉が永遠の重さ=カボット=栄光=重要な価値があるのに、神の言葉を軽く取り扱っている意識がそのまま現れている発言なのです。
<なぜなら、十戒でいう安息日とは土曜日だからだ。>
神の言葉によればそれが真実その通りです!
<日曜日は安息日ではなく、一週間の初めの日だ。>
神の言葉によればそれが真実その通りです!
<クリスチャンがなぜ土曜ではなく日曜に集まるのかと言えば、それは主イエスが復活したのが日曜だからだ。私たちにとって日曜が特別なのは、十戒の教えのためではなく、それが主イエスの復活した日だからだ。>
そうです。日曜日はシャバット=聖別された日ではない、神の言葉、教えではない!ことは、神の口から出た言葉により明らかにはっきり証明されている事実です。
日曜日は聖書では安息日ではありません。聖書に記された誰一人として日曜日礼拝を行ってなどいません。この解説だと、イエシュア=神の言葉=聖霊と言う事実が全く理解出来ていないのです。
わたしを愛する人はわたしの言葉を愛して生きるとイエシュアが言っているのに、イエシュアの言葉も全く通じてないのです。
イエシュア=神がいつ日曜日が復活日だから、その日をシャバットに変更しなさいと言われたのでしょうか?
神の言葉で語られる聖別された日を無視、神の言葉ではない自分達の考え=復活日だから祝おうと言うことにしたと言っています。日曜日に安息日を異邦人が変更したその本当の理由を知らないとならないのです。
シャバットを日曜日に変更した本当の理由は復活した日にちなんだからではないのです。これは後から付けた理由です。ローマ帝国の勅令によりモーセの五書を生きる事をユダヤ人異邦人信者も禁じられて、異邦人達は西洋教父の知恵により代替え策として、ローマの記念日、皇帝の日、太陽神の日の日曜日に、異邦人信者はその日に安息日を祝うと言う事に変更しただけなのです。
神を愛しながら神の言葉、教え、仰せに逆らうと言うこと自体が
異常事態である!と全く気がつかないのは、神の言葉を異邦人は殆ど捨てているからです。神の言葉を今は無視しても良いと上記の説教者の様に皆が教えているからです。神の言葉ではない人の教えを神の教えだと勘違いして大事にしているからです。神の言葉を捨てれば、神の言葉はその人の耳に届かず、頭上を通り過ぎるので、み言葉が聞けない飢饉、神の声が聞こえなくなっているだけなのです。
<このように話すと、驚かれたり混乱したりするかもしれないが私たちが土曜日を安息日としないのは、私たちがモーセの律法から自由であることの証拠だ。>
神の言葉に根拠のない事は証拠でもなんでもありません。異邦人が勝手に作った日を異邦人が実践して祝っているだけ!それが事実です。モーセの律法=神の教え、言葉、インストラクション=トラーから解放されたら、神の言葉によれば、あなたは神に対して離縁を宣言しますと言う意味である事に気が付いてない、本当に矛盾した解説です。神との関係にある証拠は、神が文字で記されたこの婚姻契約書トラーが存在しているからなのです。
トラー=神の教えから自由???👿無法地帯を行く事を意味します。神が定めた安全な境界線を人が取っ払い、危険地帯に自由自在に侵入しますと言う事だからです。それが異邦人の世界で語られる自由、恵みの時代の生き方なのです。だから神の教えとは何も関係の無い教えが次から次へと編み出され、何十万と言う無数の宗派教派が出来上がっているのです。もし神の言葉のどの箇所でも否定するならば、その場合、今の時代の闇に対する生き方をする人達への正しい神の言葉を伝えることが出来なくてなってしまう事なのです。神の言葉を違反する生き方を今世界が奨励しているからです。神の言葉と言う根拠、証明を捨てればなんでもありになるのです。どの点でも神のトラーを破ればとヤコブにある通りだからです。神の言葉に対する慎重な取り扱い、敬意がないのです。
<十戒が大事ではないと言いたいのではない。十戒は大切な教えで、私たちもそれを尊ぶべきだ。同時に私たちはモーセの律法としての十戒に縛られてはいない。>
全く支離滅裂な解説です。分裂思想。尊ぶべきものなのに、ないがしろにする???神の言葉に対する敬意の無さを態度で表す。神の言葉は完全であり人を生かすものなのです。尊ぶべきものなのに、それは同時に良くないものであるので縛られてはならない?どう言う意味なのか、説明がつきません。
神の言葉は人を縛るものであると言う意識自体が、神の実態から遠い場所に立って考えている、神の考えとずれている事を表しています。言葉=イエシュア=聖霊=神=命の源である事実に全く気が付いていない発言です。人は神の口から出る1つ1つの言葉=トラーにより生きるとあるのに、それから自由になるとは別物の声=危険な声に聞き入ることを奨励している教えです。
<「モーセの律法からの自由」を声高に唱えた人こそ使徒パウロである。>
パウロに対する本当にひどい発言、偽証です。パウロを完全に
侮辱しています。パウロは神のトラー=モーセの五書に記された教えを異邦人へ伝える役割を与えられているのです。使徒21章で証明した通り、パウロ自身がモーセの五書=トラーを誰に対しても一切違反してません!と大金と長い日数をかけて神殿で証明しているのに、どうしてこうも勝手ないい加減な偽り、パウロが
モーセの五書=父の教えから自由に解放されたのだ〜と声高に唱えた人にでっち上げれてしまっているのでしょう。
これは神の言葉によれば偽証罪に当たります。
出エジプト20:16 あなたは隣人について、偽証してはならない。
箴言19:5 偽りの証人は罰を免れない、偽りをいう者はのがれることができない。
<彼は特に、ユダヤ人でない異邦人クリスチャンにモーセの律法を守らせようとすることに強硬に反対た。>
何を言っているのだろう!と言うレベルです。パウロを完全に誤解した人達はこの様に聖書とは違う教えを編み出すのです。
パウロが反対したのは、神の教えでは無いことを異邦人に強要しやらせる事なのです。”律法の行い”ー口頭トラー、特に異邦人がユダヤ人達のコミュニテイに受け入れられるためには、完全にユダヤ人となる彼らの決めた宗教儀式=当時”割礼”と言う呼び名をつけて呼んでいた宗教儀式ですが、それを経ないと神の国の一員になれないと主張していたユダヤ人の教え、その様な教えに対してパウロは断固として禁じていたのです。パウロがモーセの五書を異邦人が生きることに強固に反対したら、パウロは異邦人に
トラーを教える使者ではなくなります。
トラーを生きるから恵みのない生き方になるなど勘違いな発想をし続けてはしてはならないのです。この宗教儀式からも分かる通り、人はどの人種どの時代でも、人の手柄、行い、業、修行により新しく創造された命=復活の命=義とされる事などありえないからです。
イエシュアが永遠の中で完了したイエシュアの命の贖いの支払い故に、信仰により受け取るだけしか方法はない、それなのに宗教儀式などで、神の国の一員になると言う思想は、恵みから漏れた思考回路で考えている、それならイエシュアの死は意味がなくなる!とパウロは解説しているのに、パウロが話している内容を正しく理解しないなら、この様にパウロは断固としてトラーを生きる事を異邦人に禁じたなどと言う解説をしてしまうのです。
注意深く聖書を読む。人の思想=変化する神、変化する神の言葉と言う教えを全部破棄する。そして聖書の大前提をずらさない!神の言葉は永遠変であり、神には変化や移り行く影はなく、イエスキリストは昨日も今日も永遠に変わらず同じ!神の言葉は永遠に堅く立つ!と言う神が伝える事実だけから神の言葉を考え直せば神が伝える永遠の真実が見えてきます。
続く
Shabbat Shalom