聖なる場所を破壊される事への抵抗  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエシュアの証言記録でも分かる通り、1世紀当時の大祭司カヤパ一家はローマ帝国に属する汚職に手を染めていた人達でした。

神殿を通して吸い上げられる所謂税金ですが、それらでローマ帝国も、大祭司一家も私服を肥やしていました。

神殿を通してされる儀式に関してお金を取る。

どんな方法かと言うと、エルサレム以外からエルサレムに上って来る人々に、高額の手数料と、為替レートを取り両替をしていた

普段の神殿への捧げ物や、都上りの祭りの時には自分達で持ち込んだ個人の動物は認めず、ローマ政府下の神殿で認定されて売られる動物=高額な動物を買わなければならない、などなどです。大祭司が住む家は遺跡がエルサレムに残っていますが、室内に

プールや温泉まである様な豪華な造りであった事が分かるものです。人は権威を手に入れると、欲をはらむのはどの時代でも同じなのです。

ヘロデもローマの手下の王でした。

 

ヨハネ2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。

2:14 そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、

2:15 なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、

2:16 はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。

 

この様な腐った時代、エルサレムの街を歩けば至る所に人が木にかけられ処刑されている、その様な時代であった事を考えるのです。ローマ政府の闇の手から逃れさせて下さるタナックに記された救い主をユダヤ人は待望していたのです。

 

イエシュア昇天後もローマ帝国統治下のユダヤ人達に対しての

状況は益々悪化して行きます。

ユダヤ人の中でローマ帝国に抵抗する人達は熱心党員でした。

何に抵抗していたのか、ローマ帝国がユダヤ人にモーセの五書を

生きるな、教えるな!実践するな!と言う圧力に対する絶対的な抵抗なのです。

この事実を本当に理解すれば、どうして今現在の異邦人の世界で教えられる教えと聖書に記されている教えや実践記念日とが異なるのか、はっきり見えて来るのです。政治的理由、そして迫害を逃れるための異邦人信者達、特に異邦人西洋教父達がモーセの五書を否定する教えをローマ帝国の手前編み出した事、プラス元々あった異教徒思想はモーセの五書に記された教えは初めから異邦人に取り異物であり、全く馴染みの無いものだから、受け入れるのに困難だからです。

現代の異邦人クリスチャンがイエシュアや使徒達が生きていた

教えや、祝っていた記念日を祝おうと言われたら抵抗感じるのではないのでしょうか?だから何でも許される恵みの時代だと言う

異邦人創作の教えの方がすんなり納得、当然の如くに響き、神の伝える真実ではない聖書では無い教えなのに、疑いもなくそう

信じているのです。

それと全く同じ事が1世紀後半に起きたのです。元々異物の教え

記念日には抵抗感じるものだからです。使徒15章にある異邦人の生き方、信じたあとも異教の神々の神殿に詣で、けがれた動物を

絞め殺し、異教神の神殿の祭壇に捧げその血や肉を食べ、神殿娼婦と交わっていた、イエシュア 信者なのに神の言葉=トラーなんて知らない!それが普通の状態だったからです。

 

ユダヤ人達の抵抗がマックスに達したのは、66年AD、ネロが神殿を剥奪した時です。ネロが指名した役人、フロルスは、神殿の財宝である銀を大量に盗み出しました。

歴史家ヨセフスによると、反乱の2つの主な原因は、ローマの指導者の残酷さと腐敗、そして聖地を地上の力から解放することを目的としたユダヤ人の宗教的ナショナリズムでした。

詰まり神殿を汚れた偶像と汚れた動物で汚す事が行われようと

していたからです。

 

聖地、神殿、聖所を荒らすと言う意味を理解しないとなりません。マカバイ戦争同様、エルサレムの神の神殿に彼ら異教の神々の偶像を持ち運び、神殿の祭壇に汚れた動物=豚を捧げて汚す、この様な行為に神の言葉=トラー=契約を生きるユダヤ人達は、これらの行為は荒らす忌むべきものの行為であり、耐え難い事である事を知っていて命がけの行動を起こしたのです。これは神の言葉を理解しない、今は恵みでなんでも食べる事が許されると信じて疑わない人には、神の神殿が汚されると言う意味が全く理解出来ない事だと思います。

ユダヤ人の農民一般庶民の貧困と、そしてローマ帝国とつるむ

祭司達の腐敗、汚職、プラス、異邦人、ギリシャの住民の方を

よりひいきする、その様な緊張があったのです。

フロリスが神殿を剥奪し、60000の強靭な軍隊を導入して

リーダー ヴェスパシアンのもと、100000のガラリヤ地方に居たユダヤ人を捕らえた後にユダヤ人の拠点であるエルサレムに集中したのです。

ローマ帝国がユダヤ人を城壁の中に閉じ込めたので、膠着状態になり、ユダヤ人が中にいるのでローマが城壁を破壊する事が出来なくなりました。

ヴェスパシアンがローマに戻り、70年A. D. に皇帝になりました。彼の息子のタイタスがローマ軍を指揮し、他の地域の軍隊と

協力してエルサレムの包囲を壊し、第二神殿を燃やし、破壊しました。今現在存在するのは神殿の外側の城壁だけです。

100万人以上のユダヤ人が3年間の間で亡くなったとされています。

 

ここでポイントですが、ギリシャもローマも神の神殿を汚す行為をしたのです。荒らす忌むべき行為とは、神の聖なる神殿を異教の神々のもので汚す行為です。神の家にふさわしくない偶像や

汚れた動物、豚をささげ、神殿を汚した!それが未来にもう一度

起こる預言がされているのです。

この後、バルコクバの乱が60年後に起きたのです。

ホロコーストが起きる前のユダヤ人に取り最も悲惨な出来事として記録されている事件なのです。この事件によりイスラエルの国

が復興するまで、イスラエルと言う州は終わりを告げたのです。

そして、ユダヤ人は世界の四隅に散らされて行ったのです。

 

第一ユダヤ戦争、第二ユダヤ戦争の間戦ったユダヤ人の中にも

多くのユダヤ人イエシュア信者達が存在していました。

でも第二ユダヤ戦争、バルコクバの乱では、ラビ アキバが救い主であると主張するおかげで、イエシュアを知るユダヤ人信者達は、この戦争に加担出来なくなり、ユダヤ人の同胞からも迫害を受け、同時に異邦人からも迫害を受けると言う板挟みになったのです。

それ以降、この様なローマ帝国の迫害、ユダヤ人がモーセの五書をローマの支配下の中で生きる事は不可能な勅令を出されて

そしてこの様にローマ政府に殺害され、世界の四隅にユダヤ人は散らされて行ったのです。一方異邦人達はユダヤ人とこの様な事件を通して完全決裂し、独自の方向、新宗教の教えを教え生きる路線へと進んで行ったのです。この事実をはっきり知らないと、現実が見えないのです。大多数の異邦人クリスチャンは本気で

神が神の言葉を破棄された、神が神の記念日も終了させたと信じているでしょう。それって神の言葉や教えなどではありません!

この様な時代の政治情勢のもと、異邦人が独自の新宗教=西洋宗教と言うものを作ってしまった!と言う永遠に消えない事実があるのです。それを知った上で認めないならば、認められない理由があると思います。異邦人クリスチャンの世界では受け入れられないから、大きな流れに乗るしかないと考えるその考えです。

 

神が神の言葉を変えたのではなく、政治の力で神の言葉を生きる

事をローマ帝国に禁じられたのです。そして異邦人達がモーセの五書とは違うローマ帝国にそぐう、教えに変形して行ったのです。だからシャバットは土曜日ではなく、日曜日に変更され、

神のオリジナルの記念日レビ記23章は祝うことを禁じられたので、その代わりにクリスマスやイースターと言う教えを作ったのです。過越の祭りを異邦人は祝う事をやめたので、イエシュアがされた最後の晩餐の過越の祝いを、聖餐式と言う月一度の日曜日にやるもの、種ありパンで行い、それがキリストの血や肉になると言う教えをカトリックが作ったのです。ローマ帝国に神が伝えたアヴラハムの契約、割礼を禁じられたので、その代わりに、

幼児洗礼にカトリックが変えた。きよくない動物もローマ帝国、異教徒と同様食せる様になったと教え、異邦人達はその様に実践してレビ記11章は終了と言う事を行ったのです。

元々異邦人には、馴染みない教え、元の日常の食生活や、ローマの皇帝や太陽神の日を尊重する生き方に戻るのは、異邦人には

いとも簡単な事だからです。

 

耐え難いのは、こんなに手元に聖書があり、ネット上でも聖書があり読めるのに書いてある通りに聖書を読んでないことに気が付かないこと、人の教えを通して神の言葉を変形している事、そして神が神の言葉=呪いの律法、人を縛り付ける教えを終了した〜とか、怒りの神が恵みの神に変身したとか、イスラエルの神をそこまで曲げて声高らかに伝える、その嘆き悲しむべき事をどう伝えて表現したら良いのか分からないです。

ユダヤ人であり生まれた時からヘブライ語の聖書を教えられ、

西洋宗教の教えを一切聞いた事がなかった友人が、初めて西洋宗教の語る聖書のこと、イエシュアの事を聞いた時、あまりにもDistorted 歪められ変形されてしまっていて驚き、ショックで

泣き崩れた事を話してくれました。そのイエシュアって嘘でしょう!だからです。

それほど、神の永遠不変の言葉が変えられてしまっているのに

異邦人クリスチャンの間ではその事実に気が付いていないと言う事です。それは人が解説する聖書には書かれていない真実ではない解説が一人歩きしているからです。

 

ユダヤ人に、人格を変化させる神、言葉、約束を変形する神、

神の言葉=古い律法は破棄されたと言うメシアを伝えても、それは偽物、タナックに記された救い主とは異なると彼らは聖書に基づき知っている、分かるのでその様な宗教が語るメシアを拒絶するのです。その様な異邦人が考えた宗教の教えの救い主の話は、彼らユダヤ人の耳には異端の教え、冒涜以外の何物にも聞こえないと言う事を覚えておいたら良いと思います。

 

ユダヤ人がイエシュアを知る様にと本気で祈るならば、聖書に

記された通りの正しい神の言葉、正しいイエシュア像、本物の福音をユダヤ人に伝えなければならないのです変身する神、怒りの神、恵みの神、途中で約束や言葉を変える神!などと考えているならば、それらは神の真実な純粋な言葉とは異なるので彼らには通じないのです。

 

ユダヤ人の中でイエシュアを発見する人達は、タナックに記されたイエシュアを発見するのです。異邦人が作った宗教の教えで色

塗られてしまった救い主像を彼らは信じているのではないのです。

2世紀以降のユダヤ人イエシュア信者達が、どの様に福音を継承したのかの痕跡があるので、これは過越の祭りの時にまた回想したい内容です。

私は日本人として生まれ育ち、幼稚園の頃からキリスト教が教えるイエス様の話を聞いて来ましたが、その中で聖書に書かれている内容を詳しくは知らなかったと言うのが本当の所です。

日曜日は神が創造された主の日ではないなどと、聖書を読んでも

幼い頃は気がつきませんでした。日曜学校にも通いながら、聖書は福音書以降を読んだだけでした。17歳の時にイエシュアを

自分の救い主であると、聖書のイエシュアの言葉ヨハネ14:6を通して信じた後は、どうして書いてある事と実践が違うのか?と言うのは私の最初の質問であったのです。でも人の教え解釈に上手く説明されて、昇天されたのが日曜日だから日曜日に神がシャバットを変更したのだと言われました。

 

10代後半からずっと海外に住んでいますが、海外で聞く教えも

様々なバージョンはありますが、似たり寄ったり同じ教えをしていました。神学教理の共通点は昇天以降は神の言葉は廃れた、神の人格が変化したと、怒りの神、怒りの時代、恵みの神、恵みの時代で変化した神と神の言葉と言う点は同じです。しかも、色々な国で場所で次から次へと、様々なムーブメントで編み出され、様々に強調されるスローガンの数々もずっと見聞きして来ました。それが日本にも飛び火して行っていました。

何かを付け足さないと足りてないと言う思考回路、神秘主義、

奇跡体験主義なのです。

 

ヨーロッパのある国では、シャバットのコンセプトは理解していても、止まる日が日曜日なのです。日曜日には店も閉まり、掃除や洗濯をする騒音も嫌がられて注意されたりします。

 

神の仰せでは、いつ止まる日であり聖別された日であり、イエシュアもその日を聖別されたご自分の日とされていたのでしょう?

 

出エジプト20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

31:16ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。
 
マタイ12:8人の子は安息日の主である」。

12:12 人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。

24:20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。

 

使徒17:2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、

 

18:4 パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。

 

ヘブル4:4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、

4:5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。

4:6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、

4:7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。

4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。

4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。

4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。

4:11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。