ギリシャ人にはギリシャ人 ユダヤ人にはユダヤ人 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ギリシャ人にはギリシャ人、ユダヤ人にはユダヤ人と書いてある箇所を、異邦人クリスチャンの世界の解説では、パウロが人種により神の言葉を変えて、パウロが異邦人と共にいる時には神の言葉に違反する行為を行っていたと解説されていますが、それはとんでもない誤解の解説です。嘘偽り!聖書解釈の基本的原則、

ルールを思い出して下さい。使徒21章にあるパウロは100%異邦人に対してもユダヤ人に対しても神の言葉=教え=トラー=モーセの五書に記された教えに一切違反していません!と言う、民数記6章に書いてある神殿でのナジル人の請願=パウロ自身の宣言を覆して人の教えを作り出してはなりません。勝手な創作話死人に口無しではないですが、パウロの宣誓、証言が使徒の中に記されているのですから、それらを無視してパウロの証言を曲げる解説をしてはならないのです。そんな事をするから、神の言葉=聖書が歪んで解説されてしまっているのです。

 

パウロが異邦人には異邦人、ユダヤ人にはユダヤ人の様にと言った言葉の背景にある状況、環境をまず理解しないとなりません。

パウロが神の働きをしているのに、何故パウロは自らその報酬を放棄して、テントを作る様な肉体労働で生活の糧を得る事をしたのでしょうか?

いくつかの理由があります。パウロは直接この書簡では書いてませんが、当時の裏事情を知れば分かります。

パウロが亡くなった後2世紀に書物として構成された、デイダケーと呼ばれるもので、異邦人の世界で聖書ではないけれど当時の異邦人教父達、信者達の間で教えられていた様々な教えがあります。ユダヤ人の世界で言えば口頭トラーですが、彼ら異邦人の間のルール、教えがあったのです。どんな教えでしょう?

 

異邦人の世界の教えでは、使徒、教師が2日以上滞在したら、

偽の使徒、教師であると考えられていました。誰かが滞在したら

負担がある、パウロは誰にも負担をかけたくないとも言いました。

そして更には、偽予言者、偽教師は人々に金銭を乞うとあります。(デイダケー 参照)

これらの異邦人の間の教えはパウロが亡き後書物として作成されたものですが、異邦人のコミュニテイの中には1世紀後半には既にその様な教えがあったのです。

異教の神々の予言者と教師達は古代ローマ帝国に多く存在していたのです。これら異教の神々の予言者、教師は、占いや予言は

金銭を先に払うまでやらないと言うしきたりがあったのです。

詰まり前払いです。

もちろんパウロは、それらの異教の神々の予言者や教師とは違うと言う事を示す為に、彼らがする事から距離を置き、彼らと同等と見なされない為に極力努力したのです。

更には、ユダヤ人の中で教師が異邦人に奉仕して教える事で金を取る、生活の支援を受ける様な事をパウロがする事で、ユダヤ人達から怪訝な目で見られてしまう事でした。

その様にパウロは、パウロはユダヤ人の兄弟姉妹から不適切な

行動をしていると判断されない為にも、パウロが仕える異邦人の

コミュニテイからは、その様なサポートを極力受けない様に、

自分の受けられるべき報酬を敢えて放棄したのです。

この箇所からも、そしてパウロの書簡からも、受けるべき当然の

支援を受ける事を放棄した事、イエシュアに属する人達をイエシュアの元に獲得する為にそれらの権利を放棄したとパウロは話しているのです。

それなのに、ギリシャ人にはギリシャ人と言うパウロの言葉を

取り、異邦人と居る時には、神の言葉や教えを放棄し、神が禁じる行為を異邦人と共にパウロがしたなどと言う解説は、パウロが話している事ではありません。

 

ユダヤ人にはユダヤ人とある箇所も同じです。この異邦人、ユダヤ人両者、ユダヤ人はイエシュアを信じないユダヤ人の事ですが、パウロの記した事から、どんな意味でユダヤ人がイエシュア

を信じるに至る為にパウロはどんな事に甘んじたのかも記されています。

1コリント 9:20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。

ユダヤ人を得るためである。トラーの下にある人には、わたし

自身はトラーの下にはないが、トラーの下にある者のようになった。トラーの下にある人を得るためである。

 

この箇所で、パウロが”ユダヤ人の様になった”と書いています。

パウロは生まれつきユダヤ人なのに、ユダヤ人の様になったなんて言う表現は変ですよね。

パウロは生まれつきユダヤ人であり、公にユダヤ人コミュニテイと繋がりがあり、それを保持し生きていました。

パウロがここで続いて記している、トラーの下に居る人とは、

特定のユダヤ人の事を指して話しているのです。イエシュアを知らないユダヤ人の事です。パウロは100%モーセの五書=トラーを同じ様に生きていた事実だけから考えてください。

当時のユダヤ人コミュニテイの中にはいくつかの派が存在していました。パウロはパリサイ派でした。

使徒23:6 パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部は
パリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、
「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。

 

異邦人のクリスチャンの中では、パリサイ派イコール偽善者と言う刷り込みの間違った先入観がありますが、使徒にも記されている様にパリサイ派は当時の主流の派であり、善良で市民に絶大的な信頼をされている人達だったのです。しかも使徒15章で異邦人イエシュア信者達を交わりに加える為に寛容な考えを打ち出したのはパリサイ派のイエシュア信者達、長老達です。書いてある事をしっかり読んで把握し、真実の点と点だけを繋げて考えて下さい。

もちろんある一部の人達はどの派に属そうとも、ずれた見解や生き方をしていたのです。

日本人の数人が海外で不評な行動をしたら、それは日本人全員が悪者であるとならないでしょう。その様な早合点した聖書の読み方、異邦人クリスチャンの中で定着してしまった偽の教え〜

例えばパウロ=モーセの五書を違反している、パリサイ派=

偽善者、律法主義者、ペテロ=おっちょこちょい、落ち着きがないなどなど、それらは異邦人の世界の教えが語る彼らに対する

誤った批評、認識です。

聖書に書いてある事に注意を払って読めば事実が見えます。

 

使徒5:34 ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、

 

彼らパリサイ派は人を擁護する立場に立って神の教え=トラーを

教えていたのです。ガマリエルはパウロの教師です。

そのガマリエル大先生の言葉を読めば、ガマリエルが神の前に

正しく物事を識別し判断しようとしている事が分かります。

 

使徒5:38 そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。

5:39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、

 

パウロは当時のパリサイ派の教え、権威の中に居て、彼らのルールの下に従ったのです。パウロは生涯パリサイ派を貫き、パウロの書簡はエルサレムのパリサイ派のシナゴーグ、神殿に拠点を置くパウロに当てられた書簡に対する返答の手紙はパウロの書簡=

聖書となっているのです。書簡で質疑応答するのも、当時のパリサイ派の教育ツールなのです。過越の祭の祝い方もパリサイ派の流儀が継承されているのです。イエシュアがされた過越の祭りもパリサイ派の流儀で行われたものなのです。

 

パウロは、”トラーの下に居る人、(フポ ノモン)と言う表現をしているのは、イエシュアをメシアと信じていないユダヤ人達の事を指して話しているのです。そのユダヤ人達はメシアを知らないまま、彼らの”ユダヤ人”としてのアイデンティティにだけ依り頼み、ユダヤ人だから神の国の一員だ、トラーを生きて、それが神の国の一員の根拠であると言う意識で居た人達の事です。

イエシュアの業を通して新しく生まれ変わると言う体験が抜けている人達。

次にパウロが発言している事に注目して、何をパウロが言っているのかの真意を把握して下さい。

パウロは今は、”トラーの下に居ない”と言っています。どう言う意味ですか?パウロはイエシュアを今はメシアとして信じて、

メシアを知らないユダヤ人達とは異なる立場であると言っているだけなのです。もちろんパウロは100%モーセの五書を生きて

実践した事は生涯変わらないのです。

パウロが言っているのは、異邦人クリスチャンの世界で語られる教えの様に、救われたら神の言葉から解放され自由にされたなどと微塵にも考えていない、語ってなどいません。

 

メシアを未だ知らないユダヤ人は、以前のパウロと同様に”ユダヤ人”と言う肉的生まれ、立場があるから神の国の一員としての立場が保証され安全である、プラス神の言葉を生きていると言う自負がある、でも本質=イエシュア=子羊の血の贖いで神の元に直接繋がれていると言う体験が未だ無いユダヤ人の同胞の人々の事をトラーの下にあると言っているのです。パウロもそれらのイエシュアを知らないユダヤ人と以前は同じでした。でもパウロは今はそれらの下に居ない、なぜならパウロは今救い主を信じているから、以前の状態が違うと言う事を言っているのです。トラーを100%生きている事には変わりない、でも頭脳に割礼=新しく創造された人としてトラーをパウロは今生きているその違いがあるだけなのです。

ユダヤ人の血筋と神の教えを生きている、イコールそれで、神に

繋がれていると考える、でも本当はイエシュアがメシアである事実に出会うまで、人は本当の意味で生まれ変わり、神に繋がれないのは、ユダヤ人も異邦人も同じなのです。人種により時代により別の救い、別の救いの方法はない、道はイエシュア以外にないとイエシュアが言われた通りが真実だからです。

 

パウロは神の国の一員であると言う現実をユダヤ人と言う肉的身分に救いの根拠を今は置いていない言っているのです。

イエシュアを知らないユダヤ人=トラーの下にいる人、イエシュアの命を内側に持ってトラーを生きているパウロ!この違いを

読みとならないとならないのです。

 パウロの証言によれば、ユダヤ人の同胞の多くはメシアである

イエシュアを拒絶している、パウロはその事実を深く嘆き悲しんでいるとあります。ローマ9:1−3

ではパウロが何をもって、トラーの下=メシアの救いを得ないまま、トラーの本質を理解しないユダヤ人、肉の生まれだけで、

メシアを知らないまま神の国の一員だと考えている人達に甘んじていると言っているのか、説明が必要です。

 

 パウロはメシアを知らないユダヤ人達の間でどんな事に甘んじて忍耐して耐えていたのでしょう?パウロは、メシアを知らない

ユダヤ人達のルール、彼らのシナゴーグのリーダー達からの5度のむち打ちの刑を受けたとあります。

2コリント 11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、

11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。

なぜパウロがユダヤ人からむち打ちの刑を受けなくてはならないのでしょうか?

メシアを認識しないユダヤ人達の前に、パウロはイエシュアがメシアであると宣言していましたメシアを認めないユダヤ人達の

グループ、パウロが”その人達の様にはトラーの下に居ない”と言う人達の事ですが、そのグループのユダヤ人達に取れば、パウロのイエシュアがメシアである宣言とは、神に対する死に値する冒涜罪であるのです。なぜなら只の人間=イエシュアを神と言う宣言をパウロがしていると見なされたからです。パウロは、異邦人たちを信仰によりイスラエルの神の契約の中に正式に加えられた人達だとも宣言しました。でもよくよく考えて見てください。

メシアを知らないユダヤ人の兄弟達との関係を閉ざさない為に、パウロがメシアを信じながら尚も彼らユダヤ人の会堂に入れる立場を確保するためには、彼らユダヤ人=メシア信仰がないトラーの下に居る状態に留まるだけの人達にから受ける、”鞭打ちの刑”を5回も受けたのです。彼らユダヤ人との関係が断たれない為に。彼ら同胞に、イエシュアをいつか教える事が出来る機会が

与えられためにです。

 

パウロはモーセの五書を人種により否定したり、是正したりするカメレオン的に生き方を変身する教えを言う為に、トラーの下にないとか、トラーの下にあると話しているのではないのです。

ある特定のグループ、異邦人イエシュア信者と、そしてユダヤ人の兄弟=イエシュアをメシアと認識していない人達、それらのグループにどう関わっているのかの対応であり、神の教えが2種類あり、その教えの対比をパウロが語っているのではないのです。

パウロは、今メシアを知り、神の教えを生きるとは、神の性質=イエシュアの性質=トラーを生きる事はイエシュアに贖われた人の本来の生き方であり、神の教えを生きる事が、実際の神への愛の証拠、表現である避けられない事実である!と言う事をパウロは知っているのです。

ここが異邦人クリスチャンの神の言葉に対する理解と、パウロの

理解とが全く異なるものなのです。

 

続く