マルコ7:19の最後に鉤括弧で書かれている”全ての食べ物はきよい”と書かれている箇所で、異邦人クリスチャン達は、ジーザスが聖書に記された禁じられている食べ物の教えを破棄して、全ての食べ物は”タホー”=טָהוֹר,きよい、トラーが”きよくない”=タメーטָמֵאと教えている食べ物がきよくなったと言います。
その言葉が書かれているから、トーラー=神の言葉のの大部分を急いで捨てるべきと、勘違い、早合点してはならないのです。
日本語でも英語でもこの翻訳が、人々に誤解を与えて、さらにそれを強固なものにしている箇所でもあります。
“Thus he declared all foods clean”
英語の翻訳ですと、”この様に彼=ジーザスは全ての食べ物がきよいと宣言した。”(RSV, NRSV and NAB)
”この様に言う事で、ジーザスは全ての食べ物がきよいと宣言した。”(NIV)
”これを言う事で、彼は全ての種類の食べ物は受け入れられると
示した。”(NLT)
”この様に彼は全ての食べ物がきよいと宣言した。”(NJB)
”この様に彼はこれら全ての食べてもの(儀式的に)もきよい
<それはレビ族の儀式的法とされているものは破棄された>
(AMP)
これらは英語の翻訳でこの様に書かれています。
きよい=タホーときよくない=タメーと言う言葉自体が訳すのに
難しいヘブライ語です。これは多くの側面があり解説が必要な
言葉です。
1つは、インサイダー=内部、中に入れる、 アウトサイダー=
外側に居る状態です。
神の宮に入れるには、神の宮に入れる状態で無ければならないの
です。神のデザイン通りにフィットしている状態です。
このタホー、タメーは食べ物に関しても使われている言葉です。
タホー=食するのフィットしている、相応しい、適している。
タメー=食するのにフィットしていない、相応しくない、適していない。
マルコの7:19の言葉で、異邦人クリスチャンは、食物規定に
関する教えが廃止されたと誤解しています。
そしてこの言葉で、レビ記や申命記に記された教えも無効にされたと考えているのです。
もし、イエシュアがメシアであり神でありながら、その様な神の言葉を逆転する深刻な事をし、そして神の言葉に反する事があるならば、議論と説明がなされないとならないのです。
トラー=神の言葉、教え、インストラクションでは、ある動物
を食べてはならないと教えられています。レビ記11章、申命記14章。ここで考えなくてはならない、永遠の真実があるのです。パウロも含めて、誰でも、預言者、使徒、そしてイエシュアが神の教え=父の言葉、仰せを違反する事など出来ないのです。
もし神の言葉を覆す様こと、否定する事、破棄する、無効にする事をするなら、その行為は罪であり、その様な行為をする人達は、救い主、預言者、使徒ではないと言う証拠にもなるのです。
特にもしイエシュアが神の言葉に違反したら、イエシュアは罪人になるのです。罪を犯したら私達の救い主としてタホーではなくなります。救い主ではない事になるのです。
マタイ5章にある様に、イエシュアが他者に対して神の言葉を
違反する様に教えるとするならば、どうなりますか?
カル=קַל 軽い意味の無い存在になる=救い主としての価値,評価が無くなってしまうのです。
神の言葉に基づき正しく考える事を身に付ける事は重要、不可欠な事です。
イエシュアご自身の言葉が、申命記から引用した事を話している事に注意して下さい。それに照らし合わせたら人の主張する教えが全て矛盾だらけの解説になるのです。
神が神の言葉をご自身が一点一画も付け足し差し引きする事を禁じているのに、神が神の言葉を終わらせる事をするなんて、聖書とは違う!と気が付かないとならないのです。それら全て、1世紀後半から出現した別の福音、別の教え、宗教の教え、人造教理、人造神学なのです。
マタイ5章の17節を読んで、神の教えが破棄されたなどと言う
解説をしていますが、普通に読んでも神が神の言葉を破棄するなどと書かれてない事はここでも明らかなのです。
まして、人に神の教えを捨てる様に教えるなかれ、神の言葉を
破り、人にそう教えるものは、無価値になる!とイエシュアの口からも直接語られているのです。
ならば、どうしてイエシュアがマルコ7:19で全ての食べ物はきよいとレビ記11章に記された神が清掃動物として創造した
きたないきよくない動物を食せる様になったなどと言う矛盾を
イエシュアが言う事などあり得るのでしょうか?
イエシュアはその後、豚やネズミを食して、それらを祭壇に
捧げたとでも言うのでしょうか?
マタイ5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就=固く確立する=するためにきたのである。
<トラー、預言書=タナック=創世記〜マラキ>
マタイ5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これら=トラーの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
この様な違反行為をする人達は、神の国の一員として留まれない、蚊帳の外に飛び出すよと言っているのです。
天の国とは、イエシュアに属するフルタイムの弟子たちを指しても話しているのです。
しかもマタイ15章にマルコ7章と同じ出来事が書かれていますが、その箇所には”全ての食べ物はきよくなった”などと一切記されていません。1000%あり得ない事ですが、イエシュアが父の言葉=トラーを覆す教えをしたらそれを聞いた人達全員がひっくり返り仰け反る事が起きます。
なぜでしょう?神に対する冒涜の罪を犯す事を意味するからです。そして、それと同様に、イエシュアを捉えようとして来た人たちにイエシュアが答えた答えで彼らが卒倒したのも、同じ理由です。
預言書の中に書かれた、メシアであると言っている言葉だからです。そうすると、人なのに神と言う冒涜を聞いて人がのけぞったのです。
ヨハネ18:6 イエスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた。
マルコ7章の構文法から見ても、翻訳者がその箇所を人が挿入、編集したものである事が分かります。
”全ての食べ物はきよい”と言うそこに書かれている本来の意味は、食べ物〜レビ記11章に記された神が創造された人が食べるのにふさわしい動物です。そして、それらのものが、異教徒が
触れようとも、異教徒の市場で売られていようとも、又は外から帰り外側の世界=異教徒の世界に触れて帰って来て、手、体、器を洗わなくてもそれらは汚れていない、きよいとイエシュアは話しているのです。
文脈を読んでも何をイエシュアが議論しているのか、その論点が理解出来る内容です。なぜなら、議論の中心は、人が作った教え=これをパウロも”律法の戒め”と言う当時のユダヤ人の中で使われていた慣用句=口頭トラーで伝えられている事は全部が正しい神の教え=トラーの教えとはマッチしていないと言う事です。
それら人が編み出した教えを生きる必要はない、異邦人と触れた手を洗わないまま弟子たちが食べ物に触れて食事しても、それらは汚れた食べ物にはならない。