神の言葉より人間の作った宗教の教えの方が大事と異邦人クリスチャンの間でそうされてしまったのですが、一般の宗教的ではないユダヤ人の学者達も、きよくない動物は公衆衛生上問題をもたらすものであると言う意見で一致しているのです。
豚や他のきよくない動物の肉は、病原菌を媒介したり、食中毒や菌やウイルス、病気を伝染する厄介な媒体だからです。
もちろんイスラエルの神に忠実に献身的に生きるコミュニテイでは、ユダヤ人学者と同じ立場を取り暮らしています。
イスラエルに行くと、ユダヤ人の店では、きよくない動物は
売っていませんが、ロシア人の店など神のトラーを生きない人達は、きよくない動物の肉、ポーク、ポークハム、エビなど販売していますし、街中がシャバットで店を休業している中、ロシア人の店だけは開いていたりします。
ユダヤ人のイエシュア信者、そうではないユダヤ人も神の言葉に沿って、豚などきよくない肉など食しませんし(神の言葉の無頓着なユダヤ人は何でもしますが)、取り扱いません。
異邦人クリスチャンの間では、1世紀後半からローマ帝国が課した、トラーを生きることを禁じられた勅令に迎合、同意し、神の言葉を異邦人はローマ帝国の社会的弾圧を理由に捨てて、ローマに逆らわない程度の自分達の新しい宗教の教えを作り出したのです。神の言葉に忠実に敬意を払い、婚姻契約の実態を生きるより彼ら異邦人が作った新宗教の教えの方で妥協し、それが神の言葉だと人に伝え始め、古代2世紀以降の人が作った教えであると言う認識もないまま、その宗教の教えに今も忠実に生きていると言う事に気が付いていないだけの事なのです。
1000%確実な事は、神の言葉が絶対であると言う事です。
そして、神は異邦人宗教家やクリスチャン達が言う事とは異なり、神の言葉や教えを神は歴史の途中でも変えていませんし、
人間や動物の性質も変化進化などしていません。陸海空の清掃動物、腐食肉の動物として造られたそれらの生物は、昇天以降体の性質を変化させていません。昇天前後と変わらず、それらの動物はあらゆる汚物を食べる性質、毒を溜め込む性質、病気を媒介し伝染させる性質を持っている事は何も変わらないのです。
婚姻関係に入る、神の婚姻関係の詳細が神から人に伝えられている、夫が何を考え、何を伝え、何を忌み嫌い、何を生きる様に言っているのか、人が耳を傾けようともしないなら、神の言葉などは聞く耳を持たない人の頭脳には全く響かず、別の教えに聞き入り、実際神が一番忌み嫌う行為〜汚れたもの、別物と混ざる行為をしてしまうのです。
紀元前167年、ギリシャ帝国に神殿を荒らされた時、荒らす忌むべき者は何をしたのでしょう?神の宮を汚す行為、偶像を持ち運び、神の最も親しい交わりの場所、祭壇の上で豚を捧げ、その血や肉を食べさせた、ユダヤ人にもその様にするように強要した。その行為が神の前に耐え難い屈辱であると言う事は、異邦人には全くもってピンと来ません。なぜならその行為がどれほど神の前におぞましいものなのか、神の言葉から全く理解していないからです。もし異邦人がゴキブリやネズミの血や肉を食べよと言われたら、その拒絶感は理解出来るでしょう。それと同じ事を
させられたのです。神が食するのにおぞましいと禁じているものを食べる。未来にもう一度神の宮を荒らす憎むべきものがする
行為それも同じです。
ダニエル書同様、未来預言がイザヤにもはっきり記されています。
神の宮には汚れた動物や偶像、イスラエルの神に属さないものは
一切取り込めないのです。
神ははっきり食べるものできよい、きよく無い事を区別しています。神に属する行為、そうでは無い行為をはっきり教えています。命の木、知識の木、あなたの前に命と死を置いた。
あなたは命=神が伝える真実を選びなさい!と神が言われているのです。
イザヤ65:3 この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、
65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、
憎むべき物の、あつものをその器に盛って、
66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、
その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。
66:18 「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。
わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。
66:19 わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、のがれた者をもろもろの国、すなわちタルシシ、よく弓をひくプトおよびルデ、トバル、ヤワン、またわが名声を聞かず、わが栄光を見ない遠くの海沿いの国々につかわす。彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える。
66:20 彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」と主は言われる。
私達の日常のする事、食べる事、飲む事でも私達が神の栄光を
表しなさいと言われています。
1コリント10:31 だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。
私達の体は聖なる宮である、聖霊の宮であると書いてあり、クリスチャンもそう言います。でも神の宮の定義は、モーセの五書に
記されているものなのです。神の宮には汚れた物など取り入る事
など出来ません。福音書以降には、神の宮の定義は重複して細かく記されていませんが、同じです。最初の部分に全部必要な事が書いてあるから、福音書〜黙示録は、最初の聖書の75%を知っている前提の人達に向けて、同じ事を繰り返し重複して記していないのです。だから最初の箇所に何が書いてあるのか分からないと、勝手な空想、想像、教えを創作してしまう事になるのです。自分定義の聖別、自分定義のきよめ、自らの考えでそれらをすると警告がイザヤ66:17に記されています。
異邦人は肉体と霊的と分けて考え、又グノーシス主義の様に体は汚れて低俗である、霊は崇高である、禁欲主義もそこから発生し
神の創造を汚れたものと同一視してしまっています。
でも神の伝えている事実は人は丸ごと全存在で生きるもの=ネフィッシュとヘブライ語では記されているのです。霊も体も1体です。だから神の宮=物理的なエルサレムの神の宮も、物理的な肉体的神の宮=イエシュアに属する人の体も、汚れたもので自分の聖別を神の前に汚してはならない事がずっと記されています。
イシュアが豚を食べたとでも考えているのでしょうか?
それでは神の神殿を3日で立て直すと言うイエシュアの言葉が
真実にはならなくなってしまいます。
1コリント 6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
創造主である神は、私達が何を生きる様に造られているのか詳細を知り、人に伝えられる唯一のお方です。そして私達の最善
健康に何が一番がを知っている。神は私達を愛しているから、
私達の体を神が造られた性質とは異なるものを取り入れて生きて
破壊してはならない事を教えているのです。
そして、創造主が神の言う事を聞いてと言っているのです。
それは、神が人を奴隷や召使いの様に自分に仕えさせたいから
ではないのです。神は私達を創造され、私達を愛し、神が与える
栄光と祝福に満ちた関係の中に留まり住まわせたいからです。
神は聖なるお方であり、汚れたものとは交われないのです。
イスラエルの神に属さないものを何でも受け取れないのです。
なおさらイエシュアを信じたら、以前の異教徒的な生活をやめて
天の国の新しい教えを1から知らないとならないのです。
だから、自分の生きる全ての面に於いて、衣食住も含め全て、
神の創造されたデザイン通りを生きる、それが神との幕やベールの無い、顔と顔を合わせる最も親しい関係に喜び生きる秘訣だからです。
単純に、神の言う事を聞く、それに抵抗を感じるのは別の声を
聴き続けているからです。
続く