考え直す 神が聖であるから神の子らも聖である事の意味を神の言葉から知る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神は世界の全てを創造され、人に食するのにふさわしい動物と

そうではない動物を造られて、それらが何かを神が人に伝え教えています。

 

メシア昇天の前後で、きよい動物も、きよくない動物も全て自由に食せる様になったと異邦人クリスチャンは主張しますが、それは聖書に何の根拠も無い事です。しかも昇天後いつ、きよく無い清掃動物、腐肉食動物の体の構造が進化、変化したのでしょうか?動物が進化変化しなくても、人間の体がそれら毒を完全除去出来る構造にいつ進化変化したのでしょうか?

 

マルコ7:15,19は”イエスは全ての食べ物はきよいとされた”と言う原典に無い人の思想を文書で挿入しています。

たとえ、もし全ての食べ物はきよいとイエシュアが言われたとしても、それらの食べ物は100%レビ記11章にある、人が食せる食べ物の中の全てと言う意味でなければ聖書とマッチしていません。しかも、神の神殿の祭壇には汚れた動物=豚やネズミや

馬など捧げられないのです。永遠に。

 

マルコ7章の内容を読めば、きよくない動物がきよくなったなどと言う話や議論など一切していません。イエシュアが諭していた論点は、外=異邦人の世界、市場、汚れた人達と触れたらその体や手や買い物した器まで汚れる、汚れた手で食べ物を食べれば、食べ物=きよい食べ物でも汚れて、自分も汚れてしまうと考えていた当時のある一部のユダヤ人達の考えは、神の教え=トラー=モーセの五書にある神の教えとは違うとイエシュアが正していた事を理解すれば論点はクリアーに浮かび上がって来るのです。

 

もう1つの箇所は、パウロが諭している偶像に捧げた肉=きよい動物に関してですが、これら=きよい動物でも偶像に捧げられればと汚れた肉になると言う意識でいた信仰の弱い人達に配慮する事をパウロは教えています。

きよくない動物がきよいなんて話などする訳ありません。感謝して祈れば汚れた動物もきよくなるなんて魔法、呪文みたいな世界を考えていたら聖書に記されている意味は理解出来なくなります。毒でも祈れば解毒出来ると言っているのと同じです。はいはい、いいえはいいえです。神が一度言われた事を後から終了になったとか、無効になったなど言ったら、それは本当に人を惑わす不誠実な神です。毒なのに同時に安全である訳がありません。

これらは、偶像に捧げた肉=もちろんきよい動物ですが、それらは汚れていない、偶像など実態が無いのだから、気にしなくても良いけど、気にする人の前では配慮してあげましょうと言う事が

パウロの論点なのです。

それぞれの箇所に書かれている内容を文脈から読み取らない限り

何を語って何を論じてるのか、ズレた誤解をします。

 

異邦人信者達がなぜ1世紀後半、すんなりローマ帝国の勅令=モーセの五書を生きる事を禁じられた事に甘んじたのか、その第一の理由は命乞いのため、もう1つは、異邦人は神の言葉に根付いて生きて来ていないので、イエス=復活=新しくされた事だけ分かってれば後は、異教の神々の教えに混じって、同時に彼ら異教徒達にも馴染める教えに神の言葉をアレンジして、福音を伝えやすくしようと言う考えがあったのです。

プラス反モーセの五書=中身が異教徒には馴染みが無い異物だからです。そして、ユダヤ人と異邦人とは元々敵意があったと、

エペソ2章でパウロが語る様に、彼らは断絶状態の関係から、

イエシュア信者としてやっと共通点、交わりの点を持ったのですが、それもそこまで親しい間柄になる程ではなかったからです。

 

異邦人が神の言葉を捨てて、プラス、ユダヤ人とが決裂して行く条件が、揃いすぎていたのです。

1 異邦人にはイスラエルと言う国家は自分の国ではないから

ローマ帝国に対する反乱に命かけてまで加担出来ない。命をかけて神の契約=トラーを守り生きると言う意識は異邦人の中に最初から全くなかった。

2 ローマ帝国に処刑されるくらいなら、メシアを信じて後の神の教え=モーセの五書の中身など、ローマ帝国の勅令に逆らってまで生きるのはやめよう、ローマ帝国に対して、イシュアが生きたヘブライ的な生き方をして目立つ様な事はやめようと考えた。

そして西洋教父達が様々にモーセの五書を否定する聖書ではない新しい教えを次々と編み出した。

3その結果、彼らはローマ帝国、ローマ皇帝を崇拝する日、そして地場宗教の太陽神の日、サン=太陽、サンデー、日曜日を崇拝する日と変えた。本当に人間の単純な理由づけで、神の記念日を変更した。神の言葉も変え、混ぜ物の教えの新宗教を作った。

4 モーセの五書、ヘブライ色ある一切を生きる事をローマ帝国に禁じられたので、異邦人は、ユダヤ人のグループやパウロの様なトラー教師から完全に離れて独自の新宗教=カトリックを生きる路線へと決裂し、4世紀以降、ローマ帝国教=カトリック=

ユニバーサルが作られた後は、ユダヤ人と異邦人は完全に決別し、ユダヤ人イエシュア信者はそれ以降歴史書の中でもあまり

話題に上らなくなった。

 

西洋教父達はローマ帝国の汚れた動物を食する文化に馴染んでいて、きよくない動物を元々食していた異邦人は、今までと変わらない食生活を続けるだけで何の抵抗感もありません。

聖書には、単にきよい動物、きよくない動物、きよい動物は食べられる、きよくない動物は人は食べてはダメとシンプルに伝えられているだけ、それらの動物の外見的特徴だけが述べられ、そして陸の動物では、反芻するもの、そしてその他の特徴が全部きよい動物として備わっていれば食せるものであると言う解説がされているだけで、それらの動物の細かい内側の性質に付いては書かれていません。

でも神ははっきりと、それらきよく無い動物、食べるのにフィッツとしていない、食するに適さない動物は、あなたには汚れているものであるから、あなたが食べてはならないもの!

”あなた方はそれら汚れた動物を食して自分を汚してはならない。

わたしが聖であるから、あなた方も聖でなければならない。”

と神の口から直接語られているこの言葉は今日も今もこの時間も

同じなのです。 レビ記11:45

はっきり神の口から伝えられている永遠不変の真理を聞くも聞かないのもその人個人の選択なのです。

でも神が神の言葉を変えた、昇天以降汚れた動物、清掃動物は

食せる様になったなどと言う偽りは言ってはならない事です

他者に対して神が伝える真実を聞く妨害する権利は人間には与えられていないからです。

今も同じでしょう。安全ではないものを安全で〜すと宣伝し、

人類に対してどれほどのヴァイオレーション、違反、破壊行為を

強制させているのか。調べれば調べるほど真実は浮き上がって来るものなのです。イスラエルの中で、今回の一連の出来事で安全に守られている人達は、トラーを知って生きている人達です。

神の言葉を無視し無頓着に生きている人達は、この世のプランに

巻き込まれ、何をさせられているのかにも全く気がつかない眠った状態で命の危険にさらされたのです。

 

人に取り、何が安全で何が食せる動物であり、何が食せない動物なのか、本当の事を神が人に伝えているのです。神が人に相応しい動物を創造し、清掃目的の動物を造られたからです。その神の言葉を無視するのもしないのも、それぞれ個人個人の問題です。神の言葉を聞いて守る人は安全に守られ、神の言葉を無視する人は危険にさらされてしまう。しかも、自分だけではなく周りにも病気を伝染させてしまうのです。神の言葉を無視し、神のデザイン、意図通りに神の創造された世界を治めない結果、環境破壊そして人の生き方の破壊がずっと続いてその代償を受けているのです。

それらの動物が今ではどんな性質、構造の動物であるのか分かる様になり、なるほど人が食してはならない動物は、単純に毒を体の中に多く溜め込む、消化器官が未熟な動物である事が明らかになっています。そして、それらの動物、生物の性質を通して人の生き方が分かる、神のものと、そうではないものの性質に対して、はっきりと神が境界線を敷いている、聖別を教えているものでもあるのです。

 

だから神の家の祭壇の上に捧げられる動物は、きよい動物でなければならないと神が指定して、エルサレムの神殿を汚し、偶像を運び込み、きよくない動物を捧げた異教徒達、神の神殿を偶像と祭壇を汚した代表として表される動物=豚が捧げられたと書かれています。それを荒らす忌むべきものの行為として聖書に記されて、実際に歴史の中で神殿が荒らされて、そしてもう一度未来にハヌカの祭りの背景にある事件と同じ事が起きると預言されています。

ダニエル11:31 彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、
常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てるでしょう。12:11 常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。

 

これらきよくない動物の特徴を共有する生き物は節足動物と呼ばれるグループに属し、クモやムカデなどの動物も含まれます。 

昆虫と甲殻類が特に密接な関係に属するものです。非常に近いので、彼らはパンクラスタセアと呼ばれる独自のグループに属しています。
つまり、エビ、ロブスター、およびその他の甲殻類は、ゴキブリだけでなく、他のすべての昆虫とも非常に密接に関連し、同じ性質を共有している生物なのです。

英語では、エビを”海のゴキブリ”と呼びます。なぜでしょうか?

エビが海のゴキブリと呼ばれるのは、ゴキブリとの類似点が多いからです。同じ部類、性質の生物だからです。ゴキブリとエビは食生活が似ており、どちらも冷血動物で、共通の行動特性を持ち、どちらもスカベンジャー=腐肉食=ゴミ、死骸、何でも食べる、菌やウイルスを運ぶ汚い生物だからです。

エビがテーブルに乗っても何とも思わないけれど、ゴキブリが

テーブルを這うと悲鳴を上げますよね。汚い、菌、ウイルスを運び回る忌まわしい生物だと認識しているからです。

豚も、ネズミも同じです。豚など想像する限りの全ての汚物を

食べる動物。。排泄物、死骸、菌、ゴミ、腐敗物なんでも食する

寄生虫、病原菌の宝庫。

アジア圏ではゴキブリをデリカシーとして食したり、漢方として

使うらしいですが、エビとゴキブリの味は同じだそうです。

同じカテゴリーに属する生物だからでしょう。

 

口には甘く腹には苦い。

私達は同じ仲間〜!

貝類は貝毒と言うくらい、様々な食中毒を起こす要因になる生物です。

貝の特徴はしっかり口を閉じています。毒をしっかり内側に溜め込む性質です。それらは神の性質に造られた人の性質とは正反対

異なるものです。

人のした悪を思わず〜思い続けず〜とありますが、その様な毒を

内側に保存し温め続ける行為は、人を破壊する、貝の様に毒を

しっかり内側に溜め込んではダメと、貝の性質を見ても教えられる真理です。

鱗のない魚は、その血液を飲むと危ないそうです。フグなど体の

中に人を殺す事が出来る毒を内蔵、血液、筋肉に抱え込んでいる生物なのです。フグ=河豚と書きますね。

鱗がない〜無防備であり、毒をなんでもかんでもそのまま浸透させ内側に取り入れる生物。無防備=神の言葉で頭脳がガードされていない場合、何でもかんでも神に属さない人の教えでも、ありがたく自分の頭脳に取り入れ、自分の思考回路の1部としてしまう警告でもあります。2コリント10:5。

鱗〜神の言葉〜安全に守られる保護ガード。

 

続く