~ 或る阿呆の話 ~ turbo Ver1.03 -3ページ目

~ 家族ゲーム リターンズ ~

夕方、上司の飲みに行くぞという無言の圧力を三文役者のような演技で紙一重にかわし、

するすると帰宅する。


長らく病院に入り浸っていた母が幾分ふくよかになって唐突に帰ってきた。

無双山に激似の板前の弟が腕を振るってご馳走を拵えて、愉快な夕餉に与る。

四十不満ばかり言っている祖父が実はパーキンソン病だったということを知り、

なんとなくほこらしげに思う。

マイケル・J・フォックスと同じだなんて祖父はあれでいてなかなかやるなぁと思った。


何気に 大好きなNHKの歌謡番組を見ながら、焼酎を啜る。

さながら場末のスナックのようだ。


10時前なのだけれど、もう寝ます。


一抹の寂しさ

 曖昧な田舎のわたし

どうも僕のぬるま湯のようなスタンスがいけないらしく、
それで結局余計に揉めてしまうことが極々たまにある。
八方美人の八方塞がり、逃げようにも道がない、という窮地に追い込まれることとなる。


物事に白黒をつけるのは正直大の苦手だ。
出来るだけ曖昧な、霞がかった感じが好きだし、それで自分自身は少なからず納得している。
けれど、ひとたび、利害関係が網の目に張り巡らされている社会に出たら、
まずそういうわけにはいかない、というのも阿呆の僕は知ってはいる。
けど、せめてプライベートくらいは肩の力を抜いてゆるゆると過ごしたい。
Take It Easy,その意味で老人の生活は少しだけうらやましいような気もする。


元来物事に白黒などないわけで、それはほんの一つの考え方である。
物事それ自体は黒でもなければ白でもない、
それこそほんとうに曖昧模糊な何かなのである。
そういうひどく不分明なものをありのまま、ほんとうの意味で理解するためには、白や黒のレンズを通すのではなく、それ自体をそのままの状態で理解するのでなければだめだ。
けれど、そんなやり方では人に説明できないし、胸焼けもきっとするだろうから、
大抵は白や黒といった分け方の比較的わかりやすい二者択一式の方法が好まれる。


と、寝る前に寝言をひとつ言ってみる。。zzz。

・・・・・ 宴の あと ・・・・・・

12時間耐久飲酒パーティから一夜明け、
幾分放心状態、且つ不明瞭な意識のなか、ブログを更新してみる。
忙しさにかまけ、気がつけば一週間近くも更新を疎かにしてしまった。
まぁ、或る友人の言ではないが、
「(おまえが思っているほど)おまえには誰も期待してないよ。」
と言われるのは百も承知ではあるのだけれど。(苦笑)
 
(※ 皆様昨日は本当にお疲れ様でした。
実に楽しい気分で一夜を過ごせたことを感謝しています。)

 

ある程度普段の冷静さを取り戻してから選挙に行こうと思う。
じゃないと、勢いだけで投票してしまいそうな恐れがあるので。
例えば、こんな人に謝って一票入れてしまう可能性もなくはない。
まぁ、選挙区がちがうからそのあたりは問題ないのだが。


→ <http://blog.livedoor.jp/sidousya444/

(GO!ヒロミ44’の毒舌天国@Blog) 山下万葉氏関連の文章参照。


ー閑話休題ー。

 

昨日は加賀の前田慶次郎をひそかにリスペクトする平成の草々の一民として
自分なりに傾(かぶ)いた服装をしてみた僕だったが、
どうもご婦人方からの評判がイマイチ宜しくない。
日本社会に、男女平等の理念が浸透して久しいが、
男子の過度の洒落っ気は今の世ではあまり歓迎はされないらしい。

テロや災害、日常的に頻発する犯罪に対する心配など、それはあるが、
それでも今の日本は戦国時代や戦前の大戦期に比べたらかなり平和になったとは思う。
世が平和になると、自然男性が女性化すると言われている。
これは僕なりの解釈(我田引水だけどね、)だが、
男子の洒落っ気もそういうことの一例なんだとは思う。
江戸の旦那衆の粋な着流し然り。
”パックス ロマーナ”の男子の装い然り。

(↓ 一々例えが大きすぎますが、実際は言うほどたいしたことのないこんな格好でした。

花柄のジャケットっていうだけの。 )


僕なりの・・。

 と、結局いつもながらに言い訳がましい僕だが、
色々な意味に於いて、
自らの感覚・志向が若干面可しな方向にずれているのは自分でもわかってはいる。
けれど、僕もこれでそれなりな年齢になってしまったし、
もう急には色々変えられるものではなくなってしまったから、
こればかりはもうどうしようもない。
それに、何彼とやかく言われようと、実はそんなに気にならなかったりする。
老獪な薄ら笑いでもって、頑迷固陋をひた隠すのは皆さんご存知の処世術の一つ。

 


あっ、今日もナンだか蒸しますねぇ・・・。

隣人は密やかに嗤ふ

ナザレのイエスはかつてこう言った。
「汝自身を愛するが如く汝の隣人を愛せよ」と。

特定の宗教・思想に対する信心を僕は今までまったく持ったことはないし、
今現在も尚持ってはいない。

ただただ毎日ビールを飲んでひとりご機嫌に暮らしている。

けれど、こんな酔いどれにでも宗教と信仰には多くの学ぶべき点があるとは思う。
だから酒の勢いを含めても未だかつてそれらに対し否定をした経験は一度としてない。
そう自分では記憶している。確たる証拠は何もないのだが。


しつこいようだが、最近病院にばかり行っている。
うちの母はそんな僕なんかよりももっともっとヘビーユーザーで、
勢い余って入院までするようになった。

病院三昧この上ない。

そんな母が子供のような無邪気な顔で僕にこんな話をした。

 

先日、気分転換に病院のロビーでテレビを見るため、母が病室からロビーに向かうと、
あたり構わず泣きじゃくるひとりの老婆がいた。
彼女が結構な大音声を響かせているので、その理由がどうも気になる。
近くまで行ってその様子を観察してみよう、そう思った。
 どうやら彼女はテレビを見てワンワン声をあげているようだった。
テレビでは多くの死者が出た悲惨な事故の映像が放映されており、
その犠牲となった見ず知らない人達が不憫で仕方がないと老婆は泣いていたのだ。
病院に来る前にも家で散々涙を流してきたというのは、病院仲間の彼女の友人の話。


これは憶測(それも幾分不遜な)以外の何物でもないが、
彼女は「汝自身を愛するが如く汝の隣人を愛した」が故に涙を流したのかもしれない。
が、何ゆえに彼女は滑稽だったのか?
母の話を聞いて僕はちょっと考えた。
欧米人に気味悪がれる”ジャパニーズ スマイル”を習慣的に浮かべながら。


隣人を自分自身のように愛するというのは並大抵のことで出来るものではない。
そのはっきりとした真意は残念ながら僕にはわからないが。
けれど、自らの感情のうねりを他者に向けるというは、僕と同じくらい、いや僕以上にその意味が全然わかっていないのではないのか。
毎日世界中で悲しいことがおき、そのひとつひとつを悲しんでいたらそれだけで人生は終わってしまう。
 
人生は短い。


そして、そんな人生こそよっぽど悲しい。


飲酒で赤くなった顔をお面で隠し、夜道をふらふら歩いていたら,出し抜けに
「偽者!」と罵声を浴びる。
そんなデクノボウの話。

あばば。

‘;、→ デカタンスの季節 ←;‘,

時代がまだ大正だった頃、
旧制高校の学生間で大ブレイクしたというこの言葉だが、
今では全くもって聞かなくなった。
死語のうちでもおそらくトップクラスにランクインするのではないかとさえ思われる。


僕は昭和の第二次ベビーブームの世代だが、
何をどう間違ってそうなったのかはわからないけれども、
一端の文学青年気取りで学生時代を過ごしてしまったので、
” デカタンス ”という言葉は当時の友人間ではよく口の端にのぼる、
非常に親しみのある言葉なのだが(笑)。

けれど、僕らが言うところのそれは、どう転んでも結局は単なるポーズに過ぎなかった。
御茶ノ水の鄙びた喫茶店で、真昼間に洋酒の入った珈琲をちびちびと啜りながら、
神田の古本屋で買ってきた、何が書いてあるんだかさっぱりわからない哲学書をペラペラとめくり、
独り悦に入るという、無闇に喫茶店の給仕さんを不快にさせるだけの、
まだまだ可愛い類の遊戯だった。(「キモい」説も有力だが!)


一般にはデカタンスは死語と化してしまったけれど、それは言葉上のことだけであって、
実際には目もあてられないほどの悲惨で、無自覚なデカタンスに蝕まれている人達は何時の時代も必ず居る。
それもごく近しい人がそうだったことに気付いた時のこのきまりの悪さ。


自分の想像力を総動員しても理解不能な人の行動・思考パターンに遭遇すると、
自己はその他者に対し、強い拒絶を示すかあるいは、判断を即座に停止する。
いづれにしてもこの眩暈と悪寒から逃れることはできない。


可愛らしくも恐ろしい「カトリーナ」報道を発泡酒片手に眺めながらも複雑な心境。
米国の虚栄がはっきりと露呈し、わかってはいたんだがなんだかなぁ。。


あっ、すいません・・・。
柄にもなく怪気炎吐いちゃいました・・・・。

三十路手前の茫漠独語でした。

生まれ出づるちっぽけな悩み

久々に上司に誘われて、断りきれず、じゃあ割り勘でならと、場末のスナックに飲みに行く。
仕事の話を延々と2,3時間。


アーリア人のような芸術的な顔立ちの若い男性にお酌をしてもらったら、

男色の気など無いはずなのに、何故か「これは悪くないな。」と思った。
気がつけばボトルは空。

何の因果で一緒に居るのか知らないが、

一人の美青年と中年男性のこのトリオ。


明日はどうも起きられなさそう。


人並みに悩み、人並みに苦労する。

オール3の毎日。

酩酊しているので、今夜はここまで。
あー、頭が痛い。

そしてまだ眠い。

舌先三寸 舌足らず。

日本は世界有数の長寿大国だ、というと何となく聞こえはよいのかもしれないが、
その実際はというと、そんなに明るい話ではないのはちょっと考えればおそらく誰にでもわかるはずだ。

長生きをするということは言い方はおかしいが、なかなか死なないということである。
けれども、人は、そして生きとし生けるもの全ては必ず死ぬという絶対的な真実がある。
太古の昔、アテネでソクラテス翁が言っていた、「よく生きるということ」。
何もご長寿の方々の生活が怠慢であるなどと非難するわけではない。
そんなことをするのはもっとも愚かな行為である。
自分が老いらないとでも思い込んでいる合理主義者気取りの無知な若者のすることだ。

ただ、この残暑で、10年前に従妹が祭りの露店で掬ってきた金魚が昨日全滅してしまったので、
なんともやるせない気持ちでいるだけなんです。。。
祖父がまだ幼かった従妹(外孫)に金魚を貰って、それからずっと一人で可愛がっていたのだが、
高齢のために思うように体が動かず、その世話も最近ではどうやら怠っていたようで、
そのために今回のようなことが起きてしまった・・・。
あ~あ、祖父のことに気付きながら、
なんでもっとはやく金魚の世話のことにも気付かなかったんだろうと思うが、
今更もうどうしようもない。


今日昼寝をしていたら、猫が三匹夢に出てきた。
猫の夢を見たのはこれが生まれてはじめての経験。
これは一体何の暗示?
ご存知の方がいらっしゃれば是非ともお聞きしたいのですけれども。。
あっ、あっ。悪い暗示なら厭な気分になるので、やっぱ止めときます。


迷信家っぷり未だ健在のこんな日曜日。
鈍牛のような速度ではありますが、日々見聞を広めております。

多弁無用は承知しているのだけれど・・・・。

 男子のクセに話好きで、お喋りを我慢することがどうしても出来ない。
時に寡黙なハードボイルドを演じてみようと試みるが、三日も続いた試しがない。

その割には幼少のころより一人遊びするのが好きで、ずっと一人で過ごすことの方が多い。
この思考と現実の間に在る齟齬。気付いてはいるが今更どうしようもない。
なので、今日も喋り倒す。
まぁ、結局独り言なんですけどね(笑)。


 もう少し日が傾いたら、2年前に鬼籍に入った友人の仏壇に線香を添えに行こう。
友達のじいさんの人生訓を大人しく小一時間聞かなければいけないのはちょっと辛いけど。
友達は僕なんかよりもずっと無茶な人生を送った奴だったが、仲間に対してはすごくイイ奴だった。
ある意味ギャング映画に出てくるギャングみたいな奴だ。
ただ酒癖がどうにもこうにも悪かった。こんな話を先週旧友と居酒屋で話した。



美は乱調に無しっ!

世は平成真っ盛り(初耳だけど)であるが、
江戸の昔より浮世の疲れは浮き世風呂で洗い流すのが一番だと相場は決まっている。
 けれど、僕が住んでいる片田舎には東京にあるような銭湯が一軒もない。
それで、しようが無しにその近似的感覚を味わうことが出来る、温水プールに足繁く通うことになる。
が、最近では安月給のくせして仕事が無闇に忙しく、プールにも思うように行けてない。
「ケガレ」が体中を覆い、挙句、帰り道一人車中で「畜生めっ」を矢鱈と連呼する何とも品の無い自分がいることに気付いた。

思うに、誰にとっても生活には一定の調律は必要だ。
きまった時間にきまったことをするという自己内ルールを持つこと。
そうやって自分を或る意味拘束することによって、逆説的だけれども

そこにささやかな” 自由 ”を感じることができるのだと思う。
誰しもが若かりし時に一度は懐く「無制限の自由」への憧憬など、実際には陳腐な観念にすぎない。

 霞食っても腹は全然満たされないのだよと、今日も今日とて★生悟りブギ☆≡


 お風呂繋がりというだけで言うと、
しばらく前に出版されたジャン・フィリップ・トゥーサンの『浴室』という本がある。

ジャン‐フィリップ トゥーサン, Jean‐Philippe Toussaint, 野崎 歓
浴室


たしか、或る青年が何かの弾みで風呂場に引き篭もってしまう話で、これはこれで現代的だ、と無難すぎる意見を言ってみる。

ほこりだらけの家の本棚に行くのが億劫なのでamazonから写真を拝借っと。

ブックオフで叩き売られているし、誰のリクエストもないのだけれども。

 

 よっしゃ、そろそろ風呂入ってこよっ。


好色一代男のプチ煩悶。。

 今は昔、独り英雄気取りで色好みだった男は、
今や日常の些細なことで、思い悩み、戻り打っている。
 

 生ぬるい風とともに流れる有限なる時間を半笑いに付した者が、
足元を無様にも掬われて、膝小僧を擦りむき、尻餅をつくことのこの滑稽さ!!
アノ達観が虚妄だったことをまたしてもここで知り、慌てて鏡を覗き込むと、

化粧の剥げかけたみすぼらしい道化師が映っていたというただそれだけの話だ。

 遠くばかりを眺め続け、この世のことではない神話的空想に浸っていたら、
すぐそこにある古池に嵌りそうになる、
そんな古めかしい寓話だけをもってして喩される、
単純極まる男。


 な~んて、長時間シャワートイレで臀部を水圧で痛めつけながら、
平成式 ” 考える人 ”ごっこに夢中になってしまったのは、100%この暑さのせいだっ!

こんな日は沖縄を思い出すなぁ。(ぶつ、ぶつ、ぶつ・・)

トイレのドアに貼ってある、 ” 親父の小言 ”が僕をますます滅入らせる。。。


相手の気持ちを充分に察して、適切な表現でもって対話に臨むのは、
今更ながらとても難しいことだと思う。
軽佻浮薄で無粋の徒の男にそれは尚更のこと。


何を思ったか、ふとデューク・東郷を見習おうとしてみる。
こんなZIPPOで煙草に火をつけてみる。

あらら、ピンボケだけど・・・。煙草やめなきゃなぁ・・。