生き晒すということ
太宰治の処女短編集に『晩年』という逆説的なタイトルが付されているのを、若かりしとき僕は不思議に思った。不遜を承知で言えば、「何を言うこの青二才がっ!」とも思ったほどである。
けれど、僕は今彼の当時の心境が手に取るようにわかる。人生はほんの一瞬の間しか輝きを放たないのだ、残るのはただ無闇に長い文字通りの“晩年”だけなのである、と。
僕なんか非凡な才能の一つもない、凡庸の極みのような男である。こんな僕でも人生はあまりにも長いと思わざるを得ないことが多々ある。「一体何をすればいいのだろう?」と考えてからもう何年経ったのかさえ忘れてしまった。
結局僕は相変わらず何もせず、だらだらと、肥えた腹をさすりながら毎日のらりくらりと生活している。
けれどこれでいいのだと思う。A・カミュの「人生は生きるに値しない」という言葉ではないけれど、何かを為すなどという志はなくたって別段困りはしないのだ。“虚無”というと空虚に響いてしまうけど、人生は虚無である。あって無きがごとしである。これは論証を待つまでもない。
だから今日も僕は自分を生き晒す。
体のあちこちにガタがきていて何となく面可しい。
軽自動車という快楽
仕事をさっさときりあげて、欲望という名の軽自動車を無闇に走らせてみた。
今まで、世間が言うところのまっとうな生活というものを送ってこなかった僕は、もちろん車など所有したことがなかった。
みんなが10代後半~20代前半で味わうだろうこの快楽を、僕は遅咲きの桜ヨロシク今現在ようやく味わっているのである。
車を運転するのが楽しくて仕方がない毎日。僕は僕の軽自動車と一体となり、道という道をぐんぐん進む。
今まで僕は何をしてきたのだろう?そう軽自動車のなかで自問してみる。
そうだった、僕はこの平々凡々な生活の真意を知るために、余りにも遠い回り道をしてきたのだった。
そして今僕はささやかな空間を占める軽自動車を走らせて、この生活のささやかさを伸び始めたひげを気にしながらも感じている。
俗物であることの誇りよ。
32歳の投げキッス
とある冬の凍えるような午後に、某有名コーヒーショップで小一時間の談笑を僕と楽しんだ、南国から来た褐色の彼女は別れ際、僕にキッスを投げてよこした。
クソ田舎の雑踏にはとても不釣合いなその愛くるしい仕草。なんとナチュラルなその振る舞い。
そんな彼女は御歳32歳で、母国には九つになる娘がいる立派なママだった。
そんなママらしからぬ可愛い彼女と甘いミルクコーヒーを一緒に啜りながら、阿呆な僕は自分のしょうもないこれからの生活について語り、彼女は僕に親切にアドバイスをくれた。
こんな阿呆のお話です。第一夜はこれにておしまい。