生き晒すということ | ~ 或る阿呆の話 ~ turbo Ver1.03

生き晒すということ

 太宰治の処女短編集に『晩年』という逆説的なタイトルが付されているのを、若かりしとき僕は不思議に思った。不遜を承知で言えば、「何を言うこの青二才がっ!」とも思ったほどである。


 けれど、僕は今彼の当時の心境が手に取るようにわかる。人生はほんの一瞬の間しか輝きを放たないのだ、残るのはただ無闇に長い文字通りの“晩年”だけなのである、と。


 僕なんか非凡な才能の一つもない、凡庸の極みのような男である。こんな僕でも人生はあまりにも長いと思わざるを得ないことが多々ある。「一体何をすればいいのだろう?」と考えてからもう何年経ったのかさえ忘れてしまった。

結局僕は相変わらず何もせず、だらだらと、肥えた腹をさすりながら毎日のらりくらりと生活している。

 けれどこれでいいのだと思う。A・カミュの「人生は生きるに値しない」という言葉ではないけれど、何かを為すなどという志はなくたって別段困りはしないのだ。“虚無”というと空虚に響いてしまうけど、人生は虚無である。あって無きがごとしである。これは論証を待つまでもない。

 だから今日も僕は自分を生き晒す。

体のあちこちにガタがきていて何となく面可しい。