状況依存
日本の文化では、主体を置かず、状況で動く。だから文章には主語を置く必要がない。たとえば近代の西欧語では、動詞がいちいち人称変化するにも拘わらず、人称代名詞を必ず主語に置く。I am a boy.というわけだが、この I (アイ)は不要だとお気付きだろうか。am の主語に立つには I(アイ)しかない。それなら I(アイ)をいちいち言う必要はない。
am とあれば I が先立つに決まっている。現にラテン語では言わない。デカルトの「われ思う」の場合なら、フランス語では「われje」がいるが、ラテン語ならcogitoの一言で済む。
欧米の家庭にお邪魔すると「お茶にしますか。コーヒーにしますか」と訊かれる。その真意は、客の嗜好を大切にしているからではない。現在の状況でお茶か、コーヒーかを決定する主体が存在する。それは「あなた」だ。つまりメタメッセージとして主体の存在を押し付けている。その主体が「選択」をする。アメリカの文化では、この「われ」を具体的に選択と言い換えてしまった。そう考えてもいいだろう。
だから三歳の子供が、誕生日のお祝いに、木製のオモチャの車をもらう場面で、周囲の大人が口々に言う。「この車の色を決めるのはお前だよ」と。
アメリカ人なら小さい時から、「自分選択をする」ことを押し付けられる。客が座れば、黙って飲みごろのお茶と羊羹が出て来る。そういう文化ではない。
主体性という言葉に、若い時は悩まされた。学生運動華やかなりしころ、一度くらいは聞いたことがあるのではなかろうか。いまではもういわない。今の若者は、主体性とは何のことかと思うに違いない。自己責任という言葉がその代わりに時には使われる。とはいえ、日本社会で自己責任という言葉は有効ではない。それは選択がないからである。自分と言う主体が存在して、それが選択したのだから、結果は主体、つまり本人である。でも多くの人が、暗黙にはそうは考えていない。問題は選択ではなく状況なんだから、陛下のご聖断が「やむなきに至りぬ」だったことを思えば、当然であろう。選択しようにも状況はもはやのっぴきならない。これが日本社会の殺し文句である。
戦争責任という言葉が日本でじつは意味をもたないのも、そのためであろう。あの状況では戦うしかなかった。そう思っているから、その責任といわれても。状況に責任を負わせるしかない。では当時の状況を完全に説明できるかというなら、そんなことは初めから不可能に決まっている。
だから「戦争責任があいまいだ。ドイツを見ろ」となるわけだが、欧米なら話は簡単である。「ナチが悪い」「ヒットラーが悪い」で根本的には済んでしまう。欧米全体が主体と言う共同幻想をもつからである。
(続く)
Q翁:強大な軍事力を持つ、ロシアが、殆ど軍事力持たないと思われていたウクライナに侵略した。当初は越境して進撃するロシア軍は、2時間で首都キエフを陥落さえ、ロシア傀儡政権を樹立し、この戦争は終結するであろうと思われた。いや ロシアはそう豪語していた。
ところが、ロシ軍は、予期しなかったウクライナ国民の反撃にあって、進撃を阻止された。3週間「立って、戦争終結は、見込めない。
焦って苛立つロシア非人道的無差別攻撃を行っている。第二次大戦末期、殆ど死に体になっている日本に対し、アメリカは原爆投下を決断した。通常兵器で日本本土決戦をした場合、さらに100万人のアメリカ兵の命が失われるという、勝手な試算を根拠に、トルーマン大統領は、原爆投下を決めたという。真偽のほどは分からないが、原爆投下を行うことを、アメリカ大統領から聞かされたイギリスのチャーチル首相は、「天国で、神の前に立たされたとき、あなたは何と言い訳するのか」とトルーマンに言ったという。その時、トルーマンは、日本人は人間ではない。ゴキブリみたいなものだ」と答えたという。
さてプーチン大統領は、ウクライナの人々をどう思っているのだろうか。口に飛び込んできた虫と同じだと言っているらしい。吐きだし、捨てるしかないだろうという。しかし、第二次大戦末期とは違い、ロシアの非人道的戦争犯罪は、世界に映像として瞬時に流されている。隠蔽することは不可能な時代になっている。プーチンはそのことを理解しているのか?
第二次大戦末期と、今のロシア、ウクライナ戦争の様相は非常に似通っている。核兵器の使用も、生物化学兵器の使用も、現実味を帯びているのである。「まさか」と思っているのは、日本人だけかもしれない。