3月28日、現聖書研究会の方々が、面会に見えた。久ぶりに、楽しい一時を過ごした。そして、翌日、尿色が茶褐色になった。喉が渇くことの2点をラインで息子に通報。息子から往診ドクター阪口女医さんに電話。直ぐに阪口女医さんが来訪。フェントステープ0,15mmを手配。訪問看護師さん、週1回を毎日に改めるよう指示された。(口にはださないが、いつ死んでもおかしくない状態「らしい)

 

其の他最終段階で使用するクスリなど、冷蔵庫に保管するよう指示。30日午前・午後と訪問看護師来訪。足湯マッサージなどをしてくれる。聖書の主イエスの足洗いの光景が頭に浮かぶ。生まれて初めて、足湯マッサージを受け、感動する。

左手首付近内出血。血小板が少なくなっているので、止むを得ないという。

 

那須から息子夫婦、介護住み込みで来訪。

 

3月31日、午前訪問介護士中村、須原両看護師来訪。足湯マーッサージをしてくれる。息子夫婦那須に急用ができて帰る。

午後、中村看護師来訪、フェントス テープ張替えに見える。

 

夕刻から息切れを感じるようになった。電話で会話するのも息苦しい。

 

4月1日。朝から息苦しい。

 

阪口往診医11:30来訪。血液データから見ると、現在このように、生きているのは奇蹟らしい。我ながら何故生かされているのかわからない。新薬レスキューを処方される。モルヒネらしい。息苦しいとき服用するように指示される。未だ服用せず、何とか耐えている。

 

 

病状かなり厳しく、生きていることが奇蹟と医師にいわれる状況になり、本日の礼拝説教ブログは記載できません。悪しからずご容赦ください。

 

と思いつつ、残された気力体力で、記述を始めました。

 

ユダヤ人は。旧約聖書の律法を重んじ、割礼を受けるていることを誇りとし、律法を持たず、割礼を受けていない異邦人たちを裁いていたのです。パウロはそのように人を裁く姿勢の中にこそ、罪があり、ユダヤ人達の熱心に立法を守る姿勢は、実際の律法の精神にいきるのではなく、形式的に律法を守って、人間の業によって、義を主張しようとしていることなのだと指摘したのです。

 

 本日の説教ではパウロがアブラハムを取り上げています。アブラハムはイスラエルの民にとって、信仰の父祖です。主なる神は、アブラハムに救いの約束を語り、「わたしが示す地に行きなさい」と命じます。この呼びかけに対して、アブラハムが、生まれ故郷を離れて、旅立ったことによって、神の救いの御業は始まったのです。ユダヤ人たちは、アブラハムを尊敬し、アブラハムを誇っていました。アブラハムの名を挙げ、もしも、皆、罪人で、人間の業は関係ないのであれば あの誰もが認める信仰の父、アブラハムはどうなのかという問いが生まれてきたのです。

 

ここでパウロははっきりと言います。「もし、彼が行いによって義とされるのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」

 

そして、パウロは、そのアブラハムの行いが立派だったから義とされるという受け止め方は正しくないと指摘するのです。

 

そして3節には、『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた。』とあります。これは創世記15章6節の引用です。

 

すなわち「信仰義認」は、キリストによって始められたのではなく、アブラハムから、つまり神の救いの歴史の最初から示されていたのです。

 

アブラハムは、神との約束を信じ、人間には不可能「だと思われる約束を信じ、神に委ねたのです。(詳細創世記参照)

 

さらにパウロは、信仰義認という救いは、無償であることを強調します。すなわち、民が負っている負債を神が無償で贖ってくださるのです。

 

パウロは例として「、旧約聖書に登場するダビデ王をとりあげます。(何度もこのブログでも述べているので詳細記述省略します)

 

アブラハムもダビデ王「も、人間の業によって救いを得たのではなく、神の恵みによる救いを受け止め、ただ神を見上げて歩んだのです。

 

割礼のないままには、省略します。割礼議論など、イスラエルの民には重要かもしれませんが、私たちには、他人事に聞こえるからです。

 

いまQ翁はすべてっを神に委ね、生かされています。