まえがき

 

人間は小学校に行く頃には、いつか自意識が生まれる。というが、私は子供の頃から、若い娘と言われる年齢に移る時も、年齢による自我の変化などを感じたこともなかった。

 

 私の内面には、続きの「癖のある困った私」が居座っていて、それが年相応にいつも出しゃばって、来るという感じだったのである。

 

 少なくとも「老後」といわれる年齢になると、人間の性格もその人なりに安定するのもと思われている。

 

 論壇によると、「不惑」は四十歳である。通俗的に言っても、四十歳くらいになると、人間は惑っている暇はない。子供が次々に進学する。家を持ち、家を建てて当然の年だ。ましてやそんなことにあたふたと追い込まれているうちに自分の体も更年期を迎える。まだ老人ではないが、少なくとも中年真っ盛りが初老に、足を突っ込む年となったのである。

 

 すると重病ではないが、体のあちこちに故障が出る。しかし、それをごまかして、とにかく日々を生きていかねばならないのが、中年だ。会社でも「管理職になってみると少しも嬉しくないポスト」だと言った人がいた。

 

 そういう出世に関する苦労と 小説家の世界はあまり関係ない。

 

 小説家には「出世街道」とでも言うべきものがない。呼び名を見れば、それがよくわかる。新人の頃は「小説家」、そのうちだんだん「中説家」と呼ばれるようになり。死ぬ頃には「大説家」になる道が開いているなら、この道にも確実に出世があるのだとわかる。

 

 しかし、今述べたような仕組みで、この道に出世はない。何歳まで仕事を続けても「小説家」だ。まるで老人にならない青年のようではあるが…。

 

 実を言うと、不惑などという状態を現世に求めず、老後も不惑などと希望すべきではないように思う。人間は生きている限り呼吸するように迷うのが当然だからだ。

 

 しかし、年を取れば、経験は増えるから、結果の形も、少し読めるようになる。そこで無駄なエネルギーや手間が省ける。その時初めて老人が自由人になるのである。

 

 表現というものは面白い。「私は迷いません」という言葉には、現実に迷わずに済む人間になっているという他に、迷わない人間でありたい、という願いも込められている場合がある。

 

 「不惑」などという言葉には現実が示されているより、希求の割合が多いように思う。老後はもう先が短い。迷っていたら死んでしまう。そこで人間は悪知恵を働かせて、迷わないことで、「ない時間」を稼ぎ出したのだ。

 

 悠々自適の状態の人間は素顔が輝いているという。追い詰められた人間も、必死の自我を出す。

 

 さて不惑になったら、人間はどんな顔を見せるか、ということだ。ぼろぼろか、生き生きか、きょろきょろか。

 

いささかの「老後の設計はしたいところだが、果たして誰にとってもそれは可能かどうかわからない。

 

二〇一九年四月

 

曽野綾子

 

Q翁:今日本では9割近い人が、病院で最期を迎えているという。これは医療の大きな無駄を強いることになるというので、政府は、自宅死を推奨している。しかし、これはなかなか実行されない。ひと昔前は、多くの人が自宅で最期を迎えていた。家族もその心構えができていた。

しかし、今の時代は違う。少し容態が悪ければ、直ぐ救急車を呼ぶ。病院で可能な措置が行われれば、後遺症の残る大部分の人は、施設に搬入される。そこで容態が悪くなれば、施設と契約している病院に搬入され、そこで最期を迎える。これが多くの人が描く、老人介護の在り方の常識のようになっている。

 

 しかし病の中には、Q翁のように、このパターンに乗れない病もあるのである。白血病(骨髄異形成症候群)という不治の病である。取り敢えず対応できるのは輸血しかない。これは現状の貧血の苦しみを少しでも柔らげるもので、治療には当たらない。

 

 こうなると、受け入れてくれる病院も施設もなくなる。笑福亭仁鶴師匠が、この病で亡くなられたが、やはり亡くなられた場所は自宅であった。

 

 Q翁は、最期に臨んで、一切の心臓マッサージ、人工呼吸、及び抗癌剤治療をお断りする旨、宣誓、署名した。同時に往診ドクター(死亡診断書を書いて下さるドクター)との契約をお願いした。

 

 さらにその前から、訪問看護師会と契約し、24時間看護師の来訪が可能になるよう契約した。もちろん自分が最期を迎えるときは、意識がないであろうから、最初に訪問看護師会に連絡し、そこから往診ドクターに繋いでいただくよう、息子夫婦にも伝えてある。もうその時は、あわてる必要もないことを伝えてある。命を助ける措置は一切不要なのであるから。

 

 そしてこの事態から、息を引き取るまでの時間はそう長くないと思うので、そこは辛抱していただきたい。と思っている。

 

 ここまで、分かると、気分的には楽である。Q翁に関わったすべての人に感謝して、この世を去ることができるような気がしている。

 

まえがき

 

人間は小学校に行く頃には、いつか自意識が生まれる。というが、私は子供の頃から、若い娘と言われる年齢に移る時も、年齢による自我の変化などを感じたこともなかった。

 

 私の内面には、続きの「癖のある困った私」が居座っていて、それが年相応にいつも出しゃばって、来るという感じだったのである。

 

 少なくとも「老後」といわれる年齢になると、人間の性格もその人なりに安定するのもと思われている。

 

 論壇によると、「不惑」は四十歳である。通俗的に言っても、四十歳くらいになると、人間は惑っている暇はない。子供が次々に進学する。家を持ち、家を建てて当然の年だ。ましてやそんなことにあたふたと追い込まれているうちに自分の体も更年期を迎える。まだ老人ではないが、少なくとも中年真っ盛りが初老に、足を突っ込む年となったのである。

 

 すると重病ではないが、体のあちこちに故障が出る。しかし、それをごまかして、とにかく日々を生きていかねばならないのが、中年だ。会社でも管理職「なってみると少しも嬉しくないポスト」だと言った人がいた。

 

 そういう出世に関する苦労と 小説家の世界はあまり関係ない。

 

 小説家には「出世街道」とでも言うべきものがない。呼び名を見れば、それがよくわかる。新人の頃は「小説家」、そのうちだんだん「中説家」と呼ばれるようになり。死ぬ頃には「大説家」になる道が開いているなら、この道にも確実に出世があるのだとわかる。

 

 しかし、今述べたような仕組みで、この道に出世はない。何歳まで仕事を続けても「小説家」だ。まるで老人にならない青年のようではあるが…。

 

 実を言うと、不惑などという状態を現世に求めず、老後も不惑などと希望すべきではないように思う。人間は生きている限り呼吸するように迷うのが当然だからだ。

 

 しかし、年を取れば、経験は増えるから、結果の形も、少し読めるようになる。そこで無駄なエネルギーや手間が省ける。その時初めて老人が自由人になるのである。

 

 表現というものは面白い。「私は迷いません」という言葉には、現実に迷わずに済む人間になっているという他に、迷わない人間でありたい、という願いも込められている場合がある。

 「不惑」などという言葉には現実が示されているより、希求の割合が多いように思う。老後はもう先が短い。迷っていたら死んでしまう。そこで人間は悪知恵を働かせて、迷わないことで、「ない時間」を稼ぎ出したのだ。

 

 悠々自適の状態の人間は素顔が輝いているという。追い詰められた人間も、必死の自我を出す。

 

 さて不惑になったら、人間はどんな顔を見せるか、ということだ。ぼろぼろか、生き生きか、きょろきょろか。

 

いささかの「老後の設計はしたいところだが、果たして誰にとってもそれは可能かどうかわからない。

 

二〇一九年四月

 

曽野綾子

 

Q翁:今日本では9割近い人が、病院で最期を迎えているという。これは医療の大きな無駄を強いることになうというので、政府は、自宅死を推奨している。しかし、これはなかなか実行されない。ひと昔前は、多くの人が自宅で最期を迎えていた。家族もその心構えができていた。

しかし、今の時代は違う。少し容態が悪ければ、直ぐ救急車を呼ぶ。病院で可能な措置が行われれば、後遺症の残る大部分の人は、施設に搬入される。そこで容態が悪くなれば、施設と契約している病院に搬入され、そこで最期を迎える。これが多くの人が描く、老人介護の在り方の常識のようになっている。

 

 しかし病の中には、Q翁のように、このパターンに乗れない病もあるのである。白血病(骨髄異形成症候群)という不治の病である。取り敢えず対応できるのは輸血しかない。これは現状の貧血の苦しみを少しでも柔らげるもので、治療には当たらない。

 

こうなると、受け入れてくれる病院も施設もなくなる。笑福亭仁鶴師匠が、この病で亡くなられたが、やはり亡くなられた場所は自宅であった。

 

Q翁は、最期に臨んで、一切の心臓マッサージ、人工呼吸、及び抗癌剤治療をお断りする旨、宣誓、署名した。同時に往診ドクター(死亡診断書を書いて下さるドクター)との契約をお願いした。

 

 さらにその前から、訪問看護師会と契約し、24時間看護師の来訪が可能になるよう契約した。もちろん自分が最期を迎えるときは、意識がないであろうから、最初に訪問看護師会に連絡し、そこから往診ドクターに繋いでいただくよう、息子夫婦にも伝えてある。もうその時は、あわてる必要もないことを伝えてある。命を助ける措置は一切不要なのであるから。

 

 そしてこの事態から、息を引き取るまでの時間はそう長くないと思うので、そこは辛抱していただきたい。と思っている。

 

 ここまで、分かると、気分的には楽である。Q翁に関わったすべての人に感謝して、この世を去ることができるような気がしている。