第1章 長生きすることは幸せなのか

 

私は長生きして、死ぬまでにいい絵を描いて死にたいという老女の生き方を、大変爽やかなものに思うようになっている。

 

● 老女の爽やかな生き方

 

  「あの方、ここのところ、ずっと絵を描いてるんですって、死ぬまでに、何とかして 自分でも納得できる絵が描きたいから長生きしたいって言うのよ。私には分からない真理だわ」

子供が死んでしまったら、もう未来に、何の希望もないと思っているらしい母に言った。

 

そして私はその頃、子供がまだ小さくて、最も子育てに溺れている時だったので、母と同じように感じていた。しかし今、息子が一人前になってしまうと、私は長生きして、死ぬまでに、いい絵を描いて死にたいという老女の生き方を大変爽やかなものに思うようになっている。

 

● 長生きすることは必ずしもいいものではない

 

  私自身、長生きは、必ずしも社会と自分にとって、いいものではないとも思い始めているた。仮に思考が奪われた老後の自分を考えると、生き続けるのは、それほど望ましいものではなかったし、一人の老人が長生きすれば、確実にそれだけ、世代に回すべき健康保険の費用を使うことにもなる。だからと言って、「老人は早く死ぬべきだ」などと私は、一度も思ったこともないし、書いたこともない。しかし、自然の寿命を大切にして、自分はそれ以上は望まないことにいたい、と考えているのである。

 

● 老人の健康を測るバロメーター

 

 体の悪い高齢者を働かせるのは、気の毒ですが、健康な老年に働いてもらうのは、少しも悪くない。死ぬまで、働くことと遊ぶことと学ぶことをバランスよく続けるべきだと私は思います。

「年齢に甘えないで、もっと働いてください」と言うと、怒る人もいれば、喜ぶ人もいるでしょう。どう反応するのか、それが老人の健康の度合いを測るバロメーターにもなりそうですね。

 

● 今まで通りにいかないのが普通

 

 老年の賢さと体力が如実に示されるのは、自分の体の不調や不幸を、どのていど客観的に、節度をもって自覚し、外部に表現できるかということにかかっているかも知れない。何時も眉をしかめて、前はあそこが悪かったのだが、今はここが悪いと訴え続ける人がいる。すると、いわゆる暗い空気があたりに立ち込める。

 

 人間は原則として、陰々滅々たる空間の中にはいたくなにものだ。だからそういう人の傍には、結果的に人が寄り付かなくなる。すると、この人は、世間はみんな自分に冷たくて、放置するのだと言うのである。

 

 そもそも、老年というものは、今まで通りにことがいかなくて、普通なのである。世間の人達は、誰でも、冷蔵庫、自動車、ガスの湯沸し器などという機械を使ったことがあるはずだ。たとえば湯沸かし器は通常十年くらい使えば取り替えの時期に来ているはずで、我が家でそれを十二年もたせたとしたら、それは「うまく使った」と慶賀すべきことなのである。しかし使用者の実感といては、たった十二年で「もう使えなくなったか」とがっかりし、改めて費用がかかることにうんざりするものである。しかし、機械も古びるなら、人間の体もまた。使用期限が来るのが当然だ。

 

(続く)

Q翁:、自分が93歳5か月も生きているとは、全く予期していなかった。白血病という不治の病を患っているが、今のところ、認知症にはなっていないようである。病院で多くの高齢入院者を見ると、殆どが何等かの認知症的症状を伴っている。看護師さんに聞くと、殆どがQ翁より10歳位若い。

 

 余命は宣告されてるとは言え、このことは、Q翁にとって有難い話である。「長生きは必ずしもいいことではない」という言葉は、Q翁には当てはまらない。79歳で、教会礼拝に参加し、その後、洗礼を受けて、キリスト者となり、13年になろうとしている。この13年は我が人生の中で、極めて充実し、人生の罪を悔い改める期間であった。神がその期間をお与え下さったことに感謝すあるのみである。