A View of dogbutt -3ページ目

「闇金ウシジマくん」が暴く、日本社会のウソ

現代の日本人の心の闇を描かせたら桐野夏生が文句なしに最強だと信じていたけれど、
たまたま手に取った『闇金ウシジマくん』は、一連の桐野夏生作品と双璧をなすぐらい、すばらしい作品だった。
闇金ウシジマくん 1 (1) (ビッグコミックス)/真鍋 昌平
¥530
Amazon.co.jp
タイトルのとおり、この作品の登場人物は超悪質な闇金業者と、その周辺で地をはうように暮らす
パチンコ中毒、暴走族、イベサー、風俗嬢、フリーターといった、いわば日本の底辺をなす「下流」の人たち。
なかば自業自得とはいえ、
それぞれの人生には同情すべき事情も抱えた「奴隷」と呼ばれる客たちの背景を丁寧に描きつつも、
けっきょくは彼らを容赦なく突き放す、まるで救いのない展開。
読後感は最悪だ。

この作品で圧巻なのは、なによりもキャラクターそれぞれの人物造形のすばらしさ。
この作品の登場人物たちは多くの場合、絶対的な悪人ではなく、
たいていは少しだけ邪悪なごくふつうの人間だ。
いい部分も悪い部分も持った、ありふれた登場人物たち。
そんな彼ら彼女らが、読者の多くもおそらくは持っている、ありがちな弱さを拡大された結果、
人生を壊され心を破壊されていく。
「悪いやつがひどいめに遭って、読者はそれ見たことかと溜飲を下げる」的な
ありがちな勧善懲悪ストーリーからは距離を置き、
ちょっとだけ人間性に問題を抱えた、でもありふれた登場人物たちが墜落していくさまを、
心のひだまで圧倒的なリアリティで描ききっている。
ちょっとキリスト教的だ。

「努力すれば、きっとうまくいく」なんて、高度成長期をドライブするためにねつ造された神話にすぎない。
そんなことはもう、みんな気づいている。
どんなに努力したって、一生報われないやつはそこらじゅうにいる。
でも希望がなければ前には進めないから、みんなウソだと知っていながら信じたフリをしてるだけだ。
ヘドが出そうな「ナンバーワンより、オンリーワン」だって、
おなじように、世の中の役に立つ意味があるウソだ。

『ウシジマくん』も一連の桐野夏生作品も、このウソを冷徹にかつ徹底的に暴いた
とてつもなく完成度の高い作品だと思うけど、それにしても現実は苦すぎる。
砂を噛むような先の見えない「終わりなき日常」のつらさをごまかすために、
「努力すれば、きっとうまくいく」ことを支えに生きてる人たちに向かって、
「そんなのウソだよ」とツバをはくことに意義はあるのか。
でも、そんなことを考えながらも、
『ウシジマくん』に描かれる、キレイごとじゃない、苦すぎる現実が面白すぎて夢中で読んでしまう。

これまであまりに苦すぎた反省なのか、あるいは作者が歳を重ねて少しだけ丸くなったのか、
最近の『ウシジマくん』には少しだけ光が射してきたようだ。
「前の方が面白かったよ」派のほうが多そうな気はするけど、
ぼくはこっちのほうが読んでて気持ちいい。
いずれにしても、『ウシジマくん』は大傑作だとおもう。

グロテスク〈上〉 (文春文庫)/桐野 夏生
¥650
Amazon.co.jp


OUT 上 講談社文庫 き 32-3/桐野 夏生
¥700
Amazon.co.jp
下流喰い―消費者金融の実態 (ちくま新書)/須田 慎一郎
¥735
Amazon.co.jp
モンスター 通常版 [DVD]
¥1,650
Amazon.co.jp




編集者の異常な愛情

じつはあまり期待せずに買ったら、かなりの力作だったのがこの本。
創刊の社会史 (ちくま新書)/難波 功士
¥798
Amazon.co.jp

この本を読むまで著者の難波氏については知らなかったんだけど、この人の雑誌オタぶりはハンパない!

雑誌は、言うまでもないことだけど「商品」だから、その内容が市場の需要にフィットしていれば勢力を増していくし、
市場に適合できなければ、容赦なく淘汰されていく。
この本は、過去50年に遡って日本に生まれては消えていった雑誌たちをとりあげ、
そのコンテンツやその背後にある欲望を手際よく解剖して、
その時代その雑誌とともに生きていたトライブがなにを求めて生きていたのかを分析した本。

著者の雑誌愛と知識が猛烈すぎてたまにクラクラくるけど、
文章は平易だし、著者のアタマの中にぎっしりとおそらく無秩序に充填された雑誌の知識が
圧縮され、抑制され、体系づけられたうえでまとめられているので、とても優れた新書になっている。

読んで思ったのは、雑誌がやっかいなのは、雑誌には先に書いた「商品」としての側面と「編集者の表現」としての側面が、往々にして対立しがちなこと。
だから、「そんな企画、売れないよ」と自分の出した企画にダメだしされると、たいていの編集者は自分の実存を全否定された気になってとても傷つくわけだ。
数年前まで概して編集者は雑誌が「商品」であることにとても無自覚だった。
でもそれはけっして悪いことではなくて、金儲けより表現優先のマインドがあったからこそ、自分の感覚を頼りに、そこにあるかもしれないし、ないかもしれない市場のニーズに向かって球を投げることができて、それゆえに時に雑誌が時代を切り開いていく力を持ち得たんだと思う。

でももうそんなのんきな時代じゃない。
売れる「商品」としての雑誌を作り続けていかないと、会社潰れちゃうんだから。

「マーケティング目線で雑誌をつくるようになったから、雑誌がつまらなくなったんだ!」
なんてどこかで聞いたようなクダを巻いているマスコミ関係者は掃いて捨てるほどいるけど、
そんなことはみんなわかってる。
でも、どこの出版社も本気でヤバい状態なのに、当たるかわからないバクチに有り金を賭けるような経営者は頭がおかしい。どうしても投げたい球があるのなら、自分でリスクとってやるしかないのに。

ちなみにこの人も相当重度の雑誌オタ。
テレビチャンピオン「雑誌選手権」で、ぜひ対決してほしい。
東京の編集/菅付 雅信
¥3,465
Amazon.co.jp

BRUTUS「農業」特集と佐藤可士和の件

最近当たり外れの激しいブルータスだけど、最新号のこれは、ちょっといい特集だった。
BRUTUS (ブルータス) 2009年 2/15号 [雑誌]
¥590
Amazon.co.jp

「農業」特集なんて、5年前にはけっして考えもしなかったように思うんだが、
時代をちょっとだけ先を行くって意味で、ブルータスらしい特集だと思った。

最近のブルータス、「山」特集とか「釣り」特集とかやたらエコでアーシーで、
かつての「消費による自己実現」翼賛誌だった面影はもうまるでない感じなんだけど、
これはブルータスが変節したわけではなくて、時代の流れに忠実なだけ。

ファッションも音楽も、土っぽかったり、伝統があったり、ちょっとクセがあったりするものが気持ちいい。
モダンでつるっとしたもの、人工的なものはもううんざりな感じがそこらじゅうに充満していて、
六本木とか丸の内とかは古くさすぎて相当キツい感じがする。

でも表紙が佐藤可士和はないだろうよ。
可士和は、もういい加減、ほっとくべきじゃないのか。
彼が褒めたり触ったりするものって、なんでみんなこうも残念で時代遅れな感じに見えてしまうのか。
志村けんが得意満面でAPE着てるぐらいイタいんだから、
可士和は頼むから本業に専念しててほしい。

スナックと、スタバによって日本の文化が失ったもの。

スタバ。
特に地方にいる時なんかにそれなりのコーヒーがまず間違いなく飲めるというのはありがたいし、
その地域でそれなりにしゃれた人が集まっていることが多いから、
変な話だがスタバでほかのお客さんに混じって本を読んでたりすると妙なローカル気分も味わえたりする。
退屈だけど、均質でクオリティの高い、チェーンストアの王道だと思う。

スタバとは正反対に位置する、スナックにいつか行ってみたいと思っていた。
スナックは「ママ」が支配する、「ママ」の極私的な空間だ。
「ママ」の好みの器や調度が揃えられ、「ママ」の手料理が供され、「ママ」を慕う客たちが集まってくる場所。
均質さのもたらす安心感とはまったく逆のベクトルで、特定の顧客たちに幸せと癒しを与えている。

でも常連ばかりで一見は不審がられて相手にしてもらえないだろうし、
個人経営だから、とうぜん店によってサービスも内装も料金もばらつきがある。
どこかの店の常連の知り合いにでも連れてってもらわないことには、初スナックのハードルはかなり高い。
そんなわけで、地方を旅していて魅惑的なスナックの看板の前を通り、カラオケの音が漏れ聞こえてくるたびに
「ああ、きっとこの中では地元の人たちの閉じた、濃いコミュニケーションが繰り広げられているんだ、
混ぜてもらえねえかなあ」とぼくは悶えてきたわけだ。

そんな中写真家・山田なお子さんが、10年間スナックとママを撮りためてきた写真集が発売された。
飛びつくように買ったわけだけど、はじめてまじまじと見たスナックとママたちは、
予想どおりというかやっぱりとても濃い空間で、
登場するママたちのたくましかったり、優しかったり、力強かったりするたたずまいと、
彼女たちが数年~数十年かけて築き上げてきた自分の美意識の表現である空間とについつい見入ってしまう。
300ページの大著に込められた情報量は膨大で、天井から妙なヒョウタンがぶら下がっていたり、
演歌歌手のポスターが貼られていたり、灰皿や酒のボトルのセレクションまで画面の端から端まで解読していくと、
どうしてもママたちの人柄が浮かび上がってくる。

前のエントリ、湯山玲子さんの『女装する女』でも昭和30年代ブームの文脈で、
(たぶん製作中だったこの写真集の存在は知らずに)、
「マーケティングの介在しない空間」の代表としてスナックが挙げられていたけれど、
マーケティングベースで快適なサービス/空間を提供するスタバ他のチェーンストアへのアンチとして、
純日本的で個人的でB級な美意識の結晶であるスナックの存在は少しだけ意味があると思う。

たぶんスタバがスナックの敵になってるってことはないと思うんだが、
膨大なマーケティング仕事をして、その結果みんながそこそこに満足できる程度に凡庸な
スタバ的な店を量産することで、日本中の「ここにしかない」店がなくなってしまうのは残念に思う。
均質がもたらす安心の引き換えに、日本中に退屈を量産してるかもしれない、
マーケティングという自分の仕事ってちょっとどうなのよ、と思ってしまった。

山田なおこ 写真集『スナック』/山田 なおこ
¥3,990
Amazon.co.jp
★この本と近い目線でアメリカ版スナックといえそうなダイナー(ちょっとムリあるな)を集めた写真集「Plates & Dishes」 もぜひ。
ウェイトレスのポートレイトと料理が見開きで構成されていて、写真も空気感がよく写っててキレイ。名著。

★日本のB級の美意識に焦点をあてた本としては都築響一さんの一連の著作も。
文庫版だとちと苦しいが、部屋のディテール探しをし始めると、もう止まらない!
TOKYO STYLE (ちくま文庫)/都築 響一
¥1,260
Amazon.co.jp

賃貸宇宙UNIVERSE for RENT〈上〉 (ちくま文庫)/都築 響一
¥1,785
Amazon.co.jp



「女装する女」:メディアがアラフォーを持ち上げる理由

前著「クラブカルチャー 」が自分的には腑に落ちすぎてヒットだった
湯山玲子 女史の「女装する女 」。
女装する女 (新潮新書)/湯山 玲子
¥735
Amazon.co.jp


最近めだっている女のライフスタイルを10種類に類型化し、
それぞれのトライブの行動原理と、彼女たちの行動の源になっている時代背景を探る、という本。
(もちろん人によっては複数のトライブに属することもアリ)

ライフスタイルを駆動する時代背景までさかのぼって解説しているという部分が
「クラブカルチャー」にも通じる湯山さんの秀逸なところで、
それがなければ「ああ、こんな人いるよね!」で終わってしまうはずのところが、
女性の生き様を通して、いまの社会が透けて見れるところがなんとも味わい深い。

ここ最近、女性のライフスタイル周辺の環境は急速に悪化していて、
その多くは「男がいない問題」(=まともな男は全員結婚済みで、残りものに福は絶対ない)
に起因するものなわけだが、(この問題を最初に世に広めたのは酒井順子「負け犬の遠吠え」
負け犬の遠吠え (講談社文庫)/酒井 順子
¥600
Amazon.co.jp
その過酷な環境の中で勝ち抜くため、あるいはやり過ごすために、
さまざまなビジネスやテクニックがここ数年の間に開発されてきたことがよくわかる。
ネイル、ヨガ、ロハス、昭和、フィットネス、占い…。

まだ手当をされていない欲望のあるところにビジネスの種はあるわけで、
カネを使う気満々のアラサー、アラフォー世代の望むことは企業にとってもビジネスチャンスになる。
だから、40代独身女性が「ああ、こんなモノがあったらなあ」と仕事帰りにぼんやり考えていると、
その念じたサービスや商品は打ち出の小槌のように実現される、という仕組みができている。
メディアがアホみたいにアラフォーを持ち上げる理由はここにある。

この本に書かれる女性の姿は実際のところどうなのか、その妥当性は男の自分には正直判断できない。
取り上げられているいくつかのライフスタイルやその背景は、
あくまで湯山周辺で観察されたニッチな特殊事情なのかもしれない。
でも少なくとも、最近の女の人はこんなかんじなのね、とわかった気にはなれる。
BtoCのマーケティングに関係する仕事をしている人にとっては、
たぶん必読と言っていい一冊だと思う。新書だし。

湯山さんの本を読むと、女の人の鋭くてなまなましい対人的観察眼に恐れおののき、
大抵の男はかなわないだろうな、とため息が出る。

ファッション・バブルは終わったのか?

内田樹先生 も、百貨店やアパレルの経営者も口々に言うように、
ファッションに対する消費者の感じ方が、
ある日を境に唐突に変わってしまったというのは事実だと思う。

ブランドという付加価値と引き換えに、プレミアムな価格で服や雑貨を売るという商売は、
たぶんもはや成り立たない。
90年代末からのセレクトショップブームを牽引してたのはおしゃれエリートじゃなくて、
ファッションに目覚めた「ふつうの人」だったけど、その背景にあったのは、
オシャレさえしていれば周りの大半からリスペクトを得られる、承認されるという意味で
ファッションの効用が高かったからだ。
この流れを後押ししていたのは「個性」礼賛ムードだった。

でも、ファッションにもうかつてのような高い効用はない。
むしろオシャレに夢中すぎるやつは、少しイタい感じすらある。
ファッションは、バイクいじりや鉄道と同じ、ただの趣味の1つになった。
そんな感じ方がじわじわと広がって、ある閾値を超えたとき、
ファッションはとつぜん死んだ。

90年代後半にユニクロが登場したときは、
付加価値のない商品を売っていた洋服屋の多くが淘汰された。
そのほとんどは、地元に根付いた個人/家族経営のお店だった。

00年代後半(つまり現在)になると、
今度は商品に「ブランド」や「デザイン」といった付加価値をつけて、
ユニクロの数倍の価格で売っているセレクトショップやブランドが売れなくなった。

ううん。より正確にいえばセレクトショップブーム以降、
服の「ブランド」は、多くの消費者にとって「付加価値」ではなくて必須とされる「本質」だったんだと思う。
つまり、ブランドのタグがついていない服は、
服に求められる本質を備えていない欠陥商品だったんだ。

でも、ここにきて消費者が服に求める「本質」の条件が変わってしまった。
「デザイン」はゆずれないけど、「ブランド」はなくてもいいんじゃね?
むしろ、「ブランド」に余計な値段を払うやつよりも、
ユニクロをかっこよく着こなせるやつの方がかっこいいんじゃね?って。

多くの人の中で「ブランド」という要素が服の「本質」から「付加価値」に降格されたとき、
たぶんファッションバブルは静かに終わったんだと思う。

もちろん、10代からブランドで服を選んで来た世代の消費スタイルはそんなに簡単に変わらないし、
ブランドがないと服を選べないやつも、トレーナーの胸に大きなブランドロゴが入っていないと不安なやつも、
まだまだたくさんいると思う。

でも、明確な根拠はないけれど、
ファッションが消費者を誘惑してきた何かが
ここ数ヶ月の間に決定的に変わってしまったように思えてならない。

「歴史は繰り返す」ことを考えているけれど、
ファッションが日本でこれだけ多くの人の関心を集めた時代は、
もう永遠にもどってこないような気がする。

ティム・ウォーカー :写真家の仕事

タワーブックスで、久しぶりにとても驚愕の写真集を見つけたのだが、
残念ながら高すぎて手が出ない…。

Tim Walkerの"Pictures"


ティム・ウォーカーは圧倒的なヴィジュアル構築力を持ったフォトグラファーで、
この手の同業の中では、ちょっと群を抜いている実力者。
同業者以外にはなかなか知られていないことだけど、
欧米のフォトグラファーは、往々にして”アートディレクター”的な役割を果たす人が多い。

つまり、製作するビジュアルの世界観やテクスチャーを考え、
そのイメージにあったモデル、ロケーション、スタッフ、小道具などを集め(させ)、
イメージを最適に表現するための構図を考え、機材・フィルムを選んでシャッターを押し、
現像/画像処理を行う、という一連の仕事を統べるのが仕事なわけだ。
映画では監督の役割にあたる仕事で、
イメージとしてはデヴィッド・リンチとかティム・バートンに近い。
(ちなみに日本ではファッション撮影の現場では、このディレクション部分はスタイリストが担うケースが多い。
その場合、フォトグラファーはスタイリストの考えたイメージを再現する下請けになる)

ようは、巷で考えられている「モデルの最高の表情を云々…」というのは、
ファッション系フォトグラファーの仕事の、ある一部でしかない(場合が多い)

ティムさんのすごいところは、イメージを考えだす創造力はもちろんだけど、
細部まで決して妥協せずに、どんなにカネがかかってクライアントが激怒しようとも(これは想像だけど)、
自分の構想どおりのイメージを実現してしまうこと。

奇妙なファンタジーがぐちゃぐちゃに詰まったティムの作風・世界観には、
おそらく好き嫌いはあると思うけど、
ここまで途方もないことを考え、それを実現させてしまう
わがままスーパースターは他にはいないはず。たぶん。

ぼくは個人的には、「リアル」がばっちり写ったドキュメンタリー写真のほうが
ぜんぜん好みなんだけど、この写真集は高いけどほしいなあ。
毎日ぱらぱら眺めてるうちに、気がついたらニューロンが組み変わってそうな気がするから。


ヤンキーは日本人の心の故郷か?/「ケータイ小説的。」

前著「自分探しが止まらない 」が予想外に面白かった速水健朗 氏の
「ケータイ小説的」 もやっぱり傑作だった!ああ、読んでよかった。
ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち/速水健朗
¥1,575
Amazon.co.jp
この本は、ヤンキー文化=浜崎あゆみ的世界観をケータイ小説の系譜に位置づけ、
相田みつお、尾崎豊、山口百恵から『NANA』『頭文字D』までを
「ヤンキー」という価値観を軸に縦横無尽に論じた日本社会論。
浜崎=ヤンキー説は、これまで考えたことすらなかったけれど、
そう言われてみれば、たしかに説得力のある説かも。

自分も「ヤンキー」は間違いなく日本の文化の中心的価値観であり源流だと思う。
速水氏が論じていたのは「ヤンキー的世界観」の話だったけど、
ファッションと美意識=エステティックのジャンルでも、
ヤンキーは需要な役割を果たし続けてきたという、
ファッションにおけるヤンキーの功績についてもちょっと書いてみようかと。

結論から言うと、
そのままではマス層にとってはちょっと敷居の高い舶来文化に「ヤンキー」エキスをブレンドすることで、
そのカルチャーの敷居を下げ、土着化させ、
メインストリームへと広げてきた、というのが高度成長時代以降の
日本で流行ったポップカルチャーの多くに共通する流れなんじゃないかと思う。

古くは映画「EASY RIDER」のカッコよさにシビれた若者が「カミナリ族」をはじめ、
一部の先端的で感度の高い若者の排他的な趣味だったのが、
日本的な意匠をブレンドすることで「ヤンキー」としてブレイクした、というのがその一例。

その後も映画「OUT SIDER」あたりに源を持つ「チーマー」は、
渋谷界隈の私立高校生からブームとなって、数年後、千葉・埼玉あたりに広がる頃には
すっかり日本的な「ヤンキー」タッチが加えられていたし、
ヒップホップ/ギャングカルチャーも、メインストリームに膾炙する頃には
みんな頭に手拭を巻く「ヤンキー」アレンジがなされていた。

ギャル文化の殿堂と言われる109もじつはヤンキー文化の見本市で、
ラスタ、ヒップホップ、セレブ、LAと各ブランドがサンプリングの「元ネタ」につかう要素はさまざまなんだけど、
各ブランドは、自分とこの顧客層のリテラシーに合わせて
適切な濃度で「ヤンキー」エキスをブレンドすることで、
そのままではちょっと日本人の口には合わない舶来文化を、
食べやすく、消化の良いものに加工することで、マス層へのセールスにつなげているわけだ。
(そんななか、最もヤンキーエキスが薄い=オシャレ界に近いのは<マウジー>で、
最もヤンキーエキスの濃い=オシャレ界から遠いのは<リズ・リサ>あたりかなあ)

個人的な話をすると、自分にとっては長い間、ヤンキーなんて冗談としか思えないような存在だったけど、
吉永マサユキさんや都築響一さんと知り合って興味を持つようになったのが7、8年前。
そこから気が向いたときに「ティーンズロード」のバックナンバーを買ってみたり、
海外のTV番組の取材で旧社会の集会に混ぜてもらったりしてるうちに俄然ヤンキーに興味がわいてきて、
今思うのは「ヤンキー的」こそが、日本人が本能的に惹かれてしまう世界観なんじゃないかと。

古くはタウトが論じた日光東照宮:桂離宮から日本の庶民的文化:高級文化は枝分かれし、
(いや、もっと昔からあるのかも?)
以降、ヤンキーエキスをうまくブレンドできたものは大衆的な支持を得て、
ブレンドできなかったものは一部の通好み、の存在として細々と生きながらえてきたんじゃないかと思う。

言い換えると、ちょっと語弊はあるが「教養」を身につけた日本人は
ヤンキーを軽蔑するようにインプリントされるけど、
「教養」のない日本人は、本能的に「ヤンキー的」なものに反応してしまうのではないかと。

そんなわけで、すごく面白かった「ケータイ小説的。」だけど、
違和感があるのは「ギャルの登場により、旧来のヤンキーは駆除された」というポイントかなあ。
正しくは、「ギャルの登場でヤンキーは壊滅したけれど、ヤンキー的DNAはギャルに寄生することで
ギャルとともに繁栄し、共栄共存を遂げている」ではないか。

最初期のギャルは、たしかにヤンキーとは相容れない価値観を持つ部族だったようけど、
実際のところは、徐々にヤンキーDNAをその体内にとりこむことで、
旧来のヤンキーを取り込み、大きく勢力を拡大してきた、と自分は考えている。

だから、日本の社会や文化の様相はここ数十年大きく変わったけど、
ヤンキーのDNA自体は、ウィルスのように様々な宿主に寄生することで、
しぶとく、したたかに生存し続けてきていて、
これからも、ギャル滅亡後も別の宿主の体内で生き延びるんじゃないか。って気がする。

なぜ「自分探しが止まらない」のか?

東浩紀さんのBlog で「ケータイ小説的」という本が紹介されていたんだけど、
この本の著書の速水健朗さんの「自分探しが止まらない」 も面白そうだったので、一気に読む。
著者の速水さんは自分と1コ違いってこともあって、するするっと理解でき、すんなりと納得した。

ポイントとしては :
・ 要は「自分探し」は「自分を変えるために具体的な努力をしようとせず、
   環境を変えることで自分を変えようとする心性」だ。
・ 「ホントの自分」「なりたい自分」が見つかるという幻想によって踊らされている、
   というのが「自分探し」の実体であり、背景である。
・ 幼少時から「やりたいことをみつけなさい」と繰り返し刷り込まれた結果、
   「自分探しが止まらな」くなってしまうケースが団塊ジュニアには特に多い。
・ 「自分探し」的心性は団塊世代の頃にもあった。ただ当時の若者の大半は、
   結果として社会に吸収され、「自分探し」には向かわなかった。
・ なぜなら80年代は「消費による自己実現」が可能だったから。
・ 今は「消費で自己実現」するやつはイタい。そうなると「自己実現」のための
  安易な方法が見当たらず、あぶれた若者は「自分探し」へ向かうことが多くなってしまう。
ってとこかな。

何年か前、宮台センセイの「仕事」についてのインタビュー記事で、
「仕事によって自己実現できるのは、ごく限られた『エリート』のみ。それ以外の大多数の人間は、『仕事による自己実現』でもなく『消費による自己実現』でもない、『仕事、消費以外の自己実現』を目指すほかない」
とコメントしてた。
深く納得したけれど、あまりに希望のない内容。
でも何年かたって振り返ると、宮台さんの言ってたことが着々と現実化してるんだねえと思う。

その頃は「屋久島のネイチャーガイド」なり「こだわりのパン屋」なり、
あまりカネにならなくても自己実現につながる(かもしれない)将来設計ならば、
ハッピーになれる可能性はそれなりにあるんじゃないの、って思ってたけど、
数年経ってみると、そんなに甘いものではないみたいだ。
宮台さんの言ってたことはとても正しかったね。

速水さんは、「自分探し」な人にかなり辛口だ。

小さい頃は「個性」やら「自己実現」を推奨されて、実際大人になってみると「自己実現」なんてできそうにない。
そんな「終わりなき日常」的な現実に気づいたときには、「自分探し」で現実逃避、というのは決して生産的ではないかもしれないけれど、有効な解なんじゃないのかなあ。

自己啓発本も自費出版もボラバイトも『てっぺん』も、
無知なやつを搾取してると言えば確かにそうなんだが、
その瞬間の空虚さを埋め合わせる体験を与えているわけだから、
相対的に「正しい」ことなんじゃないか。
ある人にとってはガラクタにしか見えないようなもののおかげで、
「自分探し」な人の一部にとっては、人生がぐっと好ましいものになっているはずだから。

「自己実現」を煽られ、夢を見させられて、
ハタチ過ぎた頃にそんなのは寝言で、「自己実現」のチャンスなんてどこにもないことに気づく。
とてもつらい人生だと思う。
それならば、覚めない甘い夢を見続けていたほうが幸せなんじゃないの?

「自分探し」が面白かったので、仕事帰りに「ケータイ小説的」を購入。
ヤンキーも北関東も浜崎あゆみも、よく知らないけど大好きなので、今から読むのがとても楽しみ。

俺はただの金持ちじゃない:金持ちのカルチャーコンプレックスとNYの不動産事情

エスタブリッシュメントになると
「オレはただの金持ちじゃない」とばかり名画を集めたりする金持ちは日本にもいるけど、
アメリカでは「クリエイティブクラス」の台頭もあって、カルチャーがわからないやつは露骨にバカにされる。
そんなわけで、00年頃から「流行の発信地」とされている
ブルックリンのウイリアムズバーグ(東京で言えば中目黒に少し下北沢のフレイヴァを混ぜた感じの街)
にはニョキニョキとこんな高級マンションがつくられているのです 。
彼の国では、「クリエイティブであること」がものを売るための揚力として日本よりも機能しやすい、というのは確かなよう。
銀行員も弁護士も医者も、ウイリアムズバーグに居を構えることで
「おれはただの金持ちじゃない、カルチャーのことだって任せておけ」とばかりに
アッパーイーストに住むコンサバ金持ちを見下す権利を手にすることができるというわけ。
どっちもウイリアムズバーグの高級コンドの広告。気持ちはわかる。





で、NYのクリエイティブピーポーが何よりも嫌いなのが金持ちとニュージャージーの田舎者。
どちらもカッコいいとされるものを触れた途端にダメにしてしまうから、「文化の敵」としてとても恐れられる存在なわけだ。
言ってみれば、志村けんとか泉ピン子みたいなものか。
なので、少し前からウイリアムバーグに住むアーティストたちは、
金持ちが増えることにかなり反感を覚えているという次第。

たしかにダサい金持ちが「オレは最先端だぜ!」みたいな顔して中目黒を歩いてたら非常にウザい。
でも、東京は「金持ち」と「クリエイティブ」の間には厳然たる棲み分けがされているから、
NYのようなことはあまりないのかも。
六ヒルに住んでるLEONな金持ちは、ひょっとすると「最先端」な気分なのかもしれないけど、
クリエイティブ業界は彼らのことなんて気にもとめてないし。