駿河国で南北朝時代の南朝方にゆかりのある城がいくつか残っているのを知ったのは、2023年も押しつまった頃に島田市にある野田の城山を訪問してからだった。
その時は地元の小学生がマスコットキャラクターを作ったり説明板を書いて設置したりしていたのが目立つが遺構は小さく薄いという印象だったが、後に記事を書こうと机上調査をしていて佐竹兵庫入道という人物の足取りに目が止まった。安倍城城主だった狩野氏の家人で、正平五年(1350年)12月に駿河府中を占領した軍勢に加わっていたが、翌年9月には今川勢に奪回されて「大津城」に退いた。その「大津城」も観応三年(1352年)には足利尊氏から南朝方討伐の命を受けた今川範氏に攻撃されて陥落し、さらに山奥の徳山城に逃れたのだという。
この足取りの中に出てくる「大津城」が未だにどこにあったのか不明とのことだが、その候補も含めて次のような城が登場している。
・野田の城山 島田市 ※「大津城」候補
・徳山城 川根本町/島田市
・護応土城 川根本町 ※徳山城の支城
ワタシの目で見た、これらの城の少なくともいくつかに共通する点は…
あくまでシロウト目線なので笑ってやって下され…😅
★不便な場所にある
国道1号バイパスの野田ICすぐ近くにある野田の城山を別にすれば、駿河府中の目の前にある安倍城も比高370メートルで麓との行き来に30分超…
瀬戸谷城や滝沢西城も麓の滝沢地区などからの比高260メートル、さらにはここ自体が東海道筋からだいぶ山あいに入った場所にある(この点は今川氏の花倉城も同じ)
「ラスボス」たる徳山城にいたっては標高1000メートル超えの稜線上にあって、大井川沿いからもだいぶ山奥、支城たる護応土城は現代の目で見ればさらに山奥。ただこちらは川根街道が富士城集落の裏で山越えをする場所にあって、ここを今川範氏に落とされてから十数日で徳山城も落ちたところを見ると、駿河府中方面からの入口にあった出城と見ることが出来るだろう。それにしても静岡の市街地から今でも車で小一時間、酷道っぽい区間もある道のり。
この不便さをもって敵の攻撃を躱しにかかってたのかと思いたくなるほど。それ故、後の時代に使われることなく放棄されて遺構がそのまま残っている可能性が高いのかも…
麓の方にも多数築かれていたが北朝方に奪われるなどして不便な場所の城だけが残されたのか、軍事上などの理由があってこういう配置にしたのかは、ちょっと分からん…
ともかくも、まとめて攻略しようとすると時間と体力が激しく消耗する…😵💫
護応土城の竪堀状通路 城ではなく街道の遺構?
護応土城の本丸付近 土木工事の痕がほとんど無い…
南北朝時代は山城の黎明期と考えられているらしいが、後の時代まで使われたた城は多くが改修されたりして往時の遺構を見ることが出来なくなっているという。そんな中にあって駿河国のあたりは南北朝合一まで60年間にわたって南朝方が頑強に抵抗を続けたところで、その足跡をとどめた城がまとまって残っているのは興味深いところだろう。
なお、これらの城はまだ調査等ほとんど行われていないようで、厚みのある表土に覆われているであろう今の姿以外に情報がほとんど無く性格を断じるに至らない、というのが実際のところか。
というわけで…
是非とも調査キボンヌ🤗
(2024年3月20日 記)
(2024年 4月 9日 護応土城訪問等により加筆)