護応土城は国道362号が川根方面に抜ける最後の峠のような富士城という集落の裏山にある。
南北朝時代に南朝方の拠点の一つであった徳山城の支城とのことで、城から南に伸びる尾根でつながっている。文和二年(1353年)2月に北朝方の今川範氏の攻撃を受けて落城し、死命を制せられたか徳山城も12日後に陥落したとのこと。
どうやら分かっているのは落城の経緯だけで、築城時期など詳しいことは不明らしい。
2週間前までに徳山城、瀬戸谷城そして滝沢西城と駿河の南朝方が持っていたらしい城を次々に訪問して気分を良くしていたあたりでこの城が駿河における南朝方の城であることを知り、これは行かねばと狭いワインディングの続く国道362号を登って行ったのが、この日。
前日までの肌寒さがウソのような快晴、麓ではいきなり夏日となった。
国道362号から「富士城」という案内標識にしたがって右折し下ってゆくと、小さな集落の中で突き当たりのようになる。
ここは右の林道智者山線に入ってゆく。
この集落内や近くには、車を停めておく場所は無い。
林道がガタボコ道に変わってしばらく揺られながら進むと、道端に説明板が立っている。
いきなりの出会い😂
縄張図も描かれていて分かりやすい✨
徳山城の主郭に立ってるのと同じスタイルやね。
城域は林道に大手口奥で分断されたようだが、平行に走る土塁の間に曲輪を設けたつくりらしい。
林道の左側に大手の枡形虎口と塁段、右側に主郭部が広がっているらしい。
まずは、大手口方面からGo💨
左側にドラム缶が転がっているココに案内が立っていて、道が分岐している。
が、まずは林道を奥に行った左側にあるという累段へ。
土塁に仕立てた尾根をぶった切ったらしい切通しの奥、左側の下に広がっている。
林道から見下ろしてみると、凹凸はあるようだが構造を読み取れない😂
ピーカンで緑のない杉林…この記事の写真はほとんどがこんな感じです。ゴメンナサイ(_ _;)
降りてみると、正面から北北西に向かって浅い谷のようなものが降りている。
空堀のような感じではないが自然地形かどうかは分からん…💦
その東隣に、谷線と平行する土塁らしい盛り上がり。
その向こう側が、テニスコート2面分ぐらいの削平されたらしい平場がある。
ここが累段?
北端は細くなっていて、さらに先は自然地形っぽい尾根になって緩やかに下っている。
削平されていたようにも見える急傾斜だが、そんなに大掛かりな土木工事を施されたような感じでもなさそう。
累段はこのぐらいのようなので、枡形になっている大手口へ行ってみるか💨
お❗
いきなり堀底道になってる😮
左の土塁の上から眺める。
左側にも空堀状が入るが、すぐ先で下の広い斜面に降りて終わっている。
土塁の字が旧字体だった😮
入口から見たところでは堀の中と土塁上のどちらが城道か分からなくなりそうだが、右の堀の中がルートらしい。
堀の深さはあっという間に3メートルぐらいになる。
こんどは右にカーブ。
奥が見えない、完全なブラインドカーブになっている😮
道路でいうと、高い防音壁で仕切られた急カーブの都市高速を連想するよう😂
カーブの先は、少しで直角カーブになっていた。
ここは少し広くなっていて、道は北西側から入ってくる。
ここが大手道の枡形土塁のようだが、近世城郭の枡形虎口と違って、平坦ではなくかなり北に傾いている。
山側から崩れてきた土で半ば埋まった結果?
ここから下にも浅い堀底道状が続いている。
ここから振り返る城内側。
堀底道の他にも自然にできた?ポコポコが見えて面白いところ😆
枡形土塁からさらに下ると、一番下では両側の土塁がすっかり消え、斜面の下の広場になる。
ここが大手口。
ここまでの堀状は、恐らく人工的に掘ったもので、こういう道型にする意図で土木工事したのだろう。
林道からは、かれこれ200メートルちかく下っている。
こんな下から寄せ手の動線を制限してたのか😮
と思ったが、違うかも知れない。最後で少し考察する…かも😅
さて戻って、次は主郭部じゃ〜💨
戻る途中から城内を向いて眺めると、逆光でドギツさがマシマシ…😂
(川根 護応土城 本丸側その1に続く)
(2024年4月5日 記)