「天壌無窮」 

 孝明天皇


神わざの天の御矛(みほこ)のしづくより
   なりにし國ぞすゑは久しき


(嘉永七年)


 この御製は、黒船來航により混亂する國民の心を少しでも和らげんとされて作られたものに感じます。

 日本といふ國は神によつて使命を担つて作られた國であるから、滅びる譯がない。

 そう國民に語りかけてゐるのです。

 この和歌は『古事記』日本書紀の一節が歌い込まれてゐます。


 孝明天皇は、幕末に於ける日本の危機を察知し、國民に其の危機を知らしめた天皇であるといへます。

 ペリーの黒船が浦賀に來航した時、お作りなられた御製は


「あさゆふに民やすかれとおもふ身のこころにかかる異國の船」


ですが、この御歌より幕末維新が始まつたと言つても過言ではありません。

 紀貫之が『古今集假名序』で


「天地を動かし、鬼神を泣かするものは歌也」


と言つたやうに、この孝明天皇の御歌は歴史を動かしたのです。

 何故ならば、幕末尊皇攘夷志士達の心を奮はせ奔走することで、あの世界の奇跡とも言はれて居る明治維新の道は、この御製から始まります。

 和歌の眞髄は茲にこそ在るのではないかと私は考へてゐます。

 しかし、この嘉永七年は、歐米諸國の來航により、國民は動搖を來たします。

 それに對して孝明天皇は、日本は神によつて作られた國であるから決して滅びることなどはない、永遠に續くと言つてをられるのです。

 もう一つ、この「すゑは久しき」といふ言葉には、「天壌無窮の御神勅」の意味が籠められてゐます。

 天壌無窮の御神勅とは何か。

 それについては、私の『皇道の本義解説』の中で詳しく陳べさせて戴いて居ますのでご覧になつて頂ければと思ひますが、一部を抜粋してみますと次の通りであります。



「因勅 皇孫曰 豊葦原千五百秋之瑞穂之國是吾子孫爲王之地也、爾皇孫宜就而治焉 行矣 寶祚之隆 當與天壌無窮矣」


(讀み下し分)

「因りて、皇孫(すめみま)に勅して曰く、葦原の千五百秋の瑞穂の國は、是れ吾が子孫の王たるべき國也。いまし皇孫、いでまして治らせ。さきくませ。寶祚の隆へ、當に天壌と窮まり無けむ。」


 この御神勅は、『日本書紀』巻第二神代下 第九段に出て來るもので、天孫降臨に當り、天照大御神が、皇孫天津彦彦火邇邇藝命(あまつひこひこほににぎのみこと)に三種の神寳(しんぽう)を賜はり、勅された御神勅である。

 この御神勅には、深淵廣大なる意義が含有してゐる。


 一般的な文章解釋では次の通りである。


「この日本の國は、私の子孫が君主たるべき國である。さあ、皇孫である瓊瓊杵尊よ、あなたが行つて、しつかりと治めなさい。天津日嗣(天皇)は、天地と共に限りなく榮えるでせう。」


 この直譯だけでは、この御神勅の深淵廣大さを感ずることは難しい。

 天壌無窮が何故深遠なる眞義かを、この一節を元にして解説してみたいと思ふ。

 さて、ここの一節に於て「就而治焉」とある「治」の意義が最も重要である。

 この「治」は「しらす」と訓むべきで決して「をさめよ」と訓(よ)んではならない。

 この「治」を「をさめよ」と訓む者が居るが「をさむ」とは、亂れた状態を平かならしむることをいふのである、「しらす」とはもっと深遠なる義が含まれてゐる。


 本居宣長翁は『古事記傳』巻七に於て、

「これ君の御國治め有座(ありま)すは物を見る如く、聞くが如く、知るが如く、食(をす)が如く、身に受け入れ有(たも)つ意あればなり、此次に所知看(しろしめす)とあるも知り見ると云ふことにて同意なり」

と述べて居る。

 宣長翁がいふやうに「治」は「所知看(しろしめす)」と同意なのである。

 『古事記』に於ける「治」は音韻や意味などから漢字を當て嵌めてあるので、この「治」といふ漢字に捉はれてはならぬ。

 「しらす」は日本獨特の語で、原語は「しる」であり「知る」ことをいふ。

 この「しらす」といふ語には「統治」といふ意味も當然含まれてゐる。

 現代に於ける統治の意味は「私有、領有、占有」などになるのであるが、しかし、天壌無窮の神勅に於ける「しらす」つまり「統治」の眞義は


「神が萬有を生成化育する如く與へて求めぬ至公至平、世界無比なる天皇政治の根本精神」


を示してゐるのである。

 「しらす」は「知る」の延長である。

 他を「しらす」爲には、先づ自ら「知る」ことが必要となる。

 萬有を統一同化主宰して、これを生成化育するには、その淵源を知り、現状を見て、將來を予見して、内外顯幽に亙り、これをよく知らなければならぬ。

 よく知らざる限り、萬有をして各々處を得せしめ、生成發展させることなど出來る譯もない。
 

 「寶祚」は「あまつひつぎ」と訓む。

 古書によつては「天津日嗣」或は「天津日繼」とも書いてある。

 又「天皇位」と書いて「あまつひつぎしろしめす」と訓ませる例もある。

 これは天照大御神の御座(ぎよざ)を高御座(たかみくら)又は高御位(たかみくらい)といひ、天皇の御位をいふのである。

 であるから、皇位に坐(いま)す御方を皇孫命(すめみまのみこと)、皇命(すめらみこと)と申し、或は日繼(ひつぎ)の御子(みこ)と申し上げるのである。

 人にして神にあらせられるといふことから、現御神(あらみかみ)とも申し上ぐる。

 何故かといへば天照大御神、天之御中主神と三位一體にましますからである。

 天津日嗣(あまつひつぎ)の「天津」は美稱(びしよう)である。

「日嗣(ひつぎ)」にこそ重要な義があるのである。

 「日嗣」とは「靈嗣(ひつぎ)」の義で靈魂相續といふこと。

 宇宙の根本神であらせられる天御中主神の御靈(みたま)を始め、伊邪那岐神、伊耶那美神の二神、天照大御神、更に御歴代の天皇の靈魂と靈魂との相繼ぎて相續されるといふ意味なのである。

 恐れながら天皇崩御の際には、直ちに皇位繼承の儀式「神壐渡御(しんじとぎよ)の御儀(おんぎ)」を執り行はれ、皇太子は踐祚(せんそ)せられて、天皇とならせ給はれる。

 人間の情からいへば、哀愁の極に沈まれ給ふ際ではあるが、一國統治の上より、又世界平和の上より人情に制せられるべきではないが故に、皇孫として直ちに天津日嗣の高御座に踐祚ましますのである。

 この「神璽渡御の御儀」は、正式名を皇室典範の践祚ノ式にある「劍璽渡御(けんじとぎよ)ノ儀」で本來は國事行爲たる儀式である。

 現代では、「剣璽等承継(けんじとうしようけい)の儀」と名前を變へてある。

 劍とは天叢雲劍(あめのむらくものつるぎ)を指し、璽(じ)は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を示してゐる。

 これは皇位の証として伝わる三種の神器のうち、劍と璽を大行(たいこう)天皇(前天皇)から承継するもので、劍については宮中にある天叢雲劍の複製品を用い、神璽は本物とされる八尺瓊勾玉を用いる。

 同時に國璽(こくじ)と御璽(ぎよじ)の承繼も行われる。

 昭和六十四年一月七日、今上天皇皇位繼承に際しては、昭和天皇崩御直後、同日午前十時一分より皇居正殿松の間で執り行われた。

 國民代表として、内閣総理大臣、最高裁判所長官、衆議院・参議院両院議長の、行政・司法・立法の三権の長、全閣僚などが参列した。

 今上天皇は宮内庁長官らに先導され、皇族を從え、松の間に出御し、参列者に向かい合う形で正面の席に着き、剣璽及び國璽・御璽を侍從が今上天皇の前にある机に置くといふ儀式である。

 そして、即位の大禮、大嘗祭といふ神聖な儀式を經られて眞の天皇とならせ給ふのである。

 これらの儀式の重要性については後述するつもりである。

 世界各國、時の古今を問はず帝王大統領の卽位就任式多きと云へども、このやうに巖肅完全なる儀式が行はれる所は例を見ない。

 彼等はすべて、その國一國の人間的卽位戴冠式就任に過ぎないのである。

 この神璽渡御の御儀と同時に、天皇は天照大御神を始め歴代天皇の御靈が、天皇の玉體に宿り給ふ。

 ここに天津日嗣と申し上げる所以があるのである。

 この御祭事により、皇祖皇宗の御神靈が天皇の玉體に來り宿り給ふ。

 かくて神の延長として人の身となり、人の身として神となつて、始めて天津日嗣の天皇とならせ給ふのである。

 故に神人不二一體の現御神と申し上ぐるのである。

 そして、天皇は、獨り日本一國のみの天皇にあらせられず、世界、宇宙調和の天皇にましますのである。

 何故ならば、我が國は宇宙の眞理によつて開闢し、天地草創の古に起源する。

 皇國の根本中心たる天皇は天照大御神と御一體であらせられると申し上げた。

 天照大御神が無上の御方であらせられる所以は、宇宙生成の根源神たる天之御中主神の御精神を受け給ふた伊邪那岐、伊邪那美二神の御子様であらせられるからである。

 そして天皇は、この天照大御神の精神を承け繼がれておられる御存在なのである。

 この一點を見ても、天津日嗣の天皇は全國家、全世界萬有生成化育の本源であらせられ、宇宙萬有の運行と共に、寸時も間斷なく萬物を光被し給ふ御存在であることがわかるのである。

 天壌無窮の神勅はここが原點なのである。

 ここに悠遠なる國體の本源があり、天皇が人倫を以て律し奉るべきに非ざる神倫の御方であることが明らかとなる。


 茲にこそ、日本の國の永遠性の高貴さと吾等が誇りに思ふ所以があるといへます。

 戰前に於いてはこの天壌無窮の神勅は小學校で敎へられ、國民の總てがその意味を知つてゐたといひます。

 孝明天皇の時代に於ても、多くの國民がこの日本の國の高貴さ素晴らしさを知つてゐたからこそ、欧米色の侵略を何としても防がねばならぬと起ち上がつたといへます。