「元冦②」 

亀山天皇

四方(よも)の海浪(なみ)おさまりてのどかなる
  我が日の本に春は來にけり



《歌意》

 世界中の海の荒く激しかつた波も漸く治まつて、のどかなお正月を迎へる事ができたことに深く感謝致します。


 この御製は、元冦の危機が去つた安堵感に溢れ、喜びに満ちた御歌に感じます。

 蒙古襲来は、日本にとつて歴史上初めての強大な力を持つた外國からの侵略でした。

 そして又、元冦の頃は、武士だけではなく國民總てが國難に起ち向はんと、心が一つになった時期であります。
 特に、僧侶達もこの國難に對して強ひ怒りを持て起ち向つたのであります。

 日蓮上人のお話しは有名でありますので省くとして、臨済宗の宏覺禪師の次の歌はその後も語り継がれるほど國民を鼓舞しました。

末の世の末の末まで我國は
   萬づの國にすぐれたる國


(愛國百人一首)

 この歌は、蒙古より2回目の國使が來朝した時、朝廷の返書は

「我が神國は智を以て競ひ力を持って爭ふべからざる」

といふいかにも強硬な内容で拒否したものでしたが、執権北條時宗は更に強硬で斷然たる態度を以て返書を送ることをしなかつたのであります。

 しかし、その朝議(返書についての朝廷と執権の会議)が外に誤つて漏れたらしく、宏覺禪師は和親の返牒があるとの風評に怒りを持て、悲憤骨髄に徹し、ただ神佛の加護によつてこれを中止せんと、文永六年十二月二十七日から六十三日間祈檮を行ひました。

 その祈願文の最後にこの和歌一首がしたためられていたと言ひます。

 その祈願文は

正傅之を聞く、愁嘆量り無し。
悲しみ骨髄に徹し、・・・
重ねて乞ふ神道雲となり風となり、
雷となり、
雨となり、
破し國敵を摧く。
天下泰平、諸人快樂ならしむる。



 この祈願文は、戦前は國寶となつてゐたさうでありましたが、現在はどうなのか私には分かつておりません。

 しかし、元冦の當時、僧侶に至るまでいかに國を思ふ心が意気盛んであつたかが分かるのではないでせうか。

 ※参考文献 「愛國百人一首評譯」(著者 川田順 朝日新聞社刊)

 このやうに、國民がかうであれば武士は當然の如く更に激しい意氣を以て國難に起ち向つたのであります。


 果して、今の世は如何・・・。



 蒙古來(もうこらい)
   頼山陽

筑海(ちくかい)の颶氣(ぐき) 天に連なりて黑く,
海を蔽ひて來る者は何(いか)なる賊ぞ。
蒙古來る 北自(よ)り 來たる,
東西次第に呑食を期す。
嚇し得たり趙家の老寡婦を,
此れを持し來りて擬す男兒の國に。
相模太郞、膽甕(かめ)の如く,
防海の將士 人各ゝ力(つと)む。
蒙古來る、吾は怖れず,
吾は怖る、關東の令 山の如きを。
直に前み、賊を斫(き)り顧るを許さず,
吾が檣(しよう)を倒し、虜艦(りよかん)に登り,
虜將を擒へて 吾が軍喊(さけ)ぶ。
恨む可し、東風一驅して
大濤に附し羶血(たんけつ)をして
盡く日本刀に膏(こう)せしめざるを。



筑海颶氣連天黑,
蔽海而來者何賊。
蒙古來 來自北,
東西次第期呑食。
嚇得趙家老寡婦,
持此來擬男兒國。
相模太郞膽如甕,
防海將士人各力。
蒙古來 吾不怖,
吾怖關東令如山。
直前斫賊不許顧,
倒吾檣 登虜艦。
擒虜將 吾軍喊。
可恨東風一驅附大濤
不使羶血盡膏日本刀。

意味

 筑前の海の旋(つむじ)風(かぜ)は天を遮り暗く、海面を蔽ひて進み來るのはいかなる賊ぞ。それは蒙古が北方より来たりたる也。元のフビライは東西の此地を呑食せんと期し、先づ趙榮の老寡婦を脅し、その勢ひを持つて我が男兒の國をも呑食せんと欲せしが、幸いに鎌倉の執権北條時宗の豪膽にして、防海の將士の奮戰甚だ勉めるこれあつて皆いふ蒙古の襲來は恐るるに足らず、我れは関東の命令の山の如く重きを怖るるなりと。かくて、勇往直前して我が墻を倒し、これを撃ちて夷の軍艦に登り、虜の大將を擒にして吾が軍は一時に勝ち鬨を上げた。ただ恨むらくは東風大濤を驅り虜觀を覆沒せしめてしまつた爲に、わが日本刀にて盡く斬殺することはできなかつた。


亀山天皇(第九十代天皇)

 元の使者がやって來る

後嵯峨天皇の第七皇子。
 正嘉二年(1258)惨烈を極めた飢饉に見舞われた時期に即位されました。
 更に、元のクビライより國書を携えて使者が來日し、院政中に元冦が起つてゐます。
 全國の神社に異國降伏の祈願を指示すると共に、伊勢神宮に「身を以て國難に代へる祈願」を奉る。  




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