(七月第三週)

「元冦③」 

  後宇多天皇


いとどまた民安かれと祝ふかな
  我が躬世にたつ春のはじめに




(ツィッター掲載解説文)

 元冦の危機を乗り越えられた後に作られた御製です。天皇とは国民が安穏に暮らしてゆくことを願ひ、祈られてゐる。さういふ御存在なのであります。この御製を拝誦した時にそれがはつきりと実感する事が出来ます。



◇ブログ解説

 この御歌も元冦の危機を乗り越えられた後に作られた御製になります。


《歌意》

(元冦を撃退して)さらに又、國民が安らかで暮らしてゆけることを祝つてゐる。この私が天皇として新春を迎へたことを共に喜びたい。



 天皇とは唯々國民が安穏に暮らしてゆくことを願ひ、祈られてゐる。

 そういふ御存在なのであります。

 この御製を拜誦した時にそれがはつきりと實感する事が出來ます。

 後宇多天皇は、建武中興を行はれた後醍醐天皇の父君であらせられ第九十一代の天皇になります。

 前に御紹介させていただいた

「四方の海浪おさまりてのどかなる我が日の本に春は來にけり」

といふ御製をお作りになられた亀山天皇様の第二皇子であたられ、八歳で御即位され、父君である亀山天皇の院政の中、二回の元冦にあはれます。


 文永の役の時には御即位後すぐでした。

 この文永の役に於て武士達の奮戰は素晴らしく、博多の赤坂の戰ひでは、鎌倉幕府打倒に於て活躍する肥後の菊池一族の祖菊池武房が元軍を破り多くの首級を上げたのを端緒に九州各地の武將が上陸した元軍を撃ち破つたといひます。

 現代の歴史學ではこのやうな武士達の活躍と勇猛さは殆んど採り上げられることはありませんが、この文永の役は戰鬪に於ても日本軍の大勝利でした。

 また、弘安の役に於ても、武士達の奮戰活躍振りは凄まじく、元・高麗軍は其の戰闘の殆んどは日本軍が元軍を破つてゐます。

 神風が吹かなければ日本は負けたであらうと云ふのは間違ひであります。


 文永の役の流れについて、少し解説して見ませう。

 文永の役の最初は、元の皇帝フビライの國書が始まりといへます。

 文永五年(1268)フビライは、日本に對し、その自國の強大な武力を背景に通交を求める國書を六回も送つて來ます。

 朝廷と鎌倉幕府は、それを悉く強硬な姿勢を貫き返書を出しませんでした。

 それでも、第三回目の使節がやつて來た時、朝廷では文章博士菅原長成に返書草案を作り鎌倉幕府に問ふたのでした。

 その内容は次のやうなものでした。



「蒙古といふ國は今迄知られず、何ら因縁もないにも拘らず、武力を以て臣從を迫るとは、甚だ無體である。日本は天照大神以來の神國であつて、外國に臣從する謂はない」


といふ強硬な文章でしたが、鎌倉幕府は更に強硬で、返牒も出さず使節を追い返すのみでよいといふものでした。


 しかし、その朝議(返書についての朝廷と執権の会議)が外に誤つて漏れたらしく、宏覺禪師は和親の返牒があるとの風評に怒りを持て、悲憤骨髄に徹し、ただ神佛の加護によつてこれを中止せんと、文永六年十二月二十七日から六十三日間祈檮を行ひました。


 その祈願文の最後にこの和歌一首がしたためられていたと言ひます。

末の世の末の末まで我國は
  萬づの國にすぐれたる國


(愛國百人一首)

 その祈願文は


「正傅之を聞く、愁嘆量り無し。悲しみ骨髄に徹し、・・・
 重ねて乞ふ神道雲となり風となり、雷となり、雨となり、破し國敵を摧く。
 天下泰平、諸人快樂ならしむる」



 この祈願文は、戦前は國寶となつてゐたさうでありましたが、現在はどうなのか私には分かつておりません。

 しかし、元冦の當時、僧侶に至るまでいかに國を思ふ心が意氣盛んであつたかが分かるのではないでせうか。
 
文永九年(1272)

 鎌倉幕府は、異國固番役を設置。鎮西奉行少弐氏や大友氏に指揮を命じます。

 日蓮の立正安國論が幕府に上呈される。


 このやうなやり取りが六回も續き、フビライは日本を攻めることに決したといひます。

 そして、その準備には屬國となつて居た高麗に船を造らせました。

文永十一年(1274)

十月三日、

 元軍二萬五千人、高麗軍八千人、他に水夫等合せて四萬人の手勢を以て大小九百餘叟の船團が朝鮮半島の合浦(がつぽ)(現韓國・國馬山)から日本に向けて進攻したのでした。


 その後の流れを時系列で分かる範圍で書いてみます。

十月 五日

 午後四時。元軍、對馬に上陸。對馬守護代宗資國八十餘騎で應戰するも戰死。
 同日夜     博多へ對馬に元軍襲撃の報告に二人が出發。


十月 六日

 津島に元軍襲撃の知らせが到着。
 京都・鎌倉に元軍襲來の急報が出發した筈。
(船 → 京都二日・鎌倉四日。早馬 → 京都四日・鎌倉六日)


  十二日

 遅くともこの日には鎌倉に襲來の報告が到着してゐる筈。 
 對馬では、島民が悉く虐殺や生け捕りに遇ふ。(十三日まで)


十月十四日

 元軍、壹岐島を襲撃。壹岐守護代平景隆百餘騎で奮戰するも及ばず。


  十五日

 平景隆、城にて自害。元軍に據つて壹岐島は征壓される。
 對馬と同じやうに島民の悉くが虐殺されるか、生け捕られる。


  十六日

 肥前沿岸松浦郡に襲來。
 此の地を治めてゐた松浦党が奮戰するものの全滅してしまふ。
 死者數百人(女子供も含む)


※ここ迄は、日本軍のいい所が一つもありませんでしたが、それも當然です。
 迎撃態勢が整つて居なかつたのですから。 


  十九日

 九州地方の守護代や御家人によつて迎撃準備が漸く調ひました。


  二十日

 元軍が筑前國早良郡(現福岡市早良區)に上陸。
 進軍して赤坂を占領し、陣を布きました。
 日本軍は、息の浜に集結し、元軍を待ち構へて陣を布いて居ました。
 菊池武房が一族郎黨百餘騎で赤坂に陣を布く元軍を襲撃して撃破する。
 多くの蒙古兵の首級を擧げる。元軍は恐怖し赤坂から敗走する。
 敗走した元軍は、その本隊と合流し鳥飼潟にて陣を布く。
 日本軍も鳥飼潟に向かい、こゝで初めて大規模な戰鬪が行はれる。
 この戰ひに於ても元軍は敗走して百道原に退却。
 百道原にも日本軍が追撃し、
 元軍はやむなく上陸地まで退却せざるを得なかつた。


 元軍は軍議を開き、最高司令官が


「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあつて、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戰つても、多數の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増えるであろう敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言へない。撤退すべきである」


と撤退することにしたといひます。

 そして、夜間の撤退を強行してあ元・高麗軍は海上で暴風雨に遭遇して、多くの軍船が沈没して、帰還できたものは、高麗の史料によると一萬三千五百餘人と記録されてゐます。


 こゝに於て特筆すべきは九州の武士達だけで元軍を撃退したといふ事です。

 當然の如、鎌倉幕府から全國各地の武士達に動員が發せられ、續々と九州目指して向つて居たのですから、元軍が恐怖するのは當然ではないかと思ふのです。

 元の総司令官である忻都は文永の役後にフビライに次のやうな報告をしたと言ふ話があります。


「倭人は狠ましく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇つても、立ち向かつて戰ふ。勝たなければみな死ぬまで戰ふ。」

(『元韃攻日本敗北歌』)  


 元軍にとつては、ここ迄連戰連勝できて初めて強敵に打ちのめされたのでした。

 結局弘安の役に於ては三倍以上の兵力を投入することとなります。

 ここ迄、私達は若し神風が吹かなかつたならば、日本は元に征服されて居たといふやうな論理が罷り通つて居ましたが、決してそうではなかつたといふ歴史資料が存在するのです。

 私は日本人として、どちらかと言へば此の論理を支持したいと思ふのです。

 後宇多天皇は、この文永の役當時は、御即位されたばかりで八歳といふ御年齢でした。

 ですから、冒頭の御製は、弘安の役の撃退時に作られたのではないかと想像します。

 日本に立ち籠めて居た暗雲が新春を迎へきれいに吹き拂はれ、國民と一緒に御喜びになられてゐる大御心が現はれてゐる御歌に感じます。


 後宇多天皇は、學問を極めて好まれ、特に密敎に於ては著書を遺されるほど蘊奥を深められてゐます。

 和歌に於ても熱心で、二条爲世に命じて二度にわたつて勅撰集(『新後撰集』『續千載集』)を撰進させてゐます。

 大覺寺は、後宇多天皇が再興しました。

 また、後醍醐天皇による建武中興に於ても後援されてゐます。





(了)