「聖德」 (仁德天皇・大和時代)

みつぎ物ゆるされて、國富めるを御覧じて

高き屋(や)にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ
  民のかまどはにぎはひにけり
 

《歌意》

 高殿に登つて國の様子を見渡すと、民家からは煙が立ち上つてゐる。民の竃も豊かに榮えてゐるのだなあ。


 この御製は、國民が飢饉で貧窮してゐることを皇居の高殿から民家から煙が立ち上つてゐない事から察せられ、税金を許された後、五年後に同じく高殿に登られてみると、民家からは澤山の煙が立ち上つてゐるのを見られての御歌です。
 後の天皇様は、國民の豐かなことを願ふ指針としてこの仁德天皇の御事績を常にご參考にされたことが多くの天皇様が「民のかまど」の御製を歌はれた事からも分かります。


この御製に於ける逸話


仁徳天皇は即位されて4年目、高台にのぼって見渡されました。
すると家々から炊事の煙が立上っておらず
国民は貧しい生活をしているのだと気づかれました。
そこで3年間年貢などを免除されました。
そのため天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果ててもそのままにしていました。

そうして3年、気候も順調で国民は豊かになり、高台に立つと炊事の煙があちこちに上がっているのが見えました。
国民の生活は見違えるように豊かになりました。
それを見て天皇は喜ばれ「自分は、すでに富んだ」と言われました。

それを耳にされた皇后は
「私たちの住んでいる皇居の垣は崩れ、雨漏りもしているのに、どうして富んだといわれるのですか」と問われました。
すると天皇は
「昔の聖王は国民の一人でも飢え寒がる者があるときは自分を顧みて自分を責めた。
今、国民が貧しいのは自分も貧しいのだ。
国民が富んでいるのは自分も富んでいるのだ。
未だかつて人民が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と答えられました。

やがて天皇に感謝した人々が諸国から天皇にお願いしました。
「3年も課役を免除されたために、宮殿はすっかり朽ち壊れています。
それに較べて国民は豊かになりました。
もう税金をとりたてていただきたいのです。
宮殿も修理させてください。
そうしなければ罰があたります」

それでも天皇はまだ我慢してお許しにならなりませんでした。
3年後にやっと許されると、国民はまず新しい宮殿づくりから始めました。
人々は命令もされないのに、
老人を助け、子供を連れて、材料運びに精出し、昼夜兼行で競争して宮殿づくりに励みました。
そのためまたたく間に宮殿ができあがりました。
それ以来天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」とあがめるようになりました。


(転載 http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/16399640.html)




(漢詩)

 炊烟起る。  頼山陽

烟未だ浮ばず。天皇愁ひたまふ。

烟已に起る。天皇喜びたまふ。

漏屋(ろうおく)蔽衣(おほい)赤子(せきし)を富ましむ。

子富みて父貧しき此の理無し。

八洲樓樓百萬の烟、

皇統を簇(むらが)り擁して長(とこしへ)に天に接す。




烟未浮  天皇愁
烟已起  天皇喜
漏屋蔽衣富赤子
子富父貧無此理
八洲樓樓百萬烟
簇擁皇統長接天

※仁徳天皇「民既に富む。則ち朕の富めるなり。未だ民富みて君貧しき者非る也」



民のかまどの烟はでていない。仁徳天皇、それを憂ひたまふ。
民のかまどの烟は澤山出て來た。仁徳天皇、とても喜ばれる。
その間、税金を許されたため、國民は豊かになつたが皇居は雨が漏れ、
着物にも不自由されることとなつた。
子供が豐かになつて親が貧しい道理がある譯がない。
大八洲の百萬もの國民の家から炊烟が樓樓と立ちのぼることになつたのも、
仁徳天皇のお慈悲によるものであり、
國民は永久に皇統綿々と貫ぬくこの慈愛を語り繼いでゆく。






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