京城、鵜殿城攻め  熊野速玉大社、神倉神社お詣り。

 

体力はまだ残ってそうなので新宮城 攻め

 

 

和歌山県新宮市

紀伊・新宮城(しんぐうじょう)別名:丹鶴城、沖見城

 

新宮城は二度目ですが、日暮れまでまだ時間があるので、たまには近世城郭の整った石垣も楽しもうかとぴゃ~と攻城。たまに楽しんでますが真顔

 

【駐車場の説明板】適度にお読みください。

ちなみに、初代城主・浅野忠吉は浅野長政(長吉)の従兄である。

 

駐車場(現在地)からの階段上れば最短距離で本丸まで行けますが、その駐車場からの階段は往時にはなく公園として整備されてからの改変というのが気に食わないので、矢印方向から攻め込んで行きます。

 

道路から見えた鐘ノ丸石垣。樹木がなければもっと高石垣なのに。

 

気に食わないといいながら、丹鶴公園になってから造られた入口と冠木門から突入します。

 

冠木門からの石段は現在の大手道で、往時からここに道があったかどうかは知らない。たぶんなかった。

 

石段を進むと二ノ丸(左側)からの大手道跡と合流すます。その先の石段は往時の石段感が醸し出されてます。

 

正保元年(1644)絵図に描かれてる往時の大手道。今通って来た入口と石段はやっぱし描かれてない。

 

元あった大手道は御覧の如し。二ノ丸跡は宅地となっています。ただ、この下に高石垣が現存するが、見てない真顔 ていうか、私有地なので見れるかどうか。

 

石段を進むとそろそろ現れる石垣。ここら辺は野面積みで城内でも古い時代に積まれたものか。

 

神倉神社で石段を見るのはイヤんなったが、城跡の劣化した不規則な石段は適度に心地いいニコニコ

 

石段を上り切ると松ノ丸西門。櫓門?であったのか門を構成する両脇の櫓台?の石垣は隙間がないバッチ切込み接ぎである。

 

頑丈な石垣で枡形虎口が構成されている。

 

松ノ丸はスルーして ← なんでや! 鐘ノ丸渡櫓門。松の丸西門より規模が大きくこちらは文字通り櫓門形式であったものかと。

 

鐘ノ丸の石垣。切込み接ぎの横の目地を通した布積みである。

 

鐘ノ丸渡櫓門の桝形を抜けて見返す。枡形の正面(画像の左)に鏡石があるが、写し損ねた真顔

 

だだっ広い鐘ノ丸

 

鐘ノ丸からの眺望。はぁ?

 

鐘ノ丸から本丸方向へ向かうのに庭園がありますが、正保絵図にも載ってないことからして、近年の改変かと。

 

庭園を抜け鐘ノ丸東門跡を抜けると本丸の下段(腰曲輪?)へ出ます。正面は本丸石垣で、櫓風の建物はトイレ。

 

右に折れると展望台。この辺は昔ケーブルカーの発着所があって改変されたか?

 

そのケーブルカーの軌跡。これは昭和の遺構。

 

本丸西側の天守台石垣になりますが、昭和の時代に大雨の影響で崩落(樹が生い茂ってるとこ)し、修復されずにそのまんまにされてるので、南東の隅石だけが残るザンネンな不格好な天守台である。ありもしない石段も付けられてる。そしてトンビがクルリと輪をかいた。

 

そして横矢横矢横矢が並ぶ本丸南面の高石垣。石垣上直線部には多聞が、横矢部にはが建っていました。そして隅石はキレイに加工されたバッチ算木積みである。

 

横矢横矢。この奥へ進むと搦手門へ行けるが行ってない。

 

 

トイレ下の左の空間。

 

水ノ手曲輪が見下ろせます。水ノ手曲輪は熊野川に面した船着き場が置かれた。下まで行ってまた戻ってくるのが意外とシンドイのでもう行きません。前に行ったからええし。

 

その代わりアップで御覧ください。

平成6年(1994)水ノ手で行なわれた調査において、13棟の炭納屋群跡が発掘され、水野氏の時代に備長炭を江戸の市場に送り財源を得る拠点であったことが認められたとな。

 

本丸北面石垣下の犬走りから出丸まで行けますが、通行止となってました。前は行けたのに。

 

本丸大手虎口。正面のバッチ切込み接ぎ石垣に渡櫓が乗っかっていた。いまいる辺りは高麗門があったとか。

 

切込み接ぎ打込み接ぎの違いがお分かりいただけるかと。

 

切込み接ぎの石垣は野面や打込みと比べて隙間がない分、水はけが悪いという。

 

本丸の桝形虎口を本丸から。二方向に雁木があるが元から?

 

本丸 ぶっ壊れた天主台跡は人がいたので撮り逃す。

 

本丸から見る渡櫓の櫓台

 

櫓台から櫓台を見る。

 

本丸から見る熊野川。

 

本丸から見る出丸 水ノ手と熊野川を行き交う舟を監視する役目を担っていたかと。

 

出丸でおまる すんませんあせる 

 

本丸南面の横矢から見る横矢。

 

石垣をよじ登る敵に横矢が降り注ぐ。

 

本丸から見る新宮市街と海。

 

丹鶴姫(鳥居禅尼)平安から鎌倉時代末期の女性で源平の乱の際に反平氏をよびかける以仁王の令旨を諸国の源氏に伝え歩いた。源行家(新宮行家)の姉

 

本丸の東にある搦手門の桝形。

 

搦手はどこに通じているか正保絵図にも描かれてない。

 

面取りし、谷目地に石表面を高く膨らませた特殊な化粧石があるが、今立ってる方にあるみたい。下まで降りたらよかった真顔  ちなみに、前の画像の下二段目の隅石がそうです。

 

撤収

 

 

 

画像はだいぶズレてます。

 

 

登城記念符(御城印)は新宮駅前の新宮市観光協会にてかっぱらい 購入。
上の朱印紋は水野氏の丸に沢潟(水野沢潟)、下の「餅の内に杵」は浅野家(忠吉系)の家紋であるそう。だもん!
 
 
 

 

 

23年11月