秋田県のほぼ中央部に、かつて阿仁鉱山(あにこうざん)と呼ばれていた地域がありました。

 

そこの歴史は古く、江戸時代には隆盛を誇っていたようです。平賀源内が鉱山指導を行っていたとの記録もあるようなので、相当の規模だったと想像できます。

特に、徳川吉宗が将軍となった年には、産銅日本一になったようです。

 

今回は、その阿仁鉱山跡を見に行ってきました。

 

現地に到着すると、秋田縦貫内陸鉄道秋田内陸線の駅である阿仁合駅から”縄文号”が出発するところでした。

 

 

すぐに、入れ違いで”笑EMI号”もやってきました。

 

 

私事ですが、移動する鉄道の撮影がうまくできません。小型の1インチコンテジを使っているせいか、移動物のシャッターを押す時に、画面がぶれてしまうようです。

(前日の深酒の影響ではありません!)

今回は、比較的上手く撮影できました。

 

阿仁鉱山を知る為に、明治33年発行の鉱山発達史を読んでみました。鉱山概要を知りたければ、Wikipediaで検索するのが手っ取り早いのっでしょうが、こういった当時の文章をちらっと眺めるでも楽しいですね。明治の息吹を感じる事ができます。

 

【鉱山発達史 農商務省鉱山局 明治33年発行】

 

さて、阿仁鉱山とは言っても、いろいろな鉱山の複合体だったようです。その中でもメインの鉱山だった小沢鉱山にやってきました。昭和53年には閉山されていますが、それからわずか40年あまりで、ほぼ自然に還っていました。

 

 

山中には、選鉱場と、積み出しホッパー跡が残されていました。

 

 

興味が無い人から見ると、単なる古いコンクリートの塊にしか見えないのではないでしょうか。

 

 

たしかに、コンクリートの塊なのですが、ここに壮大な鉱山の建物群があった事を想像するだけで、楽しめてしまいます。

なお、建物内部は立ち入り禁止でしたので、撮影はしておりません。

 

 

円形のコンクリート基礎が残されていました。水タンクか何かがあったのでしょうか。

 

 

日本のコンクリート柱が残されていました。おそらく、ここにベルトコンベアーなどがあったのでしょう。

 

 

不要なズリ(選鉱した後のカス)がベルトコンベアーで運ばれた、ここに堆積した後に搬出したのかもしれません。

 

 

阿仁鉱山で採掘された鉱石は、ある程度に分類した後は、東雲製錬所に搬出して最終セ氏品である『銅』になっていたようです。

ですが、その東雲製錬所ですが、どこにあったのか特定できないようです。今から130年前の話なのでしょうが、何らかの理由で無くなったものは、その場所すらわからなくなるというのが不思議ですね。

 

【東北地方における地下資源と製造工業 渡辺氏論文より転載】

 

さて、阿仁鉱山といえば、旧阿仁鉱山外国人宿官舎である異人館が有名です。

ここの異人館を見たくて、わざわざ旅の計画に組み込んでいるくらいです。

この異人館ですが、明治12年に、いわゆる”お雇い外国人”としてドイツからやってきた鉱山技師のメッケル達によって建設されているようです。

 

 

この建物の特徴ですが、パンフレットにはこう書かれています。

・ルネッサンス風ゴシック建築

・四囲に巡らしたベランダはコロニアルスタイル

・切妻の屋根と煉瓦建築

 

本当に、異国情緒が溢れているといえますね。

 

 

文明開化で有名な鹿鳴館ですが、明治16年に建設されています。その4年前である明治12年に、ミニ鹿鳴館ともいえる阿仁鉱山の異人館が建てられているのが驚きました。

おそらく、秋田の人たちにしたら、当時はテレビも新聞も無い時代です。

初めて見た、異国の姿だったのは無いでしょうか。

 

<鹿鳴館:国立国会図書館写真帳より転載>

 

異人館の煉瓦ですが、取り寄せたものでは無くて、現地の粘土を使って、付近で焼かれたものだそうです。それゆえ色も不ぞろいですが、建設から140年たった今でも健全ですので、煉瓦は長寿命ですね。

積み方はイギリス積みです。

 

 

この異人館ですが、前にも書きましたが、ドイツ人が設計しています。そうなると、煉瓦の積み方は”いわゆる”ドイツ積みを採用しなかったのでしょうか。

そのあたりの詳細の理由はよくわかりません。ですが、自分たちが住んだり執務をする建物ですので、日本は地震地帯といった事も考慮して、耐震性に優れるイギリス積みを採用したのではないでしょうか。

ちなみに、煉瓦建築で有名な東京駅ですが、表面はドイツ積ですが、内部の構造体はイギリス積みになっています。その場合、壁厚はとても大きくなるので、東京駅の様な巨大建築には問題無いのでしょう。ですが、この程度の小規模建築では最小限の壁厚で、強度に優れる工法を採用したのでしょうか。

 

<一般社団法人日本能率協会 ものづくり総合大会より転載>

 

わざわざ、遠い異国からやってきたメッケル達です。少しでも、本国が感じられるように、細かいところまで意匠を西洋仕様で統一しているようです。

明治12年頃なら、阿仁地区では、まだ椅子も無かったのではないでしょうか。

地元の人が、この部屋を見た時の驚きを想像しただけで楽しめます。

 

 

コロニアルスタイルの廊下ですが、自分で歩くことも可能です。

 

 

白亜の階段も見事ですね。欄干部分に四つ葉のクローバーをあしらった文様が彫られています。

この模様は、四葉(Quatorefoil:クワトレフォイル<クワットレフォイル>)と呼ばれる、ゴシック建築の様式で、同じ直径の四つの円が重なり合う対称的な形状になります。

 

 

かつて、自分でクワトレフォイルの作図を考えて、トライしたことがあります。

その図示方法はこちらです!

 

ヨーロッパでは、橋梁の欄干によく使われていました。

 

 

さて、異人館の窓ガラスから外部を覗いてみます。

あえて、ガラス面をアップで撮影してみました。明治12年のオリジナルのガラスの様ですので、まだまだ焼きムラや、ゴミなどが内包されています。

もちろん、ガラス面のゆがみで写真がボケているように見えますし、右方向の中断の丸い塊はガラスに入り込んだゴミです。当時の時代を感じられて素晴らしいですね。

 

 

ガラスから少し離れて撮影しました。これくらいが、当時の人々が自分で見えた景色だと思います。やはり、歪みは感じられますが、これから数十年後には、技術が発達して、現代のガラスに近づいたようです。

 

 

下に記したレールについては、諸説あるようですが、いろいろと調べてみましたが、根拠がないのでこの場では写真だけの掲示としておきましょう。

旅された方は、自分で図書館等で調べてみると面白いです。奥が深い事実が見えてきそうです。

 

 

このレールの真実を知ろうとすると、おそらく数年はかかるブログの大作になりそうです。

 

 

明治時代の初期に、東京の鹿鳴館よりも早く地方に建設された、ルネッサンス風ゴシック建築。現代でも、十分に通用する異国情緒あふれる建築物ではないでしょうか。

それをじっくりと鑑賞する事ができます。

古い煉瓦建築ファンには、とても貴重な歴史遺産だと思いました。