和歌山県の最南端にある串本町に、紀伊大島と呼ばれる県内で最大の面積を有する島があります。昔は”紀伊大島”とは呼ばずに”串本大島”や、単純に”大島”と呼ばれていた時期もあったようです。

この紀伊大島ですが、一昔前までは船でしか渡ることができない、とても不便な場所でした。私が子供の頃は、フェリーで渡って散策したり海産物を食べたりした記憶があります。たしかに、不便ではありましたが、フェリーに乗る事自体が子供には面白く、今でも鮮明に旅の記憶が残っています。

21世紀になる直前の1999年(平成11年)に、くしもと大橋が開通してから、やっと車での往来が可能となって、気軽にドライブを楽しめるようになりました。

 

くしもと大橋ですが、海蝕段丘や海岸段丘と呼ばれる急斜面に造られているのが特徴です。

2ヒンジの鋼アーチ橋で、橋長は290mとなります。

 

くしもと大橋

 

とても巨大なアーチ橋ですが、何故、この形式にしたのでしょうか。串本ポータルサイトによると、この橋梁の形にした選定理由ですが、 『自然との調和を尊重した島影を思わせる緩やかな放物線を描くアーチが特徴』とありました。

たしかに、巨大な構造物のわりに、自然の風景の一部として溶け込んでおり、地域のシンボルとしてもカッコイイなあと思いました。

同サイトの中には、橋梁の架設状況の写真がアップされていました。上の写真と見比べると、架設がとても大変だったというのが、想像できます。

 

くしもと大橋建設時写真

 

串本湾には、”近代マグロ”で有名となった、マグロの養殖場も見ることができます。

以前、養殖マグロの餌やり体験に参加したことがありますが、たしか、写真の中央に見える四輪の生け簀だったと思います。

ここは、太平洋からの波を直接受けない島裏となります。

 

近代マグロ養殖場

 

紀伊大島を縦断する様にドライブすると、先端部分に『樫野崎灯台(かしのざきとうだい)』と呼ばれる、土木学会の選奨土木遺産があります。

 

太平洋に突き出た岬部分に建造された白亜の建物は、本当に迫力があります。

 

樫野崎灯台

 

景観としても大変美しいのですが、なんといってもその歴史的価値が凄いです。

 

樫野崎灯台の歴史を調べてみると、土木学会の選奨土木遺産選考委員会の説明には以下の様に記さていました。

名称 樫野埼灯台 (かしのざきとうだい)
所在地 和歌山県東牟婁郡串本町大島樫野
竣工年 1870(明治3)年
選奨年 2017年 平成29年度
選奨理由 英国技師ブラントンによる石造洋式灯台であり、地元古座川産の宇津木石を用いたわが国初の回転式洋式灯台である。

竣工年は明治3年となり、その設計から建設期間を考慮すると、明治維新といわれる時代の本当の初期に計画されたことがわかります。それこそ、会津戦争が終結した明治元年には計画が立案されたと思われます。(根拠は無し)

 

設計者は、イギリスのスコットランド出身の鉄道技師であるブラントンだと書かれています。

スコットランドで、その時期に鉄道建設をしていたとなると、フォース鉄道橋の周辺の路線を担当していたのかもしれません。

 

<イギリス スコットランドにあるフォース鉄道橋(1890年竣工)>

フォース鉄道橋 スコットランド

 

時期的には、フォース鉄道橋を着工したのは明治15年ですので、ブラントン技師は、直接にはこの橋梁には関わっていないと思われますが、もしかしたら帰国後に関係しているかもしれません。

 

 

ブライトン技師ですが、日本政府の灯台建設技術者募集に応募して採用されたのは、わずか27歳の頃とあります。

現代の日本では27歳の若者に、日本最初の西洋式灯台の設計の責任者などに任命する事は絶対にないと思います。外国人故に、若くても採用されたのでしょうか。

そこで考えてみたのですが、日本でも若くても国家的プロジェクトの全てを任された人もいることに気が付きました。

それは、琵琶湖疏水の建設を任された田辺朔郎博士です。田辺博士は、それこそ大学を出たてで国家プロジェクトを任されています。

話は脱線しましたが、かつての日本は頭がやわらかく、前例にとらわれない指導者達もいたのですね。

 

 

樫野崎灯台ですが設計を開始したのが明治2年で、竣工は明治3年とあります。そもそも、何故、新しく生まれた明治新政府がこの灯台を建設しようと思ったのでしょうか。

他にやるべきことは、いくらでもあったと思うのですが。

 

調べて行くと、この灯台建設には、倒幕前の江戸幕府が外国に建設を約束したので、それに基づいて計画していたのを、明治新政府が引きついだとの事です。

幕府が調印して建設するといっていたのなら、新しく生まれた政府は拒否もできたはずです?

 

その当時の文章を読んでいたら、そもそも幕府が灯台建設の調印した大きな原因は、長州藩が外国船と交戦した下関事件だった様です。その当時の幕府は、ある意味敵だった長州藩の後始末をつけさせられたということなのでしょう。

単純な話として、幕府が灯台建設の約束をした原因が、新政府の主たる長州藩だったので無視も出来なかったという事でしょう。

(以上は個人の見解ですので正誤は不明です)

 

 

樫野崎灯台の建設当時の写真を探していたら、The Far Eastといったイギリスの雑誌に完成直後の写真が掲載されているとの情報を串本町から頂きました。

 

The Far East : an illustrated fortnightly newspaper vol.1 no.20

THE FAR EAST

 

大島に灯台を建設した理由や、捕鯨基地などについても記されています。

 

 

写真のタイトルは、The OOSIMA Lighthouse (大島灯台)でした。

 

 

上下の写真を比較してみると、搭本体の長さが異なる事に気が付きます。

 

樫野崎灯台 選奨土木遺産

 

和歌山県教育委員会の資料によると、どうも搭の中間部分が後に追加された様です。

これだけの構造物の最頂部を取り外して、下部の建物に中間層を継ぎ足して、最後に取り外した頭頂部を付け足したのでしょうか。

とても興味がありましたが、詳しい資料は見つけられませんでした。

継ぎ足した理由は想像になりますが、時代の変化によって、より遠くから見えるようにだと思うのですが。

 

 

灯台を海上から見てみることにしました。海蝕段丘の地形がよくわかります。断崖絶壁の上に、フラットな地形が連続している不思議な地形ですね。

 

選奨土木遺産 樫野崎灯台

 

下関戦争での賠償金を減額してまで、欧米列強がここに灯台建設を約束させた樫野崎灯台。その理由を感じながら風景を見ると、また違った景色になりそうです。

 

 

 

最後に、動画もありますので、是非<m(__)m>

 

<注:ドローン飛行については、関係場所に確認(提出)を行っています>