ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams


①主郭上段と伝・旧城②主郭下段から上段③虎口跡か④主郭切岸⑤段状曲輪遺構⑥旧城との間の堀切

 

訪問日:2026年10月

所在地:宮城県黒川郡大郷町

 

 築館城が存する羽生村を含む大谷(おおや)郷は、奥州藤原氏滅亡後、陸奥留守職に任ぜられた伊沢家景に与えられ、地頭は鎌倉時代のほとんどを菅原姓伊佐氏が世襲したようだ。

 

 その後、大谷郷周辺は、吉良氏(奥州管領)、大崎氏(奥州管領)、留守氏(陸奥国留守職)、葛西氏(奥州総奉行)などが争い、豊臣秀吉の奥州仕置を迎えることになる。

 

 築館城主と伝わる岡山城(おか・やましろ)についての詳細は不明だが、岡氏は河内国から来た(封内風土記)とあり、伝承によると先祖は岡河内守だという。

 

 はじめ大谷郷川内村を拠点としたが、その後羽生村に進出して築館城を築き、氏寺として天台宗桂蔵寺を開いたが、その後敗れて川内村に退いたという。

 

 岡氏の撤退とともに桂蔵寺も川内の現在の支倉氏墓所の地に移ったが、その後衰退し、慶長19年(1614)臨済宗寺院として再興され、南麓の現在地に移ったと伝わる。

 

 岡山城の5代裔の岡右馬允は天正の末に葛西氏家臣・摺沢氏とともに滅亡したという。天正18年(1590)の奥州仕置によるものかと思われる。子孫については確認できなかった。

 

 ただ、明治22年(1889)町村制施行に伴い、羽生村や川内村など9ヶ村が合併して大谷村が発足した際、初代および3代村長を務めた岡好典(1854?-1924)という人物が気になる。

 

 当時の町村長は、直接選挙ではなく、限られた人々により構成された町村会が、地域の名望家・地主・旧庄屋(肝煎)・戸長などといった有力者の中から選ぶことが多かった。

 

 故に岡公典は、大谷村の有力者であった可能性が高く、岡山城の末裔が帰農して地元の有力者となったという可能性も考えられるとは思うが、彼の系譜を知ることはできなかった。

 

 昭和29年(1954)大谷村は、大松沢村・粕川村と合併して大郷村となり、昭和34年(1959)にはこれが町制を施行して大郷町となって現在に至っている。

 

 町名の由来は、「大谷郷」の「大」と「郷」を取ったものとされる。

 

 

以下、現地案内板より

 

築館城跡

 築館城跡は、大郷町羽生地区の吉田川低地に向かって張り出した丘陵上に立地し、丘陵の自然地形を巧みに取り入れた山城的な性格をもつ館である。この地域は松島・鹿島台・吉岡を結ぶ交通上の重要な位置を占めている。大谷保の一部である羽生地区を開発しながら支配した地侍の構築した館で、室町時代ごろのものと考えられる。

 

館の構築

 本館跡は吉田川低地に向かって北に張り出した丘陵を利用して構築されている。館跡の東側は現在住宅地となっているため、館跡の範囲を特定することは困難であるが地形的にみて最も東側の段状遺構の東にある現在の堀付近と推定される。館跡の北側は急峻な丘陵

斜面をそのまま利用しているが南側では、丘陵を堀切で区切って区画している。西側では自然の沢を堀状に利用している。このように本館跡は自然地形を巧みに利用して構築されたいわゆる山城といえる。

 上段平場の構築をみると、丘陵頂部を削り出して平坦面を造成し、削り出した土で縁辺を整地して平坦面を広くしている。また、上段平場斜面の下部を削り出して平坦面を造成し、南側には下段平場、東西には数段の段状遺構を構築している。上段・下段の平場とも縁辺に土塁や堀などの施設は認められない。

 上段平場の南西端には、下段平場から通路を登り切った位置に門が設置され、門の所から平場の中央部に向かって溝状の通路が延びている。上段平場の調査区でも柱穴が検出されており、掘立柱建物等の施設が建てられていたと推定される。

 また、西側の段状遺構から下段平場の北西部に登る通路跡が推定され、ここから接続すると考えられる上段平場の登り口にあたる下段平場の部分には溝状の遺構が検出された。

 

館主と歴史的背景

 館主を示す資料としては、仙台藩によって江戸時代初期の延宝年間(1673~1681)に編纂された『仙台領古城書上』やほぼ同時期に編纂されたと推定される『仙台領古城書立之覚』がある。前書には「城主岡山城」、後書には「右城主岡山城ト申者之由申傳候」とある。今回の遺構確認調査では、本館跡の明確な年代や城主を特定できる資料は得られなかったが、各地の館跡の調査例から本館跡も中世・室町時代ごろに営まれたものと推測される。そして、廃城後も江戸時代初期まで岡山城の名が伝承として残っていたものと考えられる。

 この岡山城は、明和9年(1772)に田辺希文が編纂した『封内風土記』には川内小屋館の城主とも記載されている。これらの記録によれば、岡氏は少なくとも現大郷町内の羽生・川内地区を支配していた地待と考えられる。しかし、同氏がいつごろの時期までさかのぼれるのかは明らかではない。

 羽生・川内などを含む現大郷町内の吉田川右岸地域は、平安時代末から中世にかけて黒川郡とは区別された大谷保と呼ばれ、独立した行政単位とされていた。保はもともと開発可能な広大な荒野をもつ地域をさしていたとされる。鎌倉時代以降、この大谷保の支配をめぐって菅原氏、吉良氏、大崎氏、留守氏、葛西氏などによって交代して戦いがくりひろげられてきた。

 このような中にあって、岡氏も室町時代ごろに彼らの傘下のもと羽生・川内地区を中心に荒野の開発にあたり支配領域を形成したが、戦国時代末期には、黒川氏・葛西氏・留守氏などの大勢力(国人)のはざまで消滅していったものと推測される。

  大郷町文化財調査報告書(平成4年3月)より

 

財団法人 宮城県文化財保護協会  大郷町教育委員会

①桂蔵寺本堂②桂蔵寺山門③桂蔵寺支倉家墓所④伝・支倉常長墓⑤支倉新右衛門墓⑥支倉常長メモリアルパーク

 

訪問日:2026年10月

所在地:宮城県黒川郡大郷町

 

 元和6年(1620)遣欧使節の任務を終えて帰国した支倉常長であったが、日本ではすでに禁教令が出されており、伊達政宗もフランシスコ会の修道士2名を追放した。

 

 常長は失意のうちに元和8年(1622)52歳で死去したとされ、幕府にも報告された。子の常頼が跡を継いだ。しかし常長の墓所と伝わる3ヶ所に記された墓碑の没年はそれぞれ異なるものとなっている。

 

 光明寺(仙台市青葉区)の墓碑は元和7年(1621)、故郷である支倉の圓福寺(宮城県川崎町)のものは元和8年7月1日(通説)となっている。

 

 そして、この大郷町東成田のものでは常長は、承応3年(1654)となっており、常長は政宗により隠れ人とされて84歳まで生きたと伝わる。

 

 これが単純に事実とは信じられないが、政宗ならこの程度の隠蔽工作は簡単にしそうなので、可能性としてはゼロではないような気がしている。

 

 一方、常長が欧州から持ち帰った品々は藩により没収された上、常頼は寛永17年(1640)家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され、支倉氏600石は断絶した。

 

 寛文8年(1668)常頼の子・常信は赦されて60石で家名を再興し、川内に住んで林蔵寺(大郷町川内)を菩提寺とした。川内支倉氏はそのまま明治を迎えた。

 

 常長の名とその偉業は、岩倉具視を代表とする明治新政府の使節団(1871-73)が欧州でその事実を知るまで、日本ではほとんど忘れられていた。

 

 

以下、現地案内板より

 

支倉六右衛門常長の墓

 

常長は藩主伊達政宗の命により遠くスペイン・ローマへ通商交渉のため慶長18年(1613)秋牡鹿郡月ノ浦を出港。7年の歳月をついやして元和6年(1620)秋帰朝したが、時既に鎖国と切支丹弾圧が全国に強行されていた。仙台藩は元和8年常長死亡の報告を幕府に提出したが、長途の困難な使命を果した功臣常長を人目に触れないこの山林の中に隠し静かな余生を送らせた。

帰朝後30年承応3年3月常長は84歳の天寿を全うした。以来、支倉別家で常長の義弟新右衛門家中の者が代々堅く世に秘して墓をまもってきたものである。

 

碑面の刻文 梅安清公禅定門 承応三年二月十七日 支倉氏

 

(財)宮城県文化財保護協会 大郷町教育委員会

 

 

支倉六右衛門常長「子孫の墓」

 

 支倉六右衛門長率いる遺使節団は、仙台藩主伊達政宗の命を受け、慶長18年(1613年)に月ノ浦を出帆し、メキシコを経由して通商交渉のため欧州へと向かい、スペイン国王、ローマ教皇との謁見を果たした。元和6年(1620年)、支倉常長は出航から7年にも及ぶ交渉の旅を終え仙台に帰還したが、徳川幕府のキリスト禁止令により、藩主伊達政宗の指図でこの郷(東成田西光寺)に隠れ人となって暮らし、終焉を迎えたという口伝えが、今もなお語り継がれている。

 支倉常長がここに隠棲したのは、決して理由のないことではない。常長の支倉常成が天正19年(1591年)、黒川郡内に采地50余町歩を賜ったという史料がある。常長20歳の時である。東成田西光寺及び川内安戸には、支倉家屋敷跡と伝えられる処があり、川内安戸には常長の孫である支倉又兵衛常信以降の子孫が住んでいた。

 桂蔵寺には、この常長3代常信以後の子孫が葬られた墓碑が現存し、寺の過去帳にも一部記載されており、常長との関わりの深さを知ることができる。

 

 ①菊玄妙英禪定尼霊 天和元年(1681年)不明

 ②花岳宗香信士霊位 貞享2年 (1685年)支倉又兵衛常信 (三代)

 ③顕峯道隠信士 元禄11年(1698年)杦沼金右衛門

 ④花顔妙臨信尼 宝永4年(1707年)不明

 ⑤皈眞春林妙意霊 宝永7年(1710年)不明

 ⑥皈元春室妙花信尼霊位 正徳2年(1712年) 支倉又兵衛常盛二女 千代

 ⑦了然崇悟信士 正徳5年(1715年) 支倉又兵衛常盛(4代)

 ⑧蓮台妙香信女 享和3年(1803年)支倉内蔵之亟清隆妻

 ⑨晚翠道照信士 享和4年(1804年)支倉内蔵之亟清隆(7代)

 ⑩法玉善童子 安政3年(1856年)支倉清成之甥 堀江仲治

 ⑪支倉清成先生之墓 明治12年(1879年)支倉清成(9代)

  支倉清成先生夫人りえ子之墓 明治20年(1887年) 支倉清成妻

 

 以上の如く支倉常長直系の子孫の墓があることは、この人たちが大谷村(現大郷町)に住んでいたことを証し、また住んでいたということは、ここに采地があることを立証するものである。

 

平成26年 (2014年)3月建立

大郷町教育委員会

①吉見百穴②吉見百穴③軍需工場入口④吉見百穴内部⑤岩室観音堂⑥岩室観音堂内部

 

訪問日:2015年11月

所在地:埼玉県比企郡吉見町

 

 吉見百穴は、6世紀末から7世紀後半にかけて造られた横穴墓群とされる。横穴墓は古墳の横穴式石室に似ているが、基本的には墳丘を持たない。

 

 横穴墓は、5世紀後半に九州北部で出現し、6世紀半ばまでに山陰・山陽・近畿・東海まで広がり、7世紀初頭までに北陸・関東・南東北まで広がったと考えられている。

 

 大化2年(646)に大化の改新の一環として発布されたという、身分に応じて陵墓の規模などを制限する「薄葬令」前後から頻繁に造られるようになったようだ。

 

 ヤマト王権が権威を確立し、6世紀の仏教伝来により火葬とともに権威の象徴が寺院へと移り、すでに畿内では権威の象徴としての巨大古墳は築かれなくなっていた。

 

 ただし「薄葬令」は『日本書紀』(720年完成)編纂時の後付け説もあり、厳格に適用されていた訳ではなく、その後も横穴墓と並行して古墳も造られている。

 

 同じ埼玉県の山王塚古墳(川越市の上円下方墳、下方部の一辺約69m)や、穴八幡古墳(小川町の方墳、周溝外縁の一辺61.4m)は、7世紀後半の古墳と見られる。

 

 中央では、41代・持統天皇(703年崩御)が火葬され、夫の天武天皇陵に合葬された。42代・文武天皇(707年崩御)は火葬され、八角墳(中尾山古墳か)に葬られた。

 

 43代・元明天皇(721年崩御)は、遺詔として葬送の簡素化を命じ、喪儀を行わず、火葬した場所をそのまま墓所とし、墳丘を盛らず山陵に葬ったとされる。

 

 東国でも地方支配の進展や仏教の普及とともに古墳、そして横穴墓も8世紀半ば以降はほとんど造られなくなり、しばらく追葬は続いたが、やがてそれも途絶えたようだ。

 

 中世に鎌倉を中心とする東国で、「やぐら」と呼ばれる横穴式の納骨窟が使用されたが、古代の横穴墓との繋がりはないとされる。ただし、奈良時代の横穴墓を利用した例はある。

 

 

以下、現地案内板より

 

吉見百穴

 

 「百穴」の名が文献にみられるのは今から約200年前からで、江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ、不思議な穴として興味をもたれていたと思われる。吉見百穴が科学的に検討されだしたのは明治になってからで、内外の著名な考古学者によって調査が行われ、横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表された。

 明治20年、坪井正五郎氏(当時東京大学院生)によって大発掘が行われ、人骨、玉類、金属器、土器類が出土した。坪井氏はこの横穴を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居として作られたもので、のちに墓穴として利用されたものであると発表した。しかし、大正時代になると、考古学の発達によって、各地で横穴の発見、発掘がなされ、出土品や横穴の構造から、この横穴は、古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として作られたものであることが明らかにされ、「住居説」は、くつがえされることとなった。そして、大正12年には、「吉見百穴」は我が国の代表的な横穴群として、国の史跡に指定された。

 戦時中、横穴群のある岩山に地下工場の建設が行われ数十基の横穴がこわされたが、戦後、吉見百穴保存会が結成されて、積極的な保存管理が行われ、昭和36年には、吉見村が管理者となって引続き管理がおこなわれ今では「吉見百穴」は多くの人々に愛され親しまれる史跡となっている。

 また、最低部の二つの横穴に、底や壁からかすかな緑色の光りを発しているヒカリゴケがある。このコケは、山地に多く、平野にあるのは、植物分布上、きわめて貴重とされ国指定天然記念物となっている。

 

平成10年3月 吉見町・埼玉県

 

 

横穴の構造

 

横穴は玄室・羨道・前庭の三つの部分からなっています。

玄室は死者を埋葬した所で、ここは普通遺体を安置した棺座がつくられています。

羨道は前庭から玄室に通ずる通路であり、前庭は羨道の外につくられた広場ですが、ここではおそらく死者を葬る祭が行われたのでしょう。

遺体を玄室内に安置した後、横穴は羨道の外側に封鎖石(扉石)を立てかけて閉塞しました。

封鎖石には多くは緑泥片岩の一枚岩を使っていますがまれに凝灰岩の切石を積みかさねた例もあり一定していません。

封鎖石は粘土を用いて密封され開けることは出来なかったが、追葬の際は粘土を除いて取りはすされた、

①8000系8911

 

撮影日:2014年8月

撮影地:北鉄金沢駅

 

 北陸鉄道浅野川線は、大正14年(1925)七ツ屋ー新須崎(廃止)間5.3kmで開業した浅野川電気鉄道を起源とする。戦時統合で北陸鉄道との合併が決まったが、当時の社長が条件を不服として拒否するも、後に逮捕され、敗戦直後の昭和20年(1945)10月に北鉄に合併された。

 

 北陸鉄道8000系電車は、平成8年(1996)と平成10年(1998)の二度にわたり、京王電鉄3000系を譲り受け、改造を受け5編成10両が浅野川線(北鉄金沢ー内灘)で令和7年(2025)まで運用されていた。

 

 京王3000系は車体幅2700mmの第1・第2編成と、2800mmの第3〜第29編成があり、北鉄では前者の8800番台と後者の8900番台に区分された。8901+8911編成は、京王のクハ3753とクハ3703を種車とする。

 

 5両編成だった種車には運転台はあるがモーターがない(クハ)であることから、3000系の中間電動車のものを利用して電動化し、パンタグラフは8901の冷房装置を1基撤去して新設するなどの改造が施された。

 

 8901+8911編成が令和3年(2021)運用終了となり、残りの4編成も令和7年(2025)までに運用終了となり、現在は全て03系5両(元・東京メトロ03系)に入れ替わっており、8000系は姿を消した。

 

 なお、同じく京王3000系を譲り受けた石川線(野町ー鶴来)向けの7700系(架線電圧が600Vのため電装品のほとんどが換装されている)は現在も現役で活躍しているようだが、2027年度より新型車両の導入予定があるらしい。

①い1号

明治25年(1892)北海道炭礦鉄道手宮工場で製造された貴賓客用客車。ただし台車部分は米国製。昭和3年(1928)定山渓鉄道に譲渡され、昭和37年(1962)引退、翌年に国鉄苗穂工場で往時の姿に復元された。

②い1号車内

米国流の開放されたデッキから車内に入る。座席は3ブロックに分かれ、カギ型に配置されている。左にストーブが見える。平成22年(2010)鉄道記念物に指定された。

③オハ36 125

昭和23年(1948)から昭和25年(1950)にかけて製造されたスハ42形(37.5t〜42.5t未満・三等車)が近代化工事による軽量化によりオハ36形(32.5t〜37.5t未満・三等車)に形式変更された。

④スユニ50 501

昭和53年(1978)から昭和58年(1983)にかけてスハ43形などの台車等を流用して製造されたスユニ50形(37.5t〜42.5t未満・郵便荷物合造車)である。機関車に牽引される客車は重量記号(ボギー車のみ)が含まれる。

⑤スエ78 5・オエ61 309

スは37.5t〜42.5t未満で換算両数4.0。オは32.5t〜37.5t未満で換算両数3.5。エは救援車を意味する。60系客車は昭和24年(1949)から木造客車を改造して鋼製客車とした形式群、70系客車は空襲により被災した客車・電車を戦後復旧した客車群。

⑥スエ78 5内部

救援車は、災害や鉄道事故、除雪現場などに出動し、応急復旧資材や工作機械の保管・運搬、また作業員の休憩所として使用される。⑦ヨ7904・ソ34・チキ6141

ヨ6000形は昭和37年(1962)から昭和44年(1969)にかけて905両製造された車掌車。ソ30形は昭和11年(1936)から昭和22年(1947)にかけて製造された事故救援用操重車。チキ6000形は昭和52年(1977)から昭和56年(1981)にかけて製造された長物車。

⑧キ601

キ300・キ301は大正12年(1923)米国で製造されたロータリー式除雪車を輸入し、昭和3年(1928)鷹取工場で組み立てられ、昭和16年(1941)の形式名変更で、キ600・キ601と改名された。

⑨キ800

キ800形は昭和3年(1928)札幌鉄道局工作課長・羽島金三郎の考案により苗穂工場で1両製作されたマックレー式除雪車。

⑩キ718

キ700形は大正15年(1926)に米国から2両輸入し、昭和2年(1927)から国産化され24両が製造された広幅雪かき車である。

⑪キ270・キ1567

キ270は単線用木製ラッセル車キ400形18両が昭和28年(1953)鋼製化改造され、元々鋼製ラッセル車として製造されたキ100形に編入された18両のうちの一つ。キ1567は昭和36年(1961)から昭和43年(1968)にかけキ100形を複線用ラッセル車に改造しキ550形に編入された21両のうちの一つ。

⑫遠望

 

小樽市総合博物館本館は、昭和60年(1985)廃止となった旧手宮線手宮駅構内を利用した施設で、主に北海道で活躍した鉄道車両などを展示している。小樽観光の中心地からは少し離れているが、鉄道好きには見逃せない場所である。屋外に静態保存された車両の塗装状態は良いとは言えないが、予算をやり繰りして展示を続けてもらいたい。

 

訪問日:2026年8月

所在地:北海道小樽市