ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

8/12 日本城郭検定2級合格しました!
8/10 北海道の旅から帰りました

①増毛港遠望

宿のご主人らの見送りを受け、増毛を後にして日本海オロロンラインをさらに北上して留萌へ向かう。3日目も天気は良さそうだ。

②留萌海上保安部ちとせ

巡視船「ちとせ」(PM59)は、1983年から2022年までの約40年間活躍した2代目の跡を受けて就役した。全長72m、幅10m、総トン数650t、速力25ノット以上(1ノット=1海里(1.852km)/h)。

③日和山と烽火台跡

留萌の黄金岬を見下ろす高台にあり気象を観測した日和山であるとともに北蝦夷地(樺太)、奥蝦夷地に異変があった場合の連絡用の烽火台があった。

④神居古潭駅

留萌からは内陸へ向かい、音江環状列石を経て神居古潭へ。神居古潭にも環状列石があるが、夏はキツそうだし🐻も怖いので見送った。チャシを伴う竪穴住居群は誰もいなかったが個人的にはよかった。

⑤ジンギスカン鍋

昼食に旭川ラーメンをいただき、上川神社、義経台(誰も気にしない)を見てチェックイン。ホテル提携のお店でひとりジンギスカンとじゃがバターを1割引で堪能する。夜の店も良さそうだが疲れたので帰る。朝食は宿所でイクラとり放題など北海道の名物を取り揃えたビュッフェ。

⑥クリスマスツリーの木

4日目の朝は富良野の佳景をと思っていたが、想定外の雨模様。季節的にも良くなかったのか、なかなかこれといった景色には出会えず。

⑦深山峠

天気が良ければ一面のキカラシの向こうに十勝岳連峰が見えたはずなのだが何も見えず。ただモンシロチョウたちだけが楽しそうに舞っていたのが印象的。

⑧富田ファーム

さすが富田ファームではラベンダー以外は見事に咲き誇っていた。天気のいいラベンダーの見頃(7月)は写真館で見ることができたが、やはりこの目で見たいものだ。家族への土産を少しばかり購入。

⑨空知大滝

何となく立ち寄ったが、車で巣を傷つけたかハチ(大きくはない)の逆鱗に触れ、執拗な攻撃を受けたため降車できず窓越しの撮影。こんなことなら歌志内線の廃線跡に行けばよかった。⑩炭鉱遺産ガイダンス施設

ここでは10:00と13:30に炭鉱遺産内部を見ることができるガイド付き見学(所要時間1.5時間)ができるのだが、時間が合わず断念する。やや天気が持ち直したのでズリ山登頂を果たす。

⑪浦臼神社

春は境内一面にカタクリやエゾエンゴサクが絨毯のように咲くらしい。気づかなかったがかつては境内を札沼線の列車が横切っていた(2020年部分廃止)。また浦臼町が坂本龍馬の甥・坂本直寛(自由民権運動家・キリスト教牧師)が入植した地であることも後で知った。

⑫とまこまい港まつり

札幌に戻ってレンタカーを返し、特急北斗でちょうど祭りの最中の苫小牧へ。8年前に行った店でお寿司を堪能したが、八戸行きフェリーの時間(23:59)にはまだまだ時間があったので夜のお店へ。

 

訪問日:2026年8月  

撮影地:増毛町~留萌市~深川市~旭川市~美瑛町~上富良野町~中富良野町~赤平市~浦臼町~苫小牧市

①拝殿②境内③石段④鳥居⑤鶴沼新四国八十八ヶ所⑥鶴沼

 

訪問日:2026年8月

所在地:北海道樺戸郡浦臼町

 

 探検家・松浦武四郎の安政4年(1857)の記録には、下カハタのウラシナイ(現・樺戸郡浦臼町)の人別帳(住民台帳)に、マタヱチ(16歳)の名が見える。

 

 当時の蝦夷地は第二次幕府直轄時代で、人別帳の注記によると、マタヱチは石狩詰の箱館奉行支配調役・水野一郎右衛門のもとに「めしたき」として奉公に出ていた。

 

 維新を経た明治3年(1870)の役人の記録にも「又市」がかつて石狩役所調役・荒井金助に仕えており、言葉などは和人と変わらないと記され、同一人物と考えられている。

 

 この頃、マタヱチは札幌に出ていたようで、開拓判官・島義勇と接点があった。島は東京に戻った同年4月に「又一」らに土産を渡してほしいとの書簡を送っている。

 

 明治4年(1871)マタヱチは「琴似乙名」に任命された。琴似は今の札幌市の琴似川一帯の村名で、乙名はアイヌのコタン(村落)の代表者である(以下、呼称を琴似又市とする)。

 

 又市は、明治5年(1872)から7年(1874)にかけ、同化教育を目的とした東京の「開拓使仮学校附属北海道土人教育所」に留学し、「留学土人取締」を務めた。

 

 北海道に戻ると、石狩川沿いの花畔(石狩市)でのサケ・マス漁などを経て、明治15年(1882)頃には篠路村茨戸(札幌市北区)に移り、アイヌを雇って木材加工業に参入した。

 

 しかし、茨戸の土地が実業家の堀基(旧薩摩藩士)に払い下げられて農業用地となり、明治23年(1890)頃、当別(現・石狩郡当別町)への移転を強いられ、当地で没した。

 

 その後、北海道庁長官・岩村通俊による点在するコタンをまとめるという政策により、明治30年(1897)頃、又市の遺族らも近文コタン(旭川市)に移住した。

 

 又市の故郷・浦臼では、明治20年(1887)から和人による開拓が始まり、明治31年(1898)に鶴沼八幡神社が建立され、明治32年(1899)浦臼村の成立を経て、明治43年(1910)浦臼神社と改められた。

①全景②空堀と土塁③空堀と土橋④内部から⑤空堀⑥蕎麦畑越しの眺望

 

訪問日:2026年8月

所在地:北海道樺戸郡浦臼町

 

 鶴沼チャシは、道内でも最大級のチャシで、オタルナイ(小樽)からマシケ(増毛)まで勢力を拡げた石狩アイヌ(イシカルンクル)の首長・ハウカセによって築かれたと推定されている。

 

 石狩アイヌの勢力は、シャクシャインのメナシクル(道東一帯)や、オニビシのシュムクル(日高北部〜胆振東部一帯)などと並ぶ一大勢力であった。

 

 メナシクルとシュムクルの対立や、これに続く寛文9年(1669)松前藩とのシャクシャインの戦いにおいてもハウカセは武装中立を貫いていた。

 

 シャクシャインを謀殺した松前藩は、石狩アイヌや余市アイヌ(樺太アイヌの一派か)に交易を途絶すると脅し、屈服を求めたが、ハウカセは容易に屈しなかった。

 

 ハウカセは、松前藩以外との和人とも交易ルートを持ち、娘婿とされる近江出身(商人か?)から武術を学び、50挺の鉄砲を所持していたといわれている。

 

 しかし、交易途絶を回避したい余市アイヌなどの他のアイヌ集団が松前藩との和睦に応じ、ハウカセも最終的には和睦に応じざるを得なくなった。ハウカセの生没年は不詳。

 

 その後、松前藩による場所請負制が蝦夷地全域に広まり、石狩川流域でも13ヶ所の和人の漁場(石狩十三場所)が設置され、アイヌの伝統的生活の継続は難しくなった。

 

 享保8年(1723)秋鮭の不漁により石狩アイヌは200名余りが餓死、また安永9年(1780)には和人がもたらした天然痘の大流行により647人が亡くなった

 

 文政元年から翌年にかけても伝染病の流行により833人が命を落としたといい、石狩場所の人口は文化6年(1809)の3,069人から、安政2年(1855)の670人へ激減した。

①住友赤平炭砿立坑櫓②住友赤平炭砿立坑櫓③ロードヘッダー④赤間炭鉱とズリ山⑤ズリ山階段⑥住友赤平炭砿を望む

 

訪問日:2026年8月

所在地:北海道赤平市

 

 大正11年(1922)歌志内村から赤平村が分立する。昭和18年(1943)には町制施行、次いで昭和29年(1954)市制を施行し赤平市となって現在に至る。

 

 赤平には豊富な石炭資源があることが知られており、大正7年(1918)茂尻炭礦が開坑し、同年には根室本線・上赤平駅(現・赤平駅)ー平岸駅間に茂尻駅が設置された。

 

 昭和12年(1937)赤平駅の西側に昭和電工豊里炭砿が、昭和13年(1938)には中央に北海道炭礦汽船赤間炭鉱、東側に住友石炭鉱業赤平炭砿が相次いで開坑する。

 

 昭和35年(1960)度には、赤平駅の貨物発送量が梅田駅(大阪市)を抜き日本一となった。1日あたり200両近い石炭車が、積込専用線から港のある小樽や室蘭へ運び出された。

 

 しかし昭和40年代になると、採掘条件の悪い坑内掘り炭鉱は廃れ、石油の導入が進んだ。2度の石油危機においても安価な海外炭の輸入で代替され、衰退は止まらなかった。

 

 昭和42年(1967)昭和電工豊里炭鉱が閉山、昭和44年(1969)には茂尻炭鉱が大規模な爆発事故を起こしたことを契機に閉山となった。

 

 昭和48年(1973)赤間炭鉱が閉山、最後に残った住友赤平炭鉱も平成元年(1989)赤平駅の専用線が廃止されトラック輸送となり、平成6年(1994)ついに閉山した。

 

 赤平市の人口は、昭和35年(1960)ピークの54,635人から、令和元年(2019)に1万人を割り、令和7年(2025)には8,268人(速報値)となった。

 

 なお、原子力で知られる茨城県東海村の人口は、昭和35年の11,556人に対し、令和7年の人口は、37,645人(速報値)で、赤平市とは対照的である。

 

 

以下、現地案内板より

 

日本遺産 

旧 住友石炭赤平炭砿立坑櫓

■櫓の高さ 43.8 m

■立坑構造 深さ650m、内径6.6m

■年間揚炭能力 140万トン

■工事期間 1959(昭和34)年9月~1963(昭和38)年2月

 米国人地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンは、1872(明治5)年から3年間にわたって北海道の地質調査にあたったが、同行した助手の一人である坂(ばん)市太郎は、1886(明治19)年から翌年にかけて空知炭田を調査した。この調査により、上赤平・上歌志内地区の優良な炭層を知り、1898(明治31)年に試掘鉱区を取得、後に坂上赤平炭礦を経営し炭鉱開発をすすめた。しかし、志半ばの1920(大正9)年に病没。やがて、この優良鉱区は1924(大正13)年に坂炭礦と住友合資会社との共同経営を経て、住友坂炭鉱(株)の主要な鉱区となった。

 さらに、1938(昭和13)年8月には住友鉱業(株)赤平礦業所が設置され、大規模な石炭採掘を開始し、戦時下の重要物資、戦後は日本経済復興の原動力として、石炭は大増産され、赤平ーの大型炭鉱へと成長した。住友石炭赤平炭砿の成長とともに、赤平村は農村地域から炭鉱都市へと変貌していった。

 昭和30年代に入り、マイナス(地下)350メートルより上の炭量は20年間の稼行で枯渇し、さらに深部の開発が必要になった。

 深部開発によって生産規模の拡大をはかるため、出炭と従業員の搬送のスピード化が望まれ、住友石炭赤平炭砿はビルド鉱として立坑建設の大規模投資に踏みきった。立抗は、完成以降1994(平成6)年2月閉山までの31年間、炭鉱都市赤平のシンポルとして稼働した。

 本立坑櫓は、日本遺産「本邦国策を北海道に観よ!~北の産業革命「炭鉄港」~」の構成文化財です。(令和元年5月20日認定)

 

 

日本遺產

ロードヘッダー MRH-S50-13型

沿層掘進を行う掘削機械。ビットを取り付けた円錐台形のドラム切削部を回転させて坑道内の炭壁を切り崩す。昭和50年代後半以降、ロードヘッダー採掘とシャトルカーによる運搬を組み合わせた機械化掘進が採用され、1日あたり10メートル以上掘り進めることが可能になった。

【三井三池製作所製】

全長 11.1m 全高 1.8m 全幅 2.8m

自重 17 t 走行速度 7.6m/分 積込能力 1.4㎡/分

 

 

北炭赤間炭鉱選炭工場

 赤平市美園町1丁目付近

北炭赤間炭鉱は、1938年(昭和13年)に開鉱しました。1965年(昭和40年)に北炭子会社の空知炭砿(歌志内)と合併し、最盛期の1970年(昭和45年)には、約53万トンを出炭。1973年(昭和48年)に閉山しました。

復元した選炭工場は、戦後の赤平、芦別などの選炭機と積込機を一体化していた近代化鉱と異なり、選炭工場と積込機を分けてつくり、ベルコン斜路で結合していたのが特色でした。

 

 

日本遺産

旧 北炭赤間炭鉱ズリ山階段

 坑内からの石炭採掘時に出る不要な岩石や選炭時に出る廃石を、北海道では「ズリ」(硑)、九州では「ぼた」と呼び、炭鉱まち特有の俗称として使われてきた。このズリを選炭場の近くに長年堆積した結果、炭鉱都市を象徴するズリ山ができあがった。

 各炭鉱では、このズリの一部を石炭採掘跡に充填して、鉱害防止や上部の抗道を保持するために使用した。

 坑内や選炭機から排出されたズリはスキップ(トロッコ)に満載され、ズリ山の頂上にある100~150馬力の巻上機のドラムでワイヤーを巻き上げられて頂上まで引き上げられ、ズリを堆積した。

 北炭赤間炭鉱は1938(昭和13)年に開坑し、1973(昭和48)年に閉山した市内でも大手の炭鉱であった。赤平駅裏という地の利を活かし、1990 (平成2)年に火文字と階段を設置して、眼下の赤平市街や遠く芦別、十勝岳などを望むことができるズリ山展望広場を整備した。

 777段の階段の手すりの柱には、1991(平成3)年にネームプレートの名付け親を募集したところ、全国から希望者が殺到した。

 本ズリ山は、日本遺産「本邦国策を北海道に観よ!~北の産業革命「炭鉄港」~」の構成文化財です。(令和元年5月20日認定)