ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①霊山城跡②国司館跡③礎石群か④国司池⑤東物見岩⑥案内板復元図

 

訪問日:2026年3月

所在地:福島県伊達市

 

 義良親王は、嘉暦3年(1328)後醍醐天皇の第7皇子として生まれた。母は阿野廉子(新待賢門院)。同母兄に恒良親王(1325-?)・成良親王(1326-44?)がいる。

 

 元弘3年(正慶2・1333)父帝が建武の新政を開始すると、北畠親房・顕家父子に奉じられ、陸奥国府・多賀城へ向かい、建武元年(1334)奥羽将軍府を設置した。

 

 建武2年(1335)北条時行による中先代の乱の混乱の中で、幽閉されていた異母兄・護良親王が殺害され、足利尊氏・直義兄弟が建武の新政から離反する。

 

 親王は、北畠父子や伊達行朝ら奥羽将軍府の武将らとともに多賀城を進発。延元元年(建武3・1336)入洛した尊氏は京都を占領し、父帝は比叡山に逃れる。

 

 同年、奥羽将軍府軍は足利勢を破り九州へ敗走させるも、足利勢は同年中に湊川の戦いで楠木正成らを破り京都に入って光明天皇を擁立(北朝)し、父帝は吉野へ逃れる(南朝)。

 

 延元2年(建武4・1337)北朝の攻勢により多賀城が危うくなり、奥羽将軍府を行朝の所領の霊山に移す。同年、顕家らとともに霊山城を進発し、鎌倉を奪還する。

 

 さらに西上して延元3年(暦応元・1338)正月、美濃青野原で足利勢を破るも5月、和泉石津で顕家が討死する。8月、尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられる。

 

 義良親王は、顕家の弟・北畠顕信に奉じられ、異母兄・宗良親王とともに、伊勢から船で多賀城を目指すが、暴風雨により義良親王の船は押し戻され伊勢に漂着する。

 

 延元4年(暦応2・1339)義良親王は吉野に入って皇太子となり、同年、父帝の譲位を受け即位した(後村上天皇)。一方、顕信は再び陸奥に向かって多賀城を攻める。

 

 しかし、一時的な占拠に終わり、その後は霊山城を拠点に活動するが、正平2年(貞和3・1347)霊山城は落城し、顕信は出羽へ逃れた。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡及び名勝霊山

 昭和9年5月1日指定

 

 霊山は貞観元年(859)、 比叡山延暦寺の座主円仁(慈覚大師)によって開山されたといわれ、釈迦が修行したというインドの霊鷲山に因み霊山と命名され、山号を南岳山山王院霊山寺と称した。往時は伊達・宇多・刈田を寺領とし、南奥における宗教・文化の中心地として栄えた。

 下って延元2年(1337)正月、陸奥守北畠顕家は後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて霊山に拠り、南朝再興を策してここに国府を開いたが、貞和3年(1347)北朝方の勢力に抗しきれずついに落城し、山中の堂宇はことごとく焼失した。今霊山山中には数多くの遺跡群が埋れており、往時の栄華を今に伝えている。

 このような悠久の歴史を秘め、四季折々に山容を変える霊山は、玄武岩質の火山角岩によって構成されており、長い年月にわたる風化浸食作用によって出来た奇岩怪石と、岩間に映える新緑、紅葉はすばらしく天下の景勝地として広く知られているところである。

 

昭和60年12月  文化庁 霊山町教育委員会

 

 

この絵は、中世(南北朝期)、霊山の山上に多数の寺院・城郭が建っていた頃の想像図です。霊山は古来“二ツ岩”に代表される自然を崇拝する山岳信仰の山でしたが、貞観元年(859)、天台宗の開祖最澄の弟子である慈覚大師円仁によりここ霊山山中に“霊山寺”が開基されました。全盛期は120を超える堂塔伽藍が山上に存在し、“北の比叡山”として南東北仏教の一大拠点として栄華を誇りました。

 現在地の広場は、かつて霊山寺の中心である根本中堂があったところで、南北朝の建武4年(1337)、北畠顕家により陸奥国府を多賀城から霊山に遷した時、この根本中堂を改築することで霊山城を短期で建設する事ができたと考えられています。

 これらの建物が山上に建設できたのも、霊山の以下の自然要因があったからです

  ①山頂付近の尾根部の地形が比較的平坦であり多くの伽藍建立に適していた

  ②硬質な地盤のおかげで、山上での生活にかかせない湧き水が存在した

 残念ながら、南北朝期北朝軍の攻撃により山上の堂塔伽藍は全て焼かれてしまい、現在は山中の多数の平場や礎石の跡に往時の面影を見ることができます。

①登山口より

霊山は、福島県伊達市と相馬市の境界に聳える標高825mの山で、日本百景(1927)に選定されている。登山口近くの入浴施設を兼ねたレストランで昼食を済ませて山に入る。

②宝寿台より

貞観元年(859)慈覚大師円仁により開山され、釈迦が修行した霊鷲山に因んで霊山と名付けられたと伝わる東北山岳仏教の聖地だ。

③見下し岩より

南北朝時代には、南朝の義良親王(後村上天皇)を奉じた北畠顕家が拠点とした城跡遺構としても国の史跡の指定を受けている。

④甲岩より

玄武岩の溶岩台地で、天狗の相撲場・親不知子不知・蟻の戸渡り・弘法の突貫岩・猿跳岩・弁天岩などと名付けられた奇岩が連なる。

⑤護摩壇

登山道はよく整備されており、歩きやすいところがほとんどだが、所々鎖場もあり、特に岩の上は風が吹くと危険だが、この日は穏やかだった。

⑥護摩壇より

護摩とはバラモン教のホーマの音訳で、密教の修法。真言宗・天台宗・チベット仏教などの宗派で行われる。今はそれよりもこの絶景である。

⑦東物見岩より

山頂はここになる。両市の境界である尾根上の道は裏道なのか人1人出会わなかった。若干の不安とともに歩を進める。

⑧望洋台より

名前からして海が見えることもあるのだろうが、確認できなかった。ここからは尾根を外れて下りに入る。

⑨大山祗神社

山を司る大山祇神(おおやまづみ・三島神)は武神としても著名で、武家からの崇敬を受けた。勧請の経緯などは不明。

⑩日暮し岩より

ここまで下れば間もなく登りの道と合流する。駐車場に戻ってみると、もう車はほとんどなかった。

 

訪問日:2026年3月

所在地:福島県伊達市・相馬市

①主郭②二郭石碑③二郭土橋④東郭へ⑤南西尾根堀切⑥北西郭へ

 

訪問日:2026年3月

所在地:福島県伊達郡川俣町

 

 桜田氏は越後城氏の裔と伝わり、伊達氏11代・持宗の代から伊達氏に仕え伊達郡川俣を領したという。桜田元親は、16代・伊達輝宗に仕える桜田資親の子として生まれた。

 

 河股城は、天正12年(1584)頃に資親により築かれたともされるが、発掘調査などの結果から、桜田氏の築城・居城は疑問視されているとのことである。

 

 17代・伊達政宗の天正17年(1589)駒ヶ嶺城(福島県新地町)の戦いにて初陣を果たす。天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達郡は蒲生氏の所領となった。

 

 慶長3年(1598)蒲生騒動により伊達郡は上杉景勝の所領となる。慶長5年(1600)会津征伐となり、政宗は駒ヶ嶺城主となっていた元親に河股城攻めを命じる。

 

 元親は河股城を攻略したが、上杉領内に孤立する恐れがあったため、城を焼き払って駒ヶ嶺城に引き揚げた。慶長7年(1602)には仙台城築城中の暴動を茂庭綱元とともに鎮圧した。

 

 元和元年(1615)政宗の庶長子・秀宗が伊予宇和島藩主となると、政宗の命により、元親は侍大将(1900石)として惣奉行・山家公頼(1000石)らとともに秀宗に従った。

 

 元和6年(1620)宇和島藩が命じられた大坂城普請工事における対立から、山家一族は桜田一族により殺害される。これは秀宗の命による粛正であった可能性がある。

 

 秀宗がこれを幕府や政宗にも報告しなかったことから政宗は激怒、翌年には宇和島藩の改易を願い出るほどであったが、後に和解し、元親にも特に処分は下らなかった(和霊騒動)。

 

 寛永9年(1632)元親は秀宗正室・桂林院殿の三回忌の際に大風で落ちた本堂の梁の下敷となり圧死したという。人々はこれを山家の祟りと噂した。

 

 

以下、現地案内板より

 

河股城跡

 

 川俣は、伊達郡の東南端に位置し、相馬と安達の郡境に接しています。戦国時代には国境にあたり、道路の集中する川俣は軍事上きわめて重要な地域でした。

 河股城跡は、本郭(本丸)と二郭(二ノ丸)の内城部と、三郭(三ノ丸)や南・北・西方外縁の外城部で三重に守りを固める構造の、広大で堅固な山城です。

 城跡の一部が発掘調査され、防施設や城内屋敷、朝鮮李朝の茶道具や漆器などが大量に見つかりました。城内には武士のほか漆芸や細工職人の住んでいた様子が明らかにされ、戦国時代の城を知るうえで基準となる城跡です。また、河股城跡は、1500年頃にはすでに築城され、元和元年(1615)の一国一城令まで使用された城跡であることがわかりました。

 天正年間(1573〜91)に、伊達氏の家臣桜田右兵衛が在城して国境警備にあたり、同13年(1585)聞8月には、伊達政宗が小手森城(二本松市)を攻めるとき、本城に本陣を置きました。その後、上杉氏領時代の慶長5年(1600)には、桜田蓄頭が本城を攻略しています。

 城内には、桝形虎口や空堀、土塁など戦国時代の姿が良く保存されています。

 「河股城」の城名は桜田家文書による。

 

川俣町教育委員会

 

 

河股城跡

 (所在地川俣町字舘ノ腰ほか)

 

 戦国時代の川俣は、伊達氏領の南東端に位置し、南は石橋氏(のち大内氏)領、東は相馬氏領に接する国境にあった。さらに川俣盆地は東西・南北からの主要街道が交錯する交通の要衝にあたり、軍事上もきわめて重要な位置にあった。

 「河股城」は、本ノ丸(本郭)・二ノ丸(二郭)・三ノ丸(三郭)の地名が

残り、主郭の外縁を二郭、三郭および外郭で重層的に防備する構えであった。城下町は、梁川から三春街道沿いに形成されていた。

 伊達政宗は、大内定綱の小手森城(二本松市針道)を攻撃するため、天正13年(1585)8月17日、「河股城」に本陣を置いた。

政宗の南奥州制覇への道は、本城から歩み始めたのである。

 慶長5年(1600)7月、伊達政宗の武将で駒ヶ演城主桜田玄蕃頭元親は、上杉景勝領の河股の城を攻め落として大館(福島市立子山)に陣を張り、河股の城に引き籠って誘き出した上杉軍と戦った。この合戦は、政宗の自石城攻略を成功させた陽動作戦であった。

 城の名は、『桜田文書』によれば、川俣町飯坂の「城の倉城」を「川俣の城」とし、舘の山の「河股の城」は、「元親が在城を任された城」と書き上げているので、桜田元親の旧居城の舘の山を「河股城」と統一している。

 平成3~6年の発掘調査によると、「河股城」は、数度にわたる改修が認められ、三郭の北端にあたる池ノ入地内には、谷口を横堀で防御した城内に、溝で区画した屋敷が連なり、漆芸や金工などの職人も居住する戦国の城の姿が明らかになった。出土遺物から、15世紀には本城が機能していたと推察され、さらに、13~14世紀の常滑焼も大量に出土しており、南北朝時代の合戦資料にある「河俣城」も「河股城」である可能性が濃厚となっている。

(河股・河俣・川俣の呼称は当時の資料による)

 

平成23年3月  川俣町教育委員会 川俣町文化財保護審議会

①石碑②陣屋桜③陣屋跡④蔵跡⑤南を見る⑥遠望

 

訪問日:2026年3月

所在地:福島県伊達市

 

 下手渡藩は、若年寄を務めた筑後三池藩6代藩主・立花種周が文化2年(1805)失脚して強制隠居となり、跡を継いだ4男・種善が翌年に下手渡に左遷され成立した。

 

 立花種恭は、天保7年(1836)種周の5男・立花種道の長男として生まれた。実弟に上総一宮藩主・加納久宜がいる。正室は丹後田辺藩主・牧野節成の3女・辰子。

 

 嘉永2年(1849)種善の長男の2代藩主・種温が急死したため従弟の種恭が家督を継いだ。嘉永3年(1850)伊達郡内の知行地の約半分に代え旧領の三池郡内を与えられた。

 

 将軍・徳川家茂の側近となり、文久2年(1862)大番頭、文久3年(1863)若年寄となった。将軍が徳川慶喜に代わってからも引き続き若年寄に留まった。

 

 鳥羽・伏見の戦い直後の慶応3年1月(1868)老中格兼会計総裁に就任するが、在任1ヶ月足らずで辞職し、同年3月には三池の藩士の意向を受けて新政府への恭順を決意する。

 

 一方、種恭不在の下手渡では家老の屋山外記が奥羽越列藩同盟に調印していた。同年8月、種恭は新政府から奥羽鎮撫の命を受け、これが列藩同盟の知るところとなる。

 

 同月、下手渡陣屋は列藩同盟の仙台藩の攻撃を受けて焼失した。同年9月、新政府の許可を得て藩庁を三池に戻し、明治2年(1869)版籍奉還により種恭は知藩事となった。

 

 明治4年(1871)廃藩置県により退任し、明治10年(1877)私立の華族学校として開院した学習院の初代院長となる。明治17年(1884)退任し、同年子爵となる。

 

 明治23年(1890)貴族院子爵議員に選出され、明治38年(1905)70歳で死去するまで在任した。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡「下手渡藩陣屋跡」

 

 九州三池藩主立花出雲守種周侯は、幕府の若年寄の要職にあったが、文化2年(1805年)政治的に失脚しその職を解かれ、その上隠居蟄居を命ぜられ、家督を次子順之助(種善)に継がせられて、翌3年奥州下手渡へ移封を命ぜられここに陣屋を開いたものである。

 当時の領地は、下手渡、御代田、小島、小神、羽田、西飯野、石田、牛坂、飯田、山野川の10ヶ村1万石を領し(安政2年〈1855年〉には、石田、牛坂、飯田、山野川の四ヶ村を三池の旧領と換地し、九州三池と当地に5千石ずつの領地をもった。)種善、種温、種恭の三代にわたり明治元年(1868年)まで63年間続きました。小藩とはいえ名家の一つで、とくに当藩三代の種恭侯は幕末期にあたり幕府の会計奉行、後に老中格となって大政奉還の大任を果し、明治政府となってからは学習院の初代院長に就任しています。その陣屋のあった所がこの周辺であり、この懐古之碑は、明治35年に旧藩士が中心となって建立されたもので、立花家の系譜、全員玉砕の史話として有名な筑前岩屋、宝満二城の戦い(天正14年)、下手渡藩への移封、名君

とうたわれた種温と家老屋山大進による天保の飢饉対策、立花家の気風などについて記されています。

 

平成23年12月1日

平成23年度福島県地域づくり総合支援事業(サポート事業)

下手渡自治会

 

下手渡藩陣屋見取図

下手渡藩は、九州三池藩が文化3年に当下手渡村ほか9ヶ村1万石をもって移封されて陣屋を開き、以来、明治元年まで63年間続きました。その陣屋の見取図が左の図です。

 現在は、昔の面影を偲ぶ何ものもありませんが、陣屋の配置をもとに、その規模、構えを思い浮かべて下さい。

①無尽灯廟②宝華林廟③眺望④茂ヶ崎城標柱⑤参道石段⑥惣門

 

訪問日:2026年3月

所在地:仙台市太白区

 

 伊達村房は、延宝8年(1680)仙台藩2代藩主・伊達忠宗の8男で宮床邑主・伊達宗房の嫡男として生まれた。母は白石城主・片倉景長の長女・松子(貞樹院)。

 

 貞享3年(1686)父の死去により家督を継ぎ、元禄3年(1690)従兄の仙台藩主・伊達綱村から偏諱を賜って元服する。元禄8年(1695)綱村の養嗣子となる。

 

 元禄9年(1696)将軍・徳川綱吉から偏諱を賜り吉村と改名、元禄15年(1702)久我通名の娘・冬姫と結婚。元禄16年(1703)綱村の隠居により24歳で5代藩主となる。

 

 当時の仙台藩は綱村による度重なる寺社などの造営や藩札発行による物価高などで財政が逼迫していた。宝永2年(1705)藩札の発行を停止し、既存の藩札を回収したため藩の赤字は膨らんだ。

 

 享保10年(1725)には領内総検地を計画するが、地方知行制の仙台藩では家臣団の反発が強く、実施には至らなかった。また、家臣団の役職、人員の整理などを進めた。

 

 享保12年(1727)幕府から銅銭(寛永通宝)鋳造の許可を得て、領内で流通させて利益を得た。また買米仕法を強化して余剰米を強制供出させ、江戸に送って売却した。

 

 特に享保17年(1732)は、西国で享保の大飢饉が起き米価が上昇したが、奥州は豊作だったため、50万両余の利益を出し、財政が好転して一時的ながら黒字を実現した。

 

 元文元年(1736)後の養賢堂となる学問所を創立する。寛保3年(1743)4男・宗村に家督を譲るまで治世は40年に及び、仙台藩中興の英主と呼ばれた。

 

 また養父・綱村が始めた寺社などの造営も大年寺をはじめ吉村の治世下で完成したものも多い。宝暦元年12月(1752年2月)72歳で死去、大年寺無尽灯廟に葬られた。

 

 

以下、現地案内板より

 

大年寺山の歴史

大年寺山の歴史は古く、古墳時代には山裾の斜面に横穴墓(古墳)が造られていました。中世には、粟野大膳の居城と伝えられる茂ヶ崎城が築かれ、その空堀や土塁の跡が残っています。

江戸時代に入り、仙台藩四代藩主伊達綱村は隠元禅師が伝えた黄檗宗に深く帰依し、大年寺を1697年に創建し、伊達家の普提寺としました。黄檗宗「日本三叢林」の一つとも称され、この地には20余の塔頭を持ち、300人からの僧を擁す仙台藩有数の大寺院があったことが、当時の絵図からもわかります。大年寺山は北東方向に舌状に張り出した地形となっており、仙台城下町を囲むように点在する仙台七崎の中の一つ「茂ヶ崎」と呼ばれ、茂ヶ崎城や大年寺はその張り出した丘陵頂部の平坦面に立地していました。

明治時代になり、時の政府による神仏分離・廃仏毀釈運動等で衰退し伽藍のほとんどが失われ、現在は墓所と大年寺門がその姿をとどめています。

 

 

茂ヶ崎城跡

中世の城跡。城主は名取郡北方三十三郷の領主、粟野大膳といわれ、東麓の宗禅寺には粟野大膳の供養碑が建つ。藩政時代、この地には四代藩主伊達綱村により大年寺が創建されたが、明治以降、藩の保護を失い衰退した。

 

 

惣門

惣門とは総門と書くことがふさわしいのですが、大年寺ではこの惣を使います。第5代藩主伊達吉村が1720年代に建てたもので、5つの屋根を持っている高麗門という形式で、2本の本柱に切妻屋根を架け、本柱の背後に控え柱を立てて同じく切妻屋根をつけています。門には唐僧鼓山道霈(こざんどうはい)禅師の筆跡による「東桑法窟」(とうそうほうくつ)の扁額(へんがく)が懸けられています。これは日本の東の仏法の中心であるという意味です。1985年(昭和60年)仙台市の有形文化財に指定されました。