①住友赤平炭砿立坑櫓
②住友赤平炭砿立坑櫓
③ロードヘッダー
④赤間炭鉱とズリ山
⑤ズリ山階段
⑥住友赤平炭砿を望む
訪問日:2026年8月
所在地:北海道赤平市
大正11年(1922)歌志内村から赤平村が分立する。昭和18年(1943)には町制施行、次いで昭和29年(1954)市制を施行し赤平市となって現在に至る。
赤平には豊富な石炭資源があることが知られており、大正7年(1918)茂尻炭礦が開坑し、同年には根室本線・上赤平駅(現・赤平駅)ー平岸駅間に茂尻駅が設置された。
昭和12年(1937)赤平駅の西側に昭和電工豊里炭砿が、昭和13年(1938)には中央に北海道炭礦汽船赤間炭鉱、東側に住友石炭鉱業赤平炭砿が相次いで開坑する。
昭和35年(1960)度には、赤平駅の貨物発送量が梅田駅(大阪市)を抜き日本一となった。1日あたり200両近い石炭車が、積込専用線から港のある小樽や室蘭へ運び出された。
しかし昭和40年代になると、採掘条件の悪い坑内掘り炭鉱は廃れ、石油の導入が進んだ。2度の石油危機においても安価な海外炭の輸入で代替され、衰退は止まらなかった。
昭和42年(1967)昭和電工豊里炭鉱が閉山、昭和44年(1969)には茂尻炭鉱が大規模な爆発事故を起こしたことを契機に閉山となった。
昭和48年(1973)赤間炭鉱が閉山、最後に残った住友赤平炭鉱も平成元年(1989)赤平駅の専用線が廃止されトラック輸送となり、平成6年(1994)ついに閉山した。
赤平市の人口は、昭和35年(1960)ピークの54,635人から、令和元年(2019)に1万人を割り、令和7年(2025)には8,268人(速報値)となった。
なお、原子力で知られる茨城県東海村の人口は、昭和35年の11,556人に対し、令和7年の人口は、37,645人(速報値)で、赤平市とは対照的である。
以下、現地案内板より
日本遺産
旧 住友石炭赤平炭砿立坑櫓
■櫓の高さ 43.8 m
■立坑構造 深さ650m、内径6.6m
■年間揚炭能力 140万トン
■工事期間 1959(昭和34)年9月~1963(昭和38)年2月
米国人地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンは、1872(明治5)年から3年間にわたって北海道の地質調査にあたったが、同行した助手の一人である坂(ばん)市太郎は、1886(明治19)年から翌年にかけて空知炭田を調査した。この調査により、上赤平・上歌志内地区の優良な炭層を知り、1898(明治31)年に試掘鉱区を取得、後に坂上赤平炭礦を経営し炭鉱開発をすすめた。しかし、志半ばの1920(大正9)年に病没。やがて、この優良鉱区は1924(大正13)年に坂炭礦と住友合資会社との共同経営を経て、住友坂炭鉱(株)の主要な鉱区となった。
さらに、1938(昭和13)年8月には住友鉱業(株)赤平礦業所が設置され、大規模な石炭採掘を開始し、戦時下の重要物資、戦後は日本経済復興の原動力として、石炭は大増産され、赤平ーの大型炭鉱へと成長した。住友石炭赤平炭砿の成長とともに、赤平村は農村地域から炭鉱都市へと変貌していった。
昭和30年代に入り、マイナス(地下)350メートルより上の炭量は20年間の稼行で枯渇し、さらに深部の開発が必要になった。
深部開発によって生産規模の拡大をはかるため、出炭と従業員の搬送のスピード化が望まれ、住友石炭赤平炭砿はビルド鉱として立坑建設の大規模投資に踏みきった。立抗は、完成以降1994(平成6)年2月閉山までの31年間、炭鉱都市赤平のシンポルとして稼働した。
本立坑櫓は、日本遺産「本邦国策を北海道に観よ!~北の産業革命「炭鉄港」~」の構成文化財です。(令和元年5月20日認定)
日本遺產
ロードヘッダー MRH-S50-13型
沿層掘進を行う掘削機械。ビットを取り付けた円錐台形のドラム切削部を回転させて坑道内の炭壁を切り崩す。昭和50年代後半以降、ロードヘッダー採掘とシャトルカーによる運搬を組み合わせた機械化掘進が採用され、1日あたり10メートル以上掘り進めることが可能になった。
【三井三池製作所製】
全長 11.1m 全高 1.8m 全幅 2.8m
自重 17 t 走行速度 7.6m/分 積込能力 1.4㎡/分
北炭赤間炭鉱選炭工場
赤平市美園町1丁目付近
北炭赤間炭鉱は、1938年(昭和13年)に開鉱しました。1965年(昭和40年)に北炭子会社の空知炭砿(歌志内)と合併し、最盛期の1970年(昭和45年)には、約53万トンを出炭。1973年(昭和48年)に閉山しました。
復元した選炭工場は、戦後の赤平、芦別などの選炭機と積込機を一体化していた近代化鉱と異なり、選炭工場と積込機を分けてつくり、ベルコン斜路で結合していたのが特色でした。
日本遺産
旧 北炭赤間炭鉱ズリ山階段
坑内からの石炭採掘時に出る不要な岩石や選炭時に出る廃石を、北海道では「ズリ」(硑)、九州では「ぼた」と呼び、炭鉱まち特有の俗称として使われてきた。このズリを選炭場の近くに長年堆積した結果、炭鉱都市を象徴するズリ山ができあがった。
各炭鉱では、このズリの一部を石炭採掘跡に充填して、鉱害防止や上部の抗道を保持するために使用した。
坑内や選炭機から排出されたズリはスキップ(トロッコ)に満載され、ズリ山の頂上にある100~150馬力の巻上機のドラムでワイヤーを巻き上げられて頂上まで引き上げられ、ズリを堆積した。
北炭赤間炭鉱は1938(昭和13)年に開坑し、1973(昭和48)年に閉山した市内でも大手の炭鉱であった。赤平駅裏という地の利を活かし、1990 (平成2)年に火文字と階段を設置して、眼下の赤平市街や遠く芦別、十勝岳などを望むことができるズリ山展望広場を整備した。
777段の階段の手すりの柱には、1991(平成3)年にネームプレートの名付け親を募集したところ、全国から希望者が殺到した。
本ズリ山は、日本遺産「本邦国策を北海道に観よ!~北の産業革命「炭鉄港」~」の構成文化財です。(令和元年5月20日認定)