①本堂②境内③割竹形石棺蓋④宝篋印塔(七号墳)⑤徳川光友らの墓⑥安福寺横穴群
訪問日:2024年9月
所在地:大阪府柏原市
徳川光友は、寛永2年(1625)尾張藩主・徳川義直(家康の9男)の長男として名古屋で生まれた。母は側室の歓喜院(吉田甚兵衛の姉)。1歳年少の異母妹に京姫(広幡忠幸正室)がいる。
寛永7年(1630)6歳で元服し、従兄の将軍・徳川家光(1604-51)から偏諱を賜る(初名・光義)。寛永16年(1639)家光の長女・千代姫(3歳)との縁組が成立する。
義直の母・相応院(1573-1642)が強く望んだという。この時点で、家光には男子がなく(寛永18年/1641年に長男・家綱が生まれる)、光義が4代将軍候補に躍り出た。
慶安3年(1650)父の死去により家督を継ぐ。慶安4年(1651)側室・勘解由小路(公卿・樋口信孝の娘)との間に次郎太(松平義昌)が生まれる。
承応元年(1652)千代姫との間に五郎太(徳川綱誠)、明暦2年(1656)岩之丞(松平義行)が生まれる。側室の子である次郎太は3男として扱われた。
天和元年(1681)次男・松平義行が信濃に3万石を与えられ(1700年に美濃高須へ移封)、天和3年(1683)には3男・松平義昌が3万石を与えられ、陸奥梁川藩主(江戸定府)となった。
光義には、正室および10人の側室との間に、11男6女が生まれた。寛文12年(1672)光友に改名、69歳となった元禄6年(1693)綱誠に家督を譲り、大曽根御屋敷(現・徳川園)に隠居した。
元禄11年12月(1699年12月)千代姫が死去、江戸増上寺に葬られた。元禄12年6月(1999年7月)には綱誠に先立たれ、嫡孫の吉通が4代藩主となった。
光友は後西院・近衛信尋とともに三筆と称されらる能筆家であるとともに、尾張藩剣術指南・柳生連也斎厳包より新陰流六世の印加を受けた剣術の達人であった。
安福寺を再興した浄土宗の珂億上人に深く帰依して支援を惜しまなかった。元禄13年10月(1700年11月)光友76歳で死去した。自らが父のために建立した建中寺に廟と御霊屋が建立された。
また、安福寺境内の前方後円墳(玉手山7号墳)の前方部には、光友・勘解由小路・義昌(正徳3年/1713年死去)の3基の宝篋印塔が並んでいる。
以下、現地案内板より
玉手山七号墳
玉手山の丘陵には、古墳時代前期(今から1700〜1600年前)の前方後円墳が10基以上も造られており、玉手山古墳群とよばれています。その中で、もっとも大きいのがこの玉手山七号墳で、全長は150メートルくらいあります。
前の小高い丘が前方後円墳の後円部にあたり、西側の安福寺境内に低い前方部がのびています。発掘調査を行なっていないため、詳しいことはわかっていませんが、後円部に薄い板のような石を積み上げて造られた竪穴式石室があったと考えられています。
1980年には、後円部で滑石製の盒子が採集されました。盒子とは容器のことで、長さ10センチ、幅8センチの小さい楕円形をしています。これによって、玉手山七号墳は、玉手山古墳群の中で、もっとも新しい前方後円墳の一つであることがわかります。
現在は、後円部に、大坂夏の陣の戦没者に対する供養として建てられた宝篋印塔が建っています。
2000年3月 柏原市教育委員会
重要文化財 割竹形石棺蓋 安福寺
この石棺蓋は、竹を割った様な形から割竹形石棺という名で呼ばれ、古墳時代前期の玉手山3号墳から出土したものと伝えられています。同様の形態の石棺は、多くは四国の前期古墳から出土し、近畿地方では京都府八幡茶臼山古墳の舟形石棺と大阪府二本木古墳の割竹形石棺が知られています。石材は香川県の鷲ノ山産の凝灰岩を使用して製作したもので、口縁部に日本独自に発達した直線と弧線を組み合わせた幾何学模様の直弧文と呼ぶ線刻が施されています。
安福寺の石棺は、独自に創作した祭祀性の強い直弧文によって装飾し、古墳時代前期における畿内政治勢力の優位性を背景にした被葬者の性格や古墳築造の思想を知る貴重な資料です。
平成7年3月 柏原市教育委員会
府史跡 安福寺横穴群
ここ安福寺の参道両側には、35基の横穴が口を開いています。昔、火の雨が降った時に避難した穴だとか、古代人の住居の跡だとかいわれたこともありますが、実は1400年くらい前(古墳時代後期)のお墓なのです。凝灰岩の岩盤をくり抜いて造られ、中には棺を造り出した横穴もあります。また、次々と造られた横穴が、現代のマンションのように二層三層に重なって密集しているのも大きな特徴です。これらの横穴は、6世紀中ごろから初めにかけて造られたことが、出土した土器などからわかっています。その時代には石を組んで造った石室に土を盛った古墳(横穴式石室墳)が多く、横穴は大阪府では柏原市にしかみられない珍しいものです。
私たちの大切な文化遺産ですから、傷つけることのないようにして下さい。また、崩れやすくなっていますので、見学には十分注意をして下さい。
史跡指定年月日 昭和48年3月30日(史第35号) 昭和59年5月1日(追加指定)
平成8年12月 大阪府教育委員会 柏原市教育委員会
大坂夏の陣古戦場
慶長20年(1615)4月、大坂夏の陣勃発。前年10月の冬の陣の結果、大坂城の堀を埋められた豊臣方では徳川方に野戦を挑むこととし、5月6日、後藤又兵衛基次が先陣となって2800の軍勢を率い、河内方面に出撃しました。両軍は、玉手山付近で激突、要衝小松山の争奪をめぐって激しく戦いました。小松山の戦いです。
しかし、対する徳川方は、水野勝成、本多忠政、松平忠明、伊達政宗ら合計約2万もの大軍。衆寡敵せず、後藤又兵衛は重傷を負い、家臣の吉村武右衛門の介錯によって自害し、後藤隊も壊滅しました。その後、真田幸村らの奮戦があったものの、5月8日に大坂城は落城、豊臣家も滅亡して、徳川家の天下となったことは、周知のとおりです。現在、公園内には後藤又兵衛や吉村武右衛門の碑、それに両軍戦死者供養塔などが建てられています。
また、玉手山周辺には夏の陣古戦場碑や後藤又兵衛奮戦の地碑、 徳川方の武将・奥田三郎右衛門忠次の墓碑などが残されています。
なお、小松山(勝松山または勝負山ともいいます)とは現在、市立老人福祉センター「やすらぎの園」が建っている裏手(南側)にある玉手山古墳群第三号墳がその最頂部にあたります。
小林一茶句碑
小林一茶(1763〜1827)は、寛政4年(1792)の春から6年間、上方、西国方面を旅し、その途中、寛政7年(1795)4月、当時すでに景勝地として有名だった玉手山を訪れ、俳句を詠みました。
初蟬や 人松陰を したふ比(ころ)
句碑の文字は、一茶がそのときのことを著した「西国紀行」から拡大複写して刻まれています。また、同書には、「雲折りく 適(まさ)に青菜見ゆ 玉手山」の句も記載されています。ところで、一茶は、信濃の国 柏原村(現・長野県上水内郡信濃町)の出身です。こうしたところにも一茶と「柏原」との縁かあるようです。
昭和48年(1973)4月、一茶を愛する有志の方々によって建てられたのが、現在、この先にある句碑です。