忠臣蔵 の なぞとき -2ページ目

忠臣蔵 の なぞとき

忠臣蔵に特化して。

何がホントでどれがウソか徹底追及しよう。

新しい発見も!

 平成11年のNHK大河ドラマ 「元禄繚乱」 を当て込んで出版された忠臣蔵本は110冊以上もありました。


 そのほとんどは、昭和の戦後から平成にかけて出た類書を読んだ程度で書かれたものと思われます。



 忠臣蔵関係でむかし書かれたものは、他の事件に比べて桁違いに多い。


 それだけに後世の作り話のようなものが少なくないし、それらを参考に書かれたものも数多ある。


 最近出た忠臣蔵本のなかには巻末に参考資料として数多くの史料名をあげたものもありますが、そのリストを見れば何を使ったかはだいたい見当がつきます。


 いちばん多く使われているのはたぶん、赤穂市発行の 『忠臣蔵』 第三巻(昭和62年)。これは史料集で、忠臣蔵についてむかし書かれたいくつもの史料を集めて1冊にしたもの。

 これ1冊だけでも、参考資料名はいくつも書くことができます。


 どれだけ参考資料があろうと、「ウソ発見」ができなければ同じこと。


 そのほか史料集としては下記のようなものがあるけれど、こんなものまで目を通す人はまずいない。


『赤穂義人纂書』(鍋田晶山・西村越渓編・国書刊行会・明治43~44年)、『赤穂義士史料』<上・中・下>(中央義士会編・雄山閣・昭和6年)、『赤穂義士の手紙』(片山伯山編・赤穂花岳寺・昭和45年)、『近世武家思想』日本思想大系27(石井紫郎編・岩波書店・昭和45年)、『吉良上野介日記』(金沢甚衛監修・吉良公史跡保存会)。


 俗にいう 「徳川実記」。これは明治になってからの称で、それ以前は 「御実記」 といわれていたものですが、


「徳川実記は幕府の都合のいいようにあとで書いたものだから信用できない」


 という人がいます。「世に伝うる所によれば 」という書きだしのところがあったりするからでしょう。


 この史料は将軍の代ごとにまとめたもので 「将軍のまわりなどで起きた出来事」 などを書いたもの。主に 「柳営日記」 と称するものが出典です。

 幕府の各役所の公用日記から主要なものを抜き出したのが 「柳営日記」 です。

 読んだことがある方ならおわかりと思いますが、出来事の記事を並べただけのようなもので、それぞれ出典が書いてあります。出典名が 「日記」 であれば、それほどの間違いはないはずです。


『東京市史稿』 という江戸時代からのことを書いた史料集がありますが、これとても同じこと。

 出典の確認もせずに 『東京市史稿』に書いてあったことだから正しいという人もいますが、それは内容をよく見ていない証拠です。



 神戸大学教授だった野口武彦氏の 『忠臣蔵』 (ちくま新書・1994年11月) は、ほとんどが赤穂市発行の 『忠臣蔵』 第三巻 を参考にしたもの。


 野口氏は 「地図はたいそう役にたつ」 と書きながら、「切絵図にしても総絵図にしても、元禄十四、五年どんぴしゃりというのはないのである」 と断定し、事件の30年も前の江戸の地図を見て事件当夜の本所を想像で書いています。


 野口氏の手元になかったかも知れないけれど、「どんぴしゃりの地図」 はあります。現物は両国の江戸東京博物館4階の収蔵庫にあって、その復刻版を私は持っています。


 野口氏はまた、刃傷事件のときに浅野内匠頭の行動を制した梶川與惣兵衛の筆記に二系統の写本があるとして、赤穂市発行の 『忠臣蔵』 にある 「丁未雑記」 と東京大学総合図書館にある 南葵文庫 の写本の一部を引用しているのですが、野口武彦氏は 「丁未とは1727年である」 としています。

 これを見ただけで、野口氏は自分では史料となる写本を見ていないことがわかります。


 梶川與惣兵衛の筆記のうち赤穂市の 『忠臣蔵』 に収載されているのは、東京大学史料編纂所にある写本からとったもので、これは国立国会図書館にある 「丁未雑記二十三」 にあるもからの筆写です。

 国立国会図書館にあるものは、向山誠斎が筆写したしたもの。

 向山誠斎の 「丁未」 とは、弘化四(1847)年のことです。


 筆写履歴も確認しないから、こんなところで120年も違ってくる。東京大学史料編纂所で写本を見たとすれば、こんな間違いはなかったでしょう。史料編纂所から東京大学総合図書館は近いので、葵文庫の写本もじっさいには見ていない。


 野口忠臣蔵に書かれ た「丁未とは1727年である」 は、あちこちに伝染しているし、「どんぴしゃりの地図」 はないものと決めてかかってる人もいました。


 早稲田大学非常勤講師の谷口眞子氏の『赤穂浪士の実像』(吉川弘文館・2006年6月)も、赤穂市の 『忠臣蔵』 と堀部(安兵衛)武庸文書だけで書かれたようです。

 元禄十三年十二月六日(1701年1月14日)。水戸徳川家二代、光圀が亡くなりました。

 享年七十三(満71歳)。

 症状から、死因は食道がんと推定されます。


 光圀の生前の官位が参議権中納言であったことから、中納言の唐名によって「黄門」と称されていたようです。


 さて、水戸黄門が亡くなった翌年の春、三月十四日(1701年4月21日)に、江戸城内の松の廊下で殺人未遂事件がありました。


 その一年十ヶ月後に、あの集団襲撃事件があったことはよく知られています。しかし、その前に江戸時代始まって以来の大戦争が勃発しそうだったのです。


 江戸城での事件の翌月、四月から六月にかけての三カ月、麻布と小石川の離第[りだい](将軍別邸)において、幕府の軍隊を動員した銃と弓による大規模な射撃演習がくりかえし行われていたのです(合計27回)。

 これは、「常憲院殿御實記」に月日までも書かれているので、大きな図書館に行けば確認できます



忠臣蔵 の なぞとき

      小石川離第だったところ 今は小石川植物園

 この射撃演習とあわせて、参勤交代のときに必要以上の従者を江戸に連れてくるな、と大名家に対して厳重な注意がありました。

 また、射撃演習が終わるとすぐに江戸在府の大名が江戸城に集められ、武家諸法度を守るよう改めて沙汰がありました。


※常憲院殿御實記:徳川実記と総称される史料のうち、五代将軍綱吉の治世の代について書いたもので、集中的な大規模射撃演習については幕府の日記が出典



 これがあの集団襲撃事件に関係しているようですが、忠臣蔵に詳しくても先人が集めた忠臣蔵関係の史料しか見ていない人には、こんな重大なことも目に入らなかったのでしょう。


 五代将軍綱吉は、三代将軍家光の四男です。

 四代将軍は、綱吉の兄。家光の長男家綱でした。


 家綱には男子がいなかったため、将軍継承についてはいろいろ問題があったのです。

 家光の次男は子どものころに亡くなり、三男のの綱重も兄の家綱よりも早く亡くなった。

 そこで、朝廷から将軍を、という話もあったのですが、結局、三代将軍家光の四男、綱吉が五代将軍となったのでした。


 綱吉にはひとり男子がいたのですが、こどもの頃に亡くなっています。


 血統の序列からいけば、家光の三男、綱重の子、松平綱豊(のちの徳川家宣)が六代将軍にふさわしい、と思っていた人は何人もいました。


 ところが綱吉は自分の理想の世界を作ることは、綱豊ではできない。自分の意を継いでくれる者として、娘・鶴姫の夫である紀伊徳川家の綱教[つなのり]を次期将軍にしたいと考えていたのです。


 それをバックアップしたのが、吉良上野介です。

 吉良上野介の息子で上杉家を継いだ綱憲[つなのり]の正室は、紀伊徳川家から輿入れした綱教の妹・栄姫です。


 一方、綱豊派の大物は、当時の朝廷の実力者、関白の近衛基熙[このえ・もとひろ]と水戸光圀でした。


 綱豊の正室・熙子は、近衛基熙の娘。

 水戸光圀の正室・泰姫は、熙子にとって大叔母という関係です。


 こうした次期将軍をめぐる対立があったことから、裏では秘密裏に工作があったようです。京にいた近衛基熙が江戸での事件の知らせを受けたときの日記に、「秘密事」があったことを書いています。


 水戸光圀が亡くなったことで綱吉は紀伊の綱教を次期将軍に擁立する動きが顕著になりました。

 浅野内匠頭による殺人未遂事件の三日後、三月十七日に綱吉は初めて紀伊徳川家の江戸屋敷を訪問しています。

 吉良上野介は職務上、朝廷との折衝にあたることが多く、朝廷側としては「うるさいじじい」。抹殺したい存在でもありました。


 こうした裏事情から、吉良上野介がスケープゴードになったのでしょう。

松の廊下、刃傷事件 1
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11095627233.html

松の廊下、刃傷事件 2
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11096228740.html

松の廊下、刃傷事件 3
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11098599273.html



 松の廊下およびその周辺の建築構造がわかっていないと、目撃者、梶川與惣兵衛頼照[かじかわ・よそひょうえ・よりてる]の記録に書かれたことを理解することができません。


『将軍と側用人の政治』(大石慎三郎著・講談社新書・1995年6月)の69~70Pに以下のような指摘があるけれど、これが大間違い。その大間違いを丸ごと呑みこんで、井沢元彦氏が 『逆説の日本史』 に書いてるのです。


。。。。。。。。。。

「幕府の正式な見解では、事件が起きたのは白書院の廊下となっている。それが廊下の上の方、つまり大廊下に属する部分なのか、それとも医師溜くらいの下の方、つまり柳の間廊下なのか、そこからは読みとれない」

「芝居で演じられるように松の廊下で事件が起こったのでないことは、百パーセント確実である」

。。。。。。。。。。。。。。

 
 大石氏がいう「幕府の正式な見解」とは、「常憲院殿御實記」。次のように記されています。

。。。。。。。。。

留守居番の梶川與惣兵衛頼照は御台所の使いを命ぜられていたので、そのことで高家の吉良上野介義央と白木書院の廊下で立ったまま話をしていたところ、館伴の浅野内匠が義央の後から「恨みがある」といいながら切りつけた

【原文】

留守居番梶川與惣兵衛頼照は御台所御使奉はり公卿の旅館に赴くにより、白木書院の廊下にて高家吉良上野介義央と立ながら物語せしに、館伴浅野内匠頭長矩義央が後より宿意ありといひながら少さ刀もて切付たり

。。。。。。。。。


 大石氏は、この白木書院の廊下がどこだかわからない、というのです。

 目撃者、梶川與惣兵衛の日記から引用しましょう。


。。。。。。。。。。。

「それでは大廊下へ行ってみます」 と (多門傳八郎に) 言い捨てて、大広間の後通りに行ったところ、向うから坊主が2人やってきた。


  1人は、大広間の御椽頬杉戸の内へ入り、もう1人は私とすれ違って後ろの方へ歩いていった。

【原文】
然らハ大廊下へ参り見可申と申すてゝ大広間の後通を参候処、坊主両人参り候。一人は大広間の御縁頬杉戸の内へ入申候。一人は我等後の方へ参り申候。

。。。。。。。。。。。。。。。



 下の図をごらんください。


 梶川は、矢印のように歩いきました。

 「大広間の後通り」 がどこかはわかると思います。


 もしも、中庭側が柱しかなかったとしたならば、このあと梶川は「角柱」のところまで行く必要はない、ということになります。


 2人の坊主(城内雑用係)が向うから歩いてきて、1人は梶川から見て左の 「大広間に入る縁頬(廊下)」 の杉戸を開けて大広間に入っていったのです。




忠臣蔵 の なぞとき




 大廊下の中庭側の御椽の方、角柱のところから覗き見ると、大広間に近い方の御障子際に浅野内匠頭と伊達左京亮が控えている。


 御白書院の杉戸から2~3間おいた手前には高家衆が大勢いるように見えたので、坊主を呼び戻して「吉良殿を呼んでくれ」というと、坊主は行ってきて直ぐ立ち返り、「吉良殿は、ただいま御老中方との御用でがあってあの場所にはいません」と聞かされた。

【原文】

さて大廊下御縁の方、角柱の辺より見やり候へば、大広間の方御障子際に内匠左京両人被居、夫より御白書院の御杉戸の間二三間を置候て、高家衆大勢被居候体見え候間、右の坊主に「吉良殿を呼びくれ候様」申候へば、参候て即立帰り吉良殿には只今御老中方より御用の儀有之候て参られ候」由申聞候。




「それならば、内匠殿を呼んでくるように」と言ったところ、直ぐに内匠殿が来られたので、「私は今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤めるので、諸事よろしくお頼みます」と挨拶した。


 内匠殿は「心得ました」と言って元の場所に戻られた。


【原文】

左候はゞ内匠殿を呼参り候やう申遣し候処、則内匠殿被参候故、拙者儀今日伝奏衆へ御台様よりの御使を相勤候間、諸事宜しき様頼入由申候。内匠殿「心得候」とて本座へ被帰候。




 その後、御白書院の方を見ると吉良殿が御白書院の方からやって来られたので、坊主に吉良殿を呼びに遣わし、吉良殿に「その件について申す伝えるように」と言った。

 吉良殿は「承知した」とこちらにやって来た。


【原文】

其後御白書院の方を見候へば、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主呼に遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被参候間、拙者大広間の方御休息の間の障子明て有之、





 大広間に近い方の御休息之間(下部屋)の障子(襖障子)が開いていたので、私は白書院のほうから来る吉良上野介の方に歩いて行った。


 角柱より6~7間もある所で2人は出合い、互いに立ったままで、今日、御使の時間が早くなったことについて一言二言言ったところ、誰だろう。吉良殿の後ろより 「この間の遺恨覚えたるか」 と声をかけて切り付けた(その太刀音は、強く聞こえましたが後で聞くと思ったほどは切れず、浅手だったそうだ)。


【原文】

夫より大広間の方へ出候て、角柱より六七間も可有之処にて双方より出会ひ、互いに立居候て、今日御使の刻限早く相成り候儀を一言二言申候処、誰やらん吉良殿の後より「此間の遺恨覚えたるか」と声を掛け切付け申候(其太刀音は強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外、切れ不申、浅手にて有之候)。




 驚き見ると、それは御馳走人の内匠頭殿だった。上野介殿は、「これは」 と言って後の方へ振り向いたところを、また切り付けたので、上野介が私の方に向き直って逃げようとした所を、さらに二太刀ほど切られた。


【原文】

我等も驚き見候へば、御馳走人の浅野内匠殿なり。上野介殿「是れは」とて、後の方へ振り向き申され候処を又切付けられ候故、我等方へ向きて逃げんとせられし処を、又二太刀ほど切られ申候。



 上野介殿はそのままうつ向きに倒れた。そのとき私は内匠頭殿に飛びかかった(吉良殿が倒れたところとの間は、二~三足ほどだったので組み付いたように記憶している)。その時、私の片手が内匠殿の小刀の鍔にあたったので、それと共に押し付けすくめた。


【原文】
上野介其侭うつ向に倒れ申され候。其時に我等内匠殿へ飛かゝり申候(吉良殿倒れ候と大かたとたんにて、間合は二足か三足程のことにて組付候様に覚え申候)。右の節、我等片手は内匠殿小さ刀の鍔に当り候故、それともに押付けすくめ申候。


つづく



忠臣蔵 の なぞとき


 註:事件があったとき、左のように戸と障子は閉まっていた。右のように戸も障子もない開放状態ならば、梶川は角柱のところまで行かないうちに松の廊下の様子がわかったはず。


 浅野内匠頭が、吉良上野介を斬りつけた。


 学習院大学の大石慎三郎教授は、「歴史読本」臨時増刊、1992年冬号(新人物往来社)の38~45ページに、「綱吉政権下の元禄事件」という記事を寄稿しています。

 そのなかで大石氏は「松の廊下刃傷事件」について、この事件にもっとも近い時間に記されたとされる関係記録は、『易水連袂録』であるとしています。


 で、同史料に書かれたこととして次のような文を書いているのです。


。。。。。。。。。。。。。。


そろそろ勅答の儀式が始まるというので、一同が緊張のあまり何となくざわめいているところ、

浅野内匠頭(長矩)がどんな理由があるのか場所も弁えず、

高家衆がつめている柳之間で、吉良上野介(義央)殿と何か少し荒々しい言葉で言いあっていた。

やがて上野介は二十四~五間ある柳之間の廊下を小走りに逃げてゆき、

医師の間のところにある大杉戸を開けて中に入ろうとするところを、おっかけてきた内匠頭が、後から抜打ちに小さ刀で切りつけた。

上野介は当日烏帽子をつけていたので、刀は右の小鬢の後をかすった。

驚いて振り向いたところをまた切りつけたが、また烏帽子にあたり、切先がはずれて畳に切りこんでしまった。

二カ所とも軽傷だったので命に別状はなかった。(39ページ)

。。。。。。。。。。。。。。。


※大石氏の文は縦書きで改行なしに書かれているため、ネットの横書きでは読みにくい。そこで、私が改行を行いました。改行以外は、大石氏による文章のとおり。


 大石氏は、上記を根拠として次のように述べています。

「これで判るように事件があったのは松の廊下ではなくて、それよりも中庭をへだてて一つ玄関寄りにある柳之間廊下の医師溜の前あたりである」(39~40ページ)


 大石氏は『易水連袂録』に書かれたことが正しいと決めつけていますが、同書には矛盾するところがいくつもあって、しかも大石氏が現代語で書いた上記の文章は、原文とずいぶん違うのです。


 原文にそって書き直すと、


。。。。。。。。。。。。。。。。。


 三月十四日、陰天(曇り)、今日将軍が勅答を仰せになるとのことで、公家衆が登城した。

 浅野内匠頭と伊達左京も登城。吉良上野介、大友近江守いずれも柳の間に待機していた。

公家衆が白書院に伺っているときだろうか、まもなく勅答があるというので緊張しているところに、内匠頭は何を思ったのか殿中をも憚らず、柳の間にて上野介と何やら言葉荒々しげに声をあげていた。

とつぜん上野介は柳の間を立ち、二十四~五間ある廊下を小走りに逃げて送者の間に取りついたところの大杉戸を押し開いてなかに入ろうとしたところを内匠頭が追い詰め、上野介を逃がすまいと後から短刀で抜き打ちにした。

この日、上野介の装束に烏帽子をつけていたため、小髷を後に掛け切り付けただけ。上野介が振り向く所をまた一太刀切り付けたけれど、切っ先は烏帽子の端に辺り、畳に切り込んだ。二ケ所とも軽傷だったので命を落とすということはなかった。

少し離れた側にいた梶川與惣兵衛頼知という者が飛んできて、内匠頭を後より抱きすくめ、軽率なことをなされるなと……



【原文】

三月十四日、陰天。今日将軍家勅答仰出サルヽニ付テ公家衆登城アリ、浅野内匠頭、伊達左京相共ニ登城アリ、吉良上野介、大友近江守等何レモ柳ノ間ニ相詰ラル時、公家衆御白書院ニ伺候有シカ、追付勅答トテヒシメク所ニ、内匠頭イカナル意趣ノ有ケルニヤ、殿中ヲモ憚ス、彼ノ柳ノ間ニテ上野介ト何ヤラコトハアラアラシク聞エシカ、頓テ上野介柳ノ間ヲ立、同二十四五間有廊下ツヽキ小走リニ逃行、送者之間エ取付所ニ〆隔ノ大杉戸ヲ押ヒラキ、既ニ内ニ入ントセシ所ヲ、内匠頭續テ追詰、ウシロヨリ上野逃サシト短刀ヲ拔討ニウチカケシカハ、上野其日装束ニテ、烏帽子ヲ著シ申サレシ故、小髷ヲ後ロ掛切付、振向所ヲ亦一太刀切申サレシカ、烏帽子ヨリ切ナカシ、切先ハツレニ當リ、畳ニ切込、二ヶ所トモニ薄手ナリケレハ、命ノサハハナカリケル、遥力側ニ居ケル梶川輿惣兵衛頼知ト云者飛来リテ、内匠頭ヲ後ヨリ懐スクメ、卒爾ナシタマフへカラスト

。。。。。。。。。。。。。。。。


 大石氏は、側用人・柳沢吉保の『楽只堂年録』と浅野内匠頭の刃傷を制した梶川與惣兵衛の日記(丁未日記)に書いてあることについて、


「基本的には『易水連袂録』の記事と一致するとして良いであろう」


 建築構造がわかっていないから、こうなるのです。


 前にもいくつか指摘しましたが、『易水連袂録』は名前の間違いが多い。梶川の「頼知」も間違っています。名前以外にも「?」はいくつもあるし、著者もよくわからなければ刊行年も・・・。


 文字数制限のため今回はここまでとしますが、作家の井沢元彦氏は大石慎三郎氏の本を丸ごと信じて『逆説の日本史』に長々引用しています。


 つづく

 


 前回の「松の廊下」シリーズ2は、こちら。

 http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11096228740.html


 ここでは来年12月に世界一斉公開、ハリウッド版"忠臣蔵"『47 Ronin』 (http://47ronin.jp/ に焦点をあてて。


 とはいっても、

すでにクランクインしてるし脚本もできているので、映画が話題になる頃を狙って出版しようかと思っています。


 平成11年(1999)のNHK大河ドラマ「元禄繚乱」に、ボクが発表したことが一部使われましたが、

さあ、今度はどうなるか。


 オリジナル曲を入れたCD、元禄時代を再現した現場付近の地図の2つを付録につけたいけれど。 

 前回に続き、「松の廊下」です。


 前回分 http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11095627233.html


 松の廊下での殺人未遂事件。事件現場とそのまわりの構造がわかっていないため、大学で教鞭をとるような歴史の専門家のなかにもドジを踏んだ人が何人もいます。


 なぜかというと、事件前および事件があったときの状況を詳しく書いた目撃者、梶川與惣兵衛の日記にあることが理解できないからです。


 現場検証なしにむかし書かれたものの文字ばかり追いかけても、「骨折り損のくたびれ儲け」です。


 この構造がわかっていれば、『易水連袂録』や『多門傳八郎筆記』などに書いてあることに矛盾があることもわかります。



 さて、前回載せた①・③・⑤ の画像をまた並べます。




            ①


なぞとき 忠臣蔵


         この画像では、手前が南(大広間寄り)で向こうが北。




            ③


               なぞとき 忠臣蔵
               

           この画像では、手前が北で向こうが南(大広間寄り)




             ⑤


なぞとき 忠臣蔵


           この画像では、左が北で右が南(大広間寄り)





 南とか北といってもピンとこない。

 そういう方もいらっしゃると思うので、位置関係のわかる図を載せます。


 下の図⑥は、上が北で下が南です。

 クリックして拡大して見てください。


 註:説明図とするために、松の廊下(松之大廊下)は幅広く描かれています・


             ⑥



なぞとき 忠臣蔵


 大広間は寝殿造に由来した構造で、この図の右下にある出っ張ったところは寝殿造では長く続いて南の庭にある泉に通じていました。


 江戸城の大広間では南(下側)の庭には図にあるように能舞台があり、大広間から能を鑑賞するようになっています。


 夜間または豪雨のときには、雨戸を閉めます。

 能の鑑賞のときには大広間の南側は開放状態にするので、戸を収納するための大きな戸袋があります。 



             ⑦


なぞとき 忠臣蔵


 この図は大広間の建築平面図です。図⑥に黄色く書いた「戸袋」がありますね。

 「御入側」と書いた板敷きのところは広いし、その分、庇も出ているので多少雨が降っても畳敷きの広間まで濡れることはないし、すぐそばの戸袋に雨戸が収納されているので、急な天候の変化にも対応できます。


 なお、御入側の内側には、襖と障子が入っています。



 松の廊下の中庭側は、下の図のようになっていたのでした。




             ⑧


なぞとき 忠臣蔵



 柱と柱の間の敷居と鴨居には、それぞれ3本の溝があります。

 で、外・中・内の溝に、戸・戸・障子と3枚入っていたのです。


 柱と柱の間の寸法はすべて同じではなかったけれど、戸あるいは障子の2枚分です。


 この戸は舞良戸[まいらど]といい戸の表面には、舞良子という細い桟[さん]が狭い間隔で縦または横に付いてます。

 これは、書院造の建具です。


 図で 「明障子」 と書いてあるのは、現在の障子と同じ。

 江戸時代よりもっと昔は「障子」といえば、襖や屏風なども含めた総称でした。なので、江戸時代になってからの史料にも「襖障子」という表現もみられます。




 ★ 外と中の戸は、雨戸代わりにもなります。


 ★ 3枚重ねれば柱と柱の間の半分は、開放状態になります。


 ★ 戸2枚を重ねて障子を閉めれば、外気を遮断して明り取りができます。


 急な雨にも対応できますね。


 これは書院造を継承した構造で、いまでも古寺などにのこっています。愛知県西尾市吉良町にある花岳寺の本堂にも、これと同じ構造がありました。


 花岳寺本堂は、吉良上野介が寄進したものです。

 (赤穂市にある花岳寺とは別です)



 前回の画像のひとつ ④ を見てみましょう。

 このような構造には、絶対にならないことはお分かりいただけると思います。 



          ④

なぞとき 忠臣蔵




 刃傷事件前日は、大広間で能の高覧があった日ですが、朝から雨が降っていました。

 その雨は午後にはあがったものの夜になってまた降りだして、夜半過ぎにやみました。

 と、まあ、こんなぐあいです。


 能の高覧は予定どおり行われましたが、湿った冷たい風によって大広間も寒かったに違いない。


 天候のネタは、護持院の隆光大僧正の日記です。

 隆光大僧正は晴天祈祷や日蝕回避の祈祷などもやっているので、「結果よし」ならば多少の眉唾はあっても大きな間違いはないでしょう。


 隆光大僧正の日記、翌十四日の条に 「風もやんで温かくなった」 なんて書います。

 事件当日です。


 この日は大切な儀式があるので、将軍の生母・桂昌院が朝から晴天祈願依頼のために護持院に行っていました。


 朝は風も強く寒かったのに、風もおさまってきてだんだんに温かくなってきたのでしょう。


 「ほら、拙僧の祈祷はよく効くでしょ」 と、隆光は桂昌院に言ったかも。



 いずれにせよ、事件当日の朝はこんな状況だったので、松の廊下の中庭側は戸2枚重ねて障子を閉めていたはずです。



 つづく




  



 忠臣蔵のはじまりは、江戸城の「松の廊下」での殺人未遂事件。

 浅野内匠頭[あさの・たくみのかみ]が吉良上野介[きら・こうずけのすけ]を切りつけた「刃傷事件」でした。


 このページのおわりのほうに載せた①~④の画像を見て不思議に思うことはないでしょうか?


 その前に・・・。


 「松の廊下」での殺人未遂事件は、将軍と「勅使」[ちょくし]・「院使」[いんし]による大事な儀式がはじまる直前に起きました。


 勅使は天皇の名代、院使は前天皇の名代です。


 加害者の浅野内匠頭は、御馳走人[ごちそうにん]の役を拝命していました。被害者は高家肝煎[こうけきもいり]の吉良上野介[きら・こうずけのすけ]。


 御馳走人を饗応役[きょうおうやく]と書いた本が多いけれど、史料には「饗応」という言葉はあっても、「饗応役」と書いたものはありません。このあたりから、勘違いしている人が多いようです。


 「馳走」という言葉はそもそも、「走りまわる」 という意で、客人をもてなすために走り回るということから、飲食の提供以外にも使われたものです。「饗応」は、飲食を提供してもてなすというくらいの意味です。


 御馳走人の主な職務は、貴賓の宿舎における生活全般の世話で、城内や将軍家菩提寺への参詣に随伴したりもします。当然、礼儀作法や手順などは事前に身につけておかなければならない。そのために高家の指導を仰ぐのですが、儀式には出席しないどころか儀式そのものに関係することは職務の外です。


 史料によっては、御馳走人を 「館伴」[かんぱん] と書いてあるものもあります。貴賓の宿舎に併設された長屋に泊まり込んで世話をする役、という意味です。


 高家は、昔の儀式・法制・作法などの決まりや習わしなどに詳しい由緒ある家から選ばれ、朝廷との窓口となり儀式を取り仕切ったり、作法の指導をしたりするのが職務。「肝煎」はその代表で、吉良上野介はその筆頭でした。



 さて、この事件について書いたものはたくさんあるけれど、信用できる史料は浅野内匠頭の行動を制した梶川與惣兵衛[かじかわ・よそひょうえ]の日記だけです。


 忠臣蔵本の多くも、この事件の状況をよく把握せず、先人が書いたものをまねただけのものがほとんどです。


 この事件の状況を把握するためには、事件現場とそのまわりがどのような作りになっているかを理解する必要があります。


 今回は、松の廊下(史料には「松之大廊下」「大廊下」「松之御廊下」などと書かれている)がどのようなものであるかを見ていきたいと思います。


 イメージとしては次のようなものでしょう。



           ①
 

なぞとき 忠臣蔵




           ②

              なぞとき 忠臣蔵



 

                


なぞとき 忠臣蔵



           ④

なぞとき 忠臣蔵



  ①~④の画像を見て不思議に思うことはないでしょうか?


 とくに④の構造は絶対にありえないことです。


 このあたり、わかっていないと梶川與惣兵衛の日記を読んでも理解できません。


 文字ばかり追いかけても、事件の状況は見えてこないのです。





 下の図⑤は、「大棟梁甲良若狭控 万延元庚申年御普請絵図」のなかの

 「御本丸松之御廊下御三家部屋桜溜御数寄屋地絵図」です。


 万延元年(1860)なので明治になる数年前に描かれた建築平面図で、建築工事に関するトップ、甲良家の控です。


 ※東京都立中央図書館蔵



             ⑤


なぞとき 忠臣蔵



 こうしたものは、時代が変わっても基本構造は同じです。



 さあ、①~④の画像を見て不思議に思うことはないでしょうか?


 つづく





江戸での刃傷事件のあと、浅野家の領土赤穂においてさまざまなことがあった。


筆頭家老の大石内蔵助が浅野の家来全員を城内に集めて方針を議論させた。これを「大評定」と称している。

結果、一同切腹をして浅野家再興を嘆願するという方針を発表。

ここで大野九郎兵衛はじめ不忠の輩を追い出して、志の堅固な者だけを選び出す。

しかし、家来の総登城による大評定があったというのは疑わしい。


宝永元年(1704)頃成立したとされる『介石記』に、「家中士三百余人悉く城中へ呼あつめ」と、「大評定」があったように書いてある。


『介石記』に書かれた「家中士三百余人」はおそらく吉良屋敷襲撃に参加した前原伊助が書いた『赤城盟伝』あたりを参照したものだろう。しかし、300人もの人数になると、全員立ってもかなりの面積を要す。


たとえば江戸城の大広間は500畳近いが、コの字型に上段・中段・下段・二之間・三之間・四之間とあるので、全部をぶち抜きにすることはできない。

江戸在府の大名を集めたときには二之間・三之間を使っていたが、それでも300名を超えることはなかった。
 赤穂城の本丸に300人以上もの人が集まって会議できるような場所はなかった、と断言できる。


赤穂浅野家の親戚、三好浅野家の浅野綱長の伝記には、「右之所存下々曽而不申聞候」とある。下々の者まで議論に加わっていなかった、ということである


『江赤見聞記』という史料によれば、城内会議で大石内蔵助と大野九郎兵衛が対立。原惣右衛門が大野を追い出したとある。


 開城決定は重臣だけの会議で協議決定されたというのが妥当だろう。

加賀前田家の室鳩巣の著作『赤穂義人録』に、大評定があったように書いている。
さらに同じ加賀の杉本義隣の作『赤穂鍾秀記』が「大評定」説をとっている。
 杉本義隣は室鳩巣と親交があり、当時金沢にいて情報不足だった鳩巣に
『義人録』の材料の大半を提供したというくらいだから、両者同じものが
あっても不思議ではない。

『赤穂義人録』は元禄十六年(1703)の自序があるが、成立はもっと
後だ。跋によれば、元禄十六年冬に成った稿を宝永六年(1709)夏に
校訂刪補している。
 元ネタは何だろう。





宝永三年(1706)成立の『新撰大石記』では『介石記』を頻繁に引用しているし宝永八年(1711)成立とされる都乃錦の『播磨椙原』なども『介石記』を参考に書かれたところが多い。

『多門伝八郎覚書』は、『介石記』や『播磨椙原』など参考に書かれたようだ。


 初期の忠臣蔵ものには、ともかく『介石記』を参考に書いたものが多い。



 ここでいくつかの問題点をあげておこう。


 前原伊助は「吉良屋敷襲撃、仇討成功」を前提に『赤城盟伝』を書いたとしか考えられない。

 食うや食わずの浪人の身。しかも、成功するかどうかもわからないことを書いて、のちに誰かが出版したというのはあまりにも不自然だ。


『介石記』は誰の著作かも、どのように情報を仕入れたのかもよくわからないし、どのようにして広まったのかも不明。それなのに、これを参考に書いたと思われるものが多いのは何故か。


 金沢にいる室鳩巣と杉本義隣は、個人的な興味から『赤穂義人録』や『赤穂鍾秀記』を書いたのだろうか。

 杉本義隣はどのようにして情報を集めたのか。また、『赤穂義人録』は史料として有名であるが、金沢の地で書いたものがどのようにして広まったのか。


『赤穂鍾秀記』には、『仮名手本忠臣蔵』に登場する天野屋利兵衛の物語のネタが書かれているけれど、これはどこから持ってきたものか。


 

 大石内蔵助以下46名は、どのように切腹したのだろうか。



 その前に、元禄十五年十二月十五日夕刻の泉岳寺門前での様子を、堀部安兵衛の従兄、佐藤條衛門の覚書がら拾ってみたい。


 本所吉良屋敷から泉岳寺に引き揚げた一党は、このあとどうなるのか。それを確かめるため、佐藤條衛門は昼前から泉岳寺の門前に来ていた。


なぞとき 忠臣蔵-泉岳寺

泉岳寺山門


 日暮れ近く、連れてきた者に門前の様子を見に行かせたところ、走って戻ってきて、


「いま一同が門から出て皆、旗のようなものを差していました」 という。

 急いで門に近寄ってみると、先頭に太刀を横に持った安兵衛がいて、

「私を見つけて来られたのですか」 という。

「昼前よりからここに来て様子をうかがっていたのです。これからどこに行かれるのか」

 私がこう尋ねたところ、安兵衛は 「仙石伯耆守殿へのところに行きます」 という。

「それでどのなるのか」 と訊くと、


「切腹切腹」 安兵衛は、いう。安兵衛のあとには二列にならんで静かに歩いて行った。


【原文】
召連候者を暮時分門迄遺見せ候へは走帰只今何も様御門より御出被成候何と御覧旗を御差候様に見候由申候故急ぎ門へ参候へは安兵衛真先ニ立大刀横たへ出候其を見付被参候哉と申候故其申候は昼前より参候居候へ共門を不入候故無是非ひかへ居候由申候扨何方へ被参候哉と尋候へは仙石伯耆守殿へ参候と申候何事にやと申候へハ切腹切腹と申候安兵衛より跡は二列にならび静に出候



すでに切腹が決まっていた、ということだ。


 はじめの予定では、46名を預かる大名四家は泉岳寺まで人を出してそれぞれの屋敷に連れていくことになっていたのが、急に変更になって、大目付、仙石伯耆守の屋敷に行って、そこから各大名家に行くことになった。


 吉良屋敷を襲撃したことは、江戸の人々に知れていた。ここでパレードをすることで事件があったことをさらにアピールしようという御上の意向があったのだろう。


 さて、細川越中守に17名、松平壱岐守に10名、毛利甲斐守に10名、水野監物の屋敷に9名が移送された。


 二月四日。昼過ぎまでに城中で、あるいは屋敷に届けられた奉書によって、預かり人の切腹の沙汰が伝えられた。


 それぞれの家の記録によれば、切腹時刻は下記のとおり(かっこ内は貞享暦の基準時刻を24時間定時法に換算した計算値)。


 細川家、17名の切腹は、七時(16時15分)から七時半(17時22分)過まで。


 松平家、10名の切腹は、申中刻(16時59分)から。


 水野家、9名のi切腹は申中刻(16時59分)に終わる。


 毛利家、10名の切腹は七時(16時15分)すぎに終わる。


 それぞれの家で多少のズレはあるものの、午後4時過ぎから5時半過ぎまでの間には、全員切腹が終わっている。


 開始と終わりの時刻を記録している細川家では、全員で1時間半にも満たない時間で切腹を終えている。


 準備と後片付けを含めて、1人あたり5分程度だ。


 具体的には、どんな切腹だったのか。


 松平家での切腹状況記録が詳しい。


 最初は大石主税。
 三方に小脇差が出され、主税は(畳の上に敷かれた)布団の上に座り、検使に礼をした。押し肌脱いで解釈人におじぎをして小脇差を取り上げたところで首が打たれた。


 介錯人の清大夫は左の手に主税のたぶさ(髪の毛を束ねたところ)を取り上げて左足を引いて右足を躓いて検使たちにそれを見せて引き下がった。


 そのまま仲間4人が首・胴体・三方を布団に包み、別の場所に移動した。
 血が庭に見えたので桶に入れておいた砂をまいて隠した。


 畳には血がつかなかったので、そのままこれを使って蒲団だけを敷き替えた。


 3人までこのようにして、そのあとは検使の指図によって首実検は省略。




なぞとき 忠臣蔵-大石主税、堀部安兵衛ら切腹跡イタリア大使館


    大石主税・堀部安兵衛らが切腹した場所 いまはイタリア大使館


【原文】
壱番に主税罷り出て三方に小脇差之を出し居り主税布団の上に着と否、御検使方へ謹んで御礼仕り押肌ぬぎ解釈人に時宜致し小脇差取り上げ候所首を打ち、介錯人清大夫左之手にて主税のたぶさを取り上げ、左之足を敷き右を躓きて御検使衆へ実見に入れ、引き退く。その儘仲間四人出で首骸共に三方一所に布団に引包み勝手へこれを引く。但血少々庭へ見え候に付き、桶に入れ置き候砂を以って早速かくし、畳莚共血付き申さず候へば、その儘これを用い、蒲団計り敷かえる。解釈人肩衣右之方にたすき掛けに仕る。首三人右の通り実見之有り、その跡は、是にて見分明白に候得ば悉く仕形に及ばずとの由。御検使の指図に依り、其外は実見に及ばず候。



 首・死骸・三方とも蒲団につつんだまま紐で縛って駕籠に乗せ、泉岳寺まで護送した。


 「元禄十五年、本所松坂町の吉良邸で……」


と、いまでも明治以降の講談調で書いている忠臣蔵本はたくさんあります。


 おわりまで講談調ならいいのですが、史実を書いてるというから笑ってしまう。



 下に並べた図を順番に見ていくと 「本所松坂町に吉良邸はなかった」 ことがわかります。



 老中命令で2人の普請奉行が中心になり20名の専従スタッフによって作り上げた資料(御府内場末往還其外沿革図書)は、昭和43年まで非公開でした。


 


 ① 延宝年中 討入事件の30年ほど前の図です。

  (御府内場末往還其外沿革図書より)

なぞとき 忠臣蔵



 この御竹蔵は、幕府の竹材保管施設です。この跡地に、のちに討入事件現場ができるのです。


 はじめ御竹蔵の正面は西で、搬出入口のそばに道に張り出した 「小屋場」 がありました。竪川との間、竹材を陸送するための大八車を置いたところです。









 ② 元禄初年 討入事件の15年ほど前の図です。

  (御府内場末往還其外沿革図書より)
なぞとき 忠臣蔵


 御竹蔵の正面が南にかわり、小屋場はなくなりました。

 竪川までの間に新道ができました。

 新搬出入口と竪川までは近いので竹材は手に持ったまま運べるようになりました。





 ③ 元禄十一年十二月以降の図です。

 (御府内場末往還其外沿革図書より模写)

なぞとき 忠臣蔵


  御竹蔵が廃され、大火(勅額火事)に被災した武家屋敷が御竹蔵跡に移ってきました。

 写真がうまく撮れなかったので雑誌掲載のときの模写です。









④ 元禄十五年二月の改選江戸大絵図の部分拡大です。

 元禄十五年、討入の年です。

 (遠近道印作「改選江戸大江図」一分十間積、部分拡大
なぞとき 忠臣蔵


 ③の松平登之助の屋敷が 「キラ左兵」 に変わっています。元禄十四年八月十三日、松平登之助は本所を立ち退いて翌月三日に吉良上野介がその屋敷を受領しました。


 ③の「松平登之助」とこの図の「キラ左兵」の書き方が違いますね。松平登之助の屋敷だったときは、正面は南。吉良屋敷になって東に変わったのです。


 「土ヤ/チカラ」の左(西)の道に張り出しているのは小屋場のシンボルの削り忘れです。①の図にあったもの。

 土屋屋敷の正面は西だったので③のように、左を頭に「土ヤ/チカラ」と書くべき。









 ⑤ 元禄十六年十一月の大地震・大火の復興後

 (御府内場末往還其外沿革図書より)

なぞとき 忠臣蔵



  吉良屋敷跡に、御鏡師・中島伊勢と御研師・佐柄木彌太郎の拝領町屋と、地震による高波に被災した芝田町(JR田町駅芝浦側にあった)の代地ができています。

 吉良屋敷跡の六割ほどは、使用目的の定まらない 「割残地」 です。







 ⑥ 宝永二年・同四年(1705~1707年)頃

 (御府内場末往還其外沿革図書より)
なぞとき 忠臣蔵


 御鏡師・中島伊勢と御研師・佐柄木彌太郎の拝領町屋が、「本所松坂町一丁目拝領町屋」に、芝田町代地が「本所松坂町二丁目年貢町屋」になった。


 のこり六割は、「芝新堀常浚拝借地」。







⑦ 宝暦十二年(1762)年頃
 (御府内場末往還其外沿革図書より)
なぞとき 忠臣蔵

ここでやっと、吉良屋敷あとすべてが本所松坂町になった。