平成11年のNHK大河ドラマ 「元禄繚乱」 を当て込んで出版された忠臣蔵本は110冊以上もありました。
そのほとんどは、昭和の戦後から平成にかけて出た類書を読んだ程度で書かれたものと思われます。
忠臣蔵関係でむかし書かれたものは、他の事件に比べて桁違いに多い。
それだけに後世の作り話のようなものが少なくないし、それらを参考に書かれたものも数多ある。
最近出た忠臣蔵本のなかには巻末に参考資料として数多くの史料名をあげたものもありますが、そのリストを見れば何を使ったかはだいたい見当がつきます。
いちばん多く使われているのはたぶん、赤穂市発行の 『忠臣蔵』 第三巻(昭和62年)。これは史料集で、忠臣蔵についてむかし書かれたいくつもの史料を集めて1冊にしたもの。
これ1冊だけでも、参考資料名はいくつも書くことができます。
どれだけ参考資料があろうと、「ウソ発見」ができなければ同じこと。
そのほか史料集としては下記のようなものがあるけれど、こんなものまで目を通す人はまずいない。
『赤穂義人纂書』(鍋田晶山・西村越渓編・国書刊行会・明治43~44年)、『赤穂義士史料』<上・中・下>(中央義士会編・雄山閣・昭和6年)、『赤穂義士の手紙』(片山伯山編・赤穂花岳寺・昭和45年)、『近世武家思想』日本思想大系27(石井紫郎編・岩波書店・昭和45年)、『吉良上野介日記』(金沢甚衛監修・吉良公史跡保存会)。
俗にいう 「徳川実記」。これは明治になってからの称で、それ以前は 「御実記」 といわれていたものですが、
「徳川実記は幕府の都合のいいようにあとで書いたものだから信用できない」
という人がいます。「世に伝うる所によれば 」という書きだしのところがあったりするからでしょう。
この史料は将軍の代ごとにまとめたもので 「将軍のまわりなどで起きた出来事」 などを書いたもの。主に 「柳営日記」 と称するものが出典です。
幕府の各役所の公用日記から主要なものを抜き出したのが 「柳営日記」 です。
読んだことがある方ならおわかりと思いますが、出来事の記事を並べただけのようなもので、それぞれ出典が書いてあります。出典名が 「日記」 であれば、それほどの間違いはないはずです。
『東京市史稿』 という江戸時代からのことを書いた史料集がありますが、これとても同じこと。
出典の確認もせずに 『東京市史稿』に書いてあったことだから正しいという人もいますが、それは内容をよく見ていない証拠です。
神戸大学教授だった野口武彦氏の 『忠臣蔵』 (ちくま新書・1994年11月) は、ほとんどが赤穂市発行の 『忠臣蔵』 第三巻 を参考にしたもの。
野口氏は 「地図はたいそう役にたつ」 と書きながら、「切絵図にしても総絵図にしても、元禄十四、五年どんぴしゃりというのはないのである」 と断定し、事件の30年も前の江戸の地図を見て事件当夜の本所を想像で書いています。
野口氏の手元になかったかも知れないけれど、「どんぴしゃりの地図」 はあります。現物は両国の江戸東京博物館4階の収蔵庫にあって、その復刻版を私は持っています。
野口氏はまた、刃傷事件のときに浅野内匠頭の行動を制した梶川與惣兵衛の筆記に二系統の写本があるとして、赤穂市発行の 『忠臣蔵』 にある 「丁未雑記」 と東京大学総合図書館にある 南葵文庫 の写本の一部を引用しているのですが、野口武彦氏は 「丁未とは1727年である」 としています。
これを見ただけで、野口氏は自分では史料となる写本を見ていないことがわかります。
梶川與惣兵衛の筆記のうち赤穂市の 『忠臣蔵』 に収載されているのは、東京大学史料編纂所にある写本からとったもので、これは国立国会図書館にある 「丁未雑記二十三」 にあるもからの筆写です。
国立国会図書館にあるものは、向山誠斎が筆写したしたもの。
向山誠斎の 「丁未」 とは、弘化四(1847)年のことです。
筆写履歴も確認しないから、こんなところで120年も違ってくる。東京大学史料編纂所で写本を見たとすれば、こんな間違いはなかったでしょう。史料編纂所から東京大学総合図書館は近いので、葵文庫の写本もじっさいには見ていない。
野口忠臣蔵に書かれ た「丁未とは1727年である」 は、あちこちに伝染しているし、「どんぴしゃりの地図」 はないものと決めてかかってる人もいました。
早稲田大学非常勤講師の谷口眞子氏の『赤穂浪士の実像』(吉川弘文館・2006年6月)も、赤穂市の 『忠臣蔵』 と堀部(安兵衛)武庸文書だけで書かれたようです。





















