大評定はなかった | 忠臣蔵 の なぞとき

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江戸での刃傷事件のあと、浅野家の領土赤穂においてさまざまなことがあった。


筆頭家老の大石内蔵助が浅野の家来全員を城内に集めて方針を議論させた。これを「大評定」と称している。

結果、一同切腹をして浅野家再興を嘆願するという方針を発表。

ここで大野九郎兵衛はじめ不忠の輩を追い出して、志の堅固な者だけを選び出す。

しかし、家来の総登城による大評定があったというのは疑わしい。


宝永元年(1704)頃成立したとされる『介石記』に、「家中士三百余人悉く城中へ呼あつめ」と、「大評定」があったように書いてある。


『介石記』に書かれた「家中士三百余人」はおそらく吉良屋敷襲撃に参加した前原伊助が書いた『赤城盟伝』あたりを参照したものだろう。しかし、300人もの人数になると、全員立ってもかなりの面積を要す。


たとえば江戸城の大広間は500畳近いが、コの字型に上段・中段・下段・二之間・三之間・四之間とあるので、全部をぶち抜きにすることはできない。

江戸在府の大名を集めたときには二之間・三之間を使っていたが、それでも300名を超えることはなかった。
 赤穂城の本丸に300人以上もの人が集まって会議できるような場所はなかった、と断言できる。


赤穂浅野家の親戚、三好浅野家の浅野綱長の伝記には、「右之所存下々曽而不申聞候」とある。下々の者まで議論に加わっていなかった、ということである


『江赤見聞記』という史料によれば、城内会議で大石内蔵助と大野九郎兵衛が対立。原惣右衛門が大野を追い出したとある。


 開城決定は重臣だけの会議で協議決定されたというのが妥当だろう。

加賀前田家の室鳩巣の著作『赤穂義人録』に、大評定があったように書いている。
さらに同じ加賀の杉本義隣の作『赤穂鍾秀記』が「大評定」説をとっている。
 杉本義隣は室鳩巣と親交があり、当時金沢にいて情報不足だった鳩巣に
『義人録』の材料の大半を提供したというくらいだから、両者同じものが
あっても不思議ではない。

『赤穂義人録』は元禄十六年(1703)の自序があるが、成立はもっと
後だ。跋によれば、元禄十六年冬に成った稿を宝永六年(1709)夏に
校訂刪補している。
 元ネタは何だろう。





宝永三年(1706)成立の『新撰大石記』では『介石記』を頻繁に引用しているし宝永八年(1711)成立とされる都乃錦の『播磨椙原』なども『介石記』を参考に書かれたところが多い。

『多門伝八郎覚書』は、『介石記』や『播磨椙原』など参考に書かれたようだ。


 初期の忠臣蔵ものには、ともかく『介石記』を参考に書いたものが多い。



 ここでいくつかの問題点をあげておこう。


 前原伊助は「吉良屋敷襲撃、仇討成功」を前提に『赤城盟伝』を書いたとしか考えられない。

 食うや食わずの浪人の身。しかも、成功するかどうかもわからないことを書いて、のちに誰かが出版したというのはあまりにも不自然だ。


『介石記』は誰の著作かも、どのように情報を仕入れたのかもよくわからないし、どのようにして広まったのかも不明。それなのに、これを参考に書いたと思われるものが多いのは何故か。


 金沢にいる室鳩巣と杉本義隣は、個人的な興味から『赤穂義人録』や『赤穂鍾秀記』を書いたのだろうか。

 杉本義隣はどのようにして情報を集めたのか。また、『赤穂義人録』は史料として有名であるが、金沢の地で書いたものがどのようにして広まったのか。


『赤穂鍾秀記』には、『仮名手本忠臣蔵』に登場する天野屋利兵衛の物語のネタが書かれているけれど、これはどこから持ってきたものか。