忠臣蔵のはじまりは、江戸城の「松の廊下」での殺人未遂事件。
浅野内匠頭[あさの・たくみのかみ]が吉良上野介[きら・こうずけのすけ]を切りつけた「刃傷事件」でした。
このページのおわりのほうに載せた①~④の画像を見て不思議に思うことはないでしょうか?
その前に・・・。
「松の廊下」での殺人未遂事件は、将軍と「勅使」[ちょくし]・「院使」[いんし]による大事な儀式がはじまる直前に起きました。
勅使は天皇の名代、院使は前天皇の名代です。
加害者の浅野内匠頭は、御馳走人[ごちそうにん]の役を拝命していました。被害者は高家肝煎[こうけきもいり]の吉良上野介[きら・こうずけのすけ]。
御馳走人を饗応役[きょうおうやく]と書いた本が多いけれど、史料には「饗応」という言葉はあっても、「饗応役」と書いたものはありません。このあたりから、勘違いしている人が多いようです。
「馳走」という言葉はそもそも、「走りまわる」 という意で、客人をもてなすために走り回るということから、飲食の提供以外にも使われたものです。「饗応」は、飲食を提供してもてなすというくらいの意味です。
御馳走人の主な職務は、貴賓の宿舎における生活全般の世話で、城内や将軍家菩提寺への参詣に随伴したりもします。当然、礼儀作法や手順などは事前に身につけておかなければならない。そのために高家の指導を仰ぐのですが、儀式には出席しないどころか儀式そのものに関係することは職務の外です。
史料によっては、御馳走人を 「館伴」[かんぱん] と書いてあるものもあります。貴賓の宿舎に併設された長屋に泊まり込んで世話をする役、という意味です。
高家は、昔の儀式・法制・作法などの決まりや習わしなどに詳しい由緒ある家から選ばれ、朝廷との窓口となり儀式を取り仕切ったり、作法の指導をしたりするのが職務。「肝煎」はその代表で、吉良上野介はその筆頭でした。
さて、この事件について書いたものはたくさんあるけれど、信用できる史料は浅野内匠頭の行動を制した梶川與惣兵衛[かじかわ・よそひょうえ]の日記だけです。
忠臣蔵本の多くも、この事件の状況をよく把握せず、先人が書いたものをまねただけのものがほとんどです。
この事件の状況を把握するためには、事件現場とそのまわりがどのような作りになっているかを理解する必要があります。
今回は、松の廊下(史料には「松之大廊下」「大廊下」「松之御廊下」などと書かれている)がどのようなものであるかを見ていきたいと思います。
イメージとしては次のようなものでしょう。
①
②
③
④
①~④の画像を見て不思議に思うことはないでしょうか?
とくに④の構造は絶対にありえないことです。
このあたり、わかっていないと梶川與惣兵衛の日記を読んでも理解できません。
文字ばかり追いかけても、事件の状況は見えてこないのです。
下の図⑤は、「大棟梁甲良若狭控 万延元庚申年御普請絵図」のなかの
「御本丸松之御廊下御三家部屋桜溜御数寄屋地絵図」です。
万延元年(1860)なので明治になる数年前に描かれた建築平面図で、建築工事に関するトップ、甲良家の控です。
※東京都立中央図書館蔵
⑤
こうしたものは、時代が変わっても基本構造は同じです。
さあ、①~④の画像を見て不思議に思うことはないでしょうか?
つづく




