松の廊下、刃傷事件 雨だ! | 忠臣蔵 の なぞとき

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新しい発見も!

 前回に続き、「松の廊下」です。


 前回分 http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11095627233.html


 松の廊下での殺人未遂事件。事件現場とそのまわりの構造がわかっていないため、大学で教鞭をとるような歴史の専門家のなかにもドジを踏んだ人が何人もいます。


 なぜかというと、事件前および事件があったときの状況を詳しく書いた目撃者、梶川與惣兵衛の日記にあることが理解できないからです。


 現場検証なしにむかし書かれたものの文字ばかり追いかけても、「骨折り損のくたびれ儲け」です。


 この構造がわかっていれば、『易水連袂録』や『多門傳八郎筆記』などに書いてあることに矛盾があることもわかります。



 さて、前回載せた①・③・⑤ の画像をまた並べます。




            ①


なぞとき 忠臣蔵


         この画像では、手前が南(大広間寄り)で向こうが北。




            ③


               なぞとき 忠臣蔵
               

           この画像では、手前が北で向こうが南(大広間寄り)




             ⑤


なぞとき 忠臣蔵


           この画像では、左が北で右が南(大広間寄り)





 南とか北といってもピンとこない。

 そういう方もいらっしゃると思うので、位置関係のわかる図を載せます。


 下の図⑥は、上が北で下が南です。

 クリックして拡大して見てください。


 註:説明図とするために、松の廊下(松之大廊下)は幅広く描かれています・


             ⑥



なぞとき 忠臣蔵


 大広間は寝殿造に由来した構造で、この図の右下にある出っ張ったところは寝殿造では長く続いて南の庭にある泉に通じていました。


 江戸城の大広間では南(下側)の庭には図にあるように能舞台があり、大広間から能を鑑賞するようになっています。


 夜間または豪雨のときには、雨戸を閉めます。

 能の鑑賞のときには大広間の南側は開放状態にするので、戸を収納するための大きな戸袋があります。 



             ⑦


なぞとき 忠臣蔵


 この図は大広間の建築平面図です。図⑥に黄色く書いた「戸袋」がありますね。

 「御入側」と書いた板敷きのところは広いし、その分、庇も出ているので多少雨が降っても畳敷きの広間まで濡れることはないし、すぐそばの戸袋に雨戸が収納されているので、急な天候の変化にも対応できます。


 なお、御入側の内側には、襖と障子が入っています。



 松の廊下の中庭側は、下の図のようになっていたのでした。




             ⑧


なぞとき 忠臣蔵



 柱と柱の間の敷居と鴨居には、それぞれ3本の溝があります。

 で、外・中・内の溝に、戸・戸・障子と3枚入っていたのです。


 柱と柱の間の寸法はすべて同じではなかったけれど、戸あるいは障子の2枚分です。


 この戸は舞良戸[まいらど]といい戸の表面には、舞良子という細い桟[さん]が狭い間隔で縦または横に付いてます。

 これは、書院造の建具です。


 図で 「明障子」 と書いてあるのは、現在の障子と同じ。

 江戸時代よりもっと昔は「障子」といえば、襖や屏風なども含めた総称でした。なので、江戸時代になってからの史料にも「襖障子」という表現もみられます。




 ★ 外と中の戸は、雨戸代わりにもなります。


 ★ 3枚重ねれば柱と柱の間の半分は、開放状態になります。


 ★ 戸2枚を重ねて障子を閉めれば、外気を遮断して明り取りができます。


 急な雨にも対応できますね。


 これは書院造を継承した構造で、いまでも古寺などにのこっています。愛知県西尾市吉良町にある花岳寺の本堂にも、これと同じ構造がありました。


 花岳寺本堂は、吉良上野介が寄進したものです。

 (赤穂市にある花岳寺とは別です)



 前回の画像のひとつ ④ を見てみましょう。

 このような構造には、絶対にならないことはお分かりいただけると思います。 



          ④

なぞとき 忠臣蔵




 刃傷事件前日は、大広間で能の高覧があった日ですが、朝から雨が降っていました。

 その雨は午後にはあがったものの夜になってまた降りだして、夜半過ぎにやみました。

 と、まあ、こんなぐあいです。


 能の高覧は予定どおり行われましたが、湿った冷たい風によって大広間も寒かったに違いない。


 天候のネタは、護持院の隆光大僧正の日記です。

 隆光大僧正は晴天祈祷や日蝕回避の祈祷などもやっているので、「結果よし」ならば多少の眉唾はあっても大きな間違いはないでしょう。


 隆光大僧正の日記、翌十四日の条に 「風もやんで温かくなった」 なんて書います。

 事件当日です。


 この日は大切な儀式があるので、将軍の生母・桂昌院が朝から晴天祈願依頼のために護持院に行っていました。


 朝は風も強く寒かったのに、風もおさまってきてだんだんに温かくなってきたのでしょう。


 「ほら、拙僧の祈祷はよく効くでしょ」 と、隆光は桂昌院に言ったかも。



 いずれにせよ、事件当日の朝はこんな状況だったので、松の廊下の中庭側は戸2枚重ねて障子を閉めていたはずです。



 つづく