大石内蔵助以下46名は、どのように切腹したのだろうか。
その前に、元禄十五年十二月十五日夕刻の泉岳寺門前での様子を、堀部安兵衛の従兄、佐藤條衛門の覚書がら拾ってみたい。
本所吉良屋敷から泉岳寺に引き揚げた一党は、このあとどうなるのか。それを確かめるため、佐藤條衛門は昼前から泉岳寺の門前に来ていた。
日暮れ近く、連れてきた者に門前の様子を見に行かせたところ、走って戻ってきて、
「いま一同が門から出て皆、旗のようなものを差していました」 という。
急いで門に近寄ってみると、先頭に太刀を横に持った安兵衛がいて、
「私を見つけて来られたのですか」 という。
「昼前よりからここに来て様子をうかがっていたのです。これからどこに行かれるのか」
私がこう尋ねたところ、安兵衛は 「仙石伯耆守殿へのところに行きます」 という。
「それでどのなるのか」 と訊くと、
「切腹切腹」 安兵衛は、いう。安兵衛のあとには二列にならんで静かに歩いて行った。
【原文】
召連候者を暮時分門迄遺見せ候へは走帰只今何も様御門より御出被成候何と御覧旗を御差候様に見候由申候故急ぎ門へ参候へは安兵衛真先ニ立大刀横たへ出候其を見付被参候哉と申候故其申候は昼前より参候居候へ共門を不入候故無是非ひかへ居候由申候扨何方へ被参候哉と尋候へは仙石伯耆守殿へ参候と申候何事にやと申候へハ切腹切腹と申候安兵衛より跡は二列にならび静に出候
すでに切腹が決まっていた、ということだ。
はじめの予定では、46名を預かる大名四家は泉岳寺まで人を出してそれぞれの屋敷に連れていくことになっていたのが、急に変更になって、大目付、仙石伯耆守の屋敷に行って、そこから各大名家に行くことになった。
吉良屋敷を襲撃したことは、江戸の人々に知れていた。ここでパレードをすることで事件があったことをさらにアピールしようという御上の意向があったのだろう。
さて、細川越中守に17名、松平壱岐守に10名、毛利甲斐守に10名、水野監物の屋敷に9名が移送された。
二月四日。昼過ぎまでに城中で、あるいは屋敷に届けられた奉書によって、預かり人の切腹の沙汰が伝えられた。
それぞれの家の記録によれば、切腹時刻は下記のとおり(かっこ内は貞享暦の基準時刻を24時間定時法に換算した計算値)。
細川家、17名の切腹は、七時(16時15分)から七時半(17時22分)過まで。
松平家、10名の切腹は、申中刻(16時59分)から。
水野家、9名のi切腹は申中刻(16時59分)に終わる。
毛利家、10名の切腹は七時(16時15分)すぎに終わる。
それぞれの家で多少のズレはあるものの、午後4時過ぎから5時半過ぎまでの間には、全員切腹が終わっている。
開始と終わりの時刻を記録している細川家では、全員で1時間半にも満たない時間で切腹を終えている。
準備と後片付けを含めて、1人あたり5分程度だ。
具体的には、どんな切腹だったのか。
松平家での切腹状況記録が詳しい。
最初は大石主税。
三方に小脇差が出され、主税は(畳の上に敷かれた)布団の上に座り、検使に礼をした。押し肌脱いで解釈人におじぎをして小脇差を取り上げたところで首が打たれた。
介錯人の清大夫は左の手に主税のたぶさ(髪の毛を束ねたところ)を取り上げて左足を引いて右足を躓いて検使たちにそれを見せて引き下がった。
そのまま仲間4人が首・胴体・三方を布団に包み、別の場所に移動した。
血が庭に見えたので桶に入れておいた砂をまいて隠した。
畳には血がつかなかったので、そのままこれを使って蒲団だけを敷き替えた。
3人までこのようにして、そのあとは検使の指図によって首実検は省略。
大石主税・堀部安兵衛らが切腹した場所 いまはイタリア大使館
【原文】
壱番に主税罷り出て三方に小脇差之を出し居り主税布団の上に着と否、御検使方へ謹んで御礼仕り押肌ぬぎ解釈人に時宜致し小脇差取り上げ候所首を打ち、介錯人清大夫左之手にて主税のたぶさを取り上げ、左之足を敷き右を躓きて御検使衆へ実見に入れ、引き退く。その儘仲間四人出で首骸共に三方一所に布団に引包み勝手へこれを引く。但血少々庭へ見え候に付き、桶に入れ置き候砂を以って早速かくし、畳莚共血付き申さず候へば、その儘これを用い、蒲団計り敷かえる。解釈人肩衣右之方にたすき掛けに仕る。首三人右の通り実見之有り、その跡は、是にて見分明白に候得ば悉く仕形に及ばずとの由。御検使の指図に依り、其外は実見に及ばず候。
首・死骸・三方とも蒲団につつんだまま紐で縛って駕籠に乗せ、泉岳寺まで護送した。

