「元禄十五年、本所松坂町の吉良邸で……」
と、いまでも明治以降の講談調で書いている忠臣蔵本はたくさんあります。
おわりまで講談調ならいいのですが、史実を書いてるというから笑ってしまう。
下に並べた図を順番に見ていくと 「本所松坂町に吉良邸はなかった」 ことがわかります。
老中命令で2人の普請奉行が中心になり20名の専従スタッフによって作り上げた資料(御府内場末往還其外沿革図書)は、昭和43年まで非公開でした。
① 延宝年中 討入事件の30年ほど前の図です。
(御府内場末往還其外沿革図書より)
この御竹蔵は、幕府の竹材保管施設です。この跡地に、のちに討入事件現場ができるのです。
はじめ御竹蔵の正面は西で、搬出入口のそばに道に張り出した 「小屋場」 がありました。竪川との間、竹材を陸送するための大八車を置いたところです。
② 元禄初年 討入事件の15年ほど前の図です。
御竹蔵の正面が南にかわり、小屋場はなくなりました。
竪川までの間に新道ができました。
新搬出入口と竪川までは近いので竹材は手に持ったまま運べるようになりました。
③ 元禄十一年十二月以降の図です。
(御府内場末往還其外沿革図書より模写)御竹蔵が廃され、大火(勅額火事)に被災した武家屋敷が御竹蔵跡に移ってきました。
写真がうまく撮れなかったので雑誌掲載のときの模写です。
④ 元禄十五年二月の改選江戸大絵図の部分拡大です。
元禄十五年、討入の年です。
③の松平登之助の屋敷が 「キラ左兵」 に変わっています。元禄十四年八月十三日、松平登之助は本所を立ち退いて翌月三日に吉良上野介がその屋敷を受領しました。
③の「松平登之助」とこの図の「キラ左兵」の書き方が違いますね。松平登之助の屋敷だったときは、正面は南。吉良屋敷になって東に変わったのです。
「土ヤ/チカラ」の左(西)の道に張り出しているのは小屋場のシンボルの削り忘れです。①の図にあったもの。
土屋屋敷の正面は西だったので③のように、左を頭に「土ヤ/チカラ」と書くべき。
⑤ 元禄十六年十一月の大地震・大火の復興後
(御府内場末往還其外沿革図書より)吉良屋敷跡に、御鏡師・中島伊勢と御研師・佐柄木彌太郎の拝領町屋と、地震による高波に被災した芝田町(JR田町駅芝浦側にあった)の代地ができています。
吉良屋敷跡の六割ほどは、使用目的の定まらない 「割残地」 です。
⑥ 宝永二年・同四年(1705~1707年)頃
御鏡師・中島伊勢と御研師・佐柄木彌太郎の拝領町屋が、「本所松坂町一丁目拝領町屋」に、芝田町代地が「本所松坂町二丁目年貢町屋」になった。
のこり六割は、「芝新堀常浚拝借地」。
⑦ 宝暦十二年(1762)年頃
(御府内場末往還其外沿革図書より)
ここでやっと、吉良屋敷あとすべてが本所松坂町になった。





