辻番、フリーパス | 忠臣蔵 の なぞとき

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何がホントでどれがウソか徹底追及しよう。

新しい発見も!


 こんなのがあるんです。


 吉良屋敷襲撃前に、大石内蔵助が書いた手紙。

 書いてある内容を知って、げげげ。ビックリした忠臣蔵ファンもいたようです。

なぞとき 忠臣蔵


 最後に書かれた宛名は、恵光様・良雪様・神護寺様 となっています。

 恵光は花岳寺、良雪は正福寺という寺の住職。この二名は個人的にも親しかったのでしょう。


 花岳寺(赤穂市加里屋)、正福寺(赤穂市御崎)、神護寺(赤穂市高雄)とも現存する仏寺で、この手紙の現物は正福寺にあります。


 道中は滞りなく、心配することもなく無事に江戸の着きました。

 同志も追々に江戸に入ります。江戸では噂も色々あるようです。

 若老中もご存じのようですが、何のおかまいもありません。

 吉良屋敷を打ち破ることは格別で、その通りにさせておこうとしているようです。

 私たちが亡君のための忠義の死と感じたのでしょうか、何の障害もなく、安堵しています……


  追伸
 この手紙は家来に持って行かせようと思いましたが、若し道中で障害にあってはと思い、私の死後大津よりそちらへ届けるよう頼んでおきました



【原文】

道中御関所無滞少も心懸り之義無之下着仕候・・浪人共追々下着、拙者も罷下り候さた色々在之、若老中ニも御存知之旨ニ候得共何之御いろいも無之うち破り候上は各別其通ニ被成置候事と被察候、亡君之ため忠死ヲ感し道理か何之滞少も無之、致案堵罷有候……

十二月十三日        大石内蔵助{花押}
     恵光様
     良雪様
     神護寺様
           参
尚々此書状家来ニ可進と存候得共若道中滞候てハ如何と存さしひかへ死後大津より其元へ相達し候様ニ頼置申候


 武士が他国へ旅するときの関所の通行手形は主家が発行することになっていますが、浅野の家が潰れてしまって浪人の身。手形は寺で発行してもらったのです。


 寺のほうでも江戸への下向の目的を聞いていたので、「大丈夫か」 と思っていたのでしょう。下手をすれば、自分たちにも後難があるかもしれない、と。



 さて、文中に書かれた 「若老中」 ですが 「若年寄」 と同じです。


 某忠臣蔵ホームページでこの手紙を紹介したとき 「若老中」 と書いてあったのを見て、「若老中はミスだから若年寄に訂正したほうがいい」 と忠告した人がいるようです。


「大石は幕府のことなんて知らない田舎者だから若老中と書いてる」 と言ってた人もいるらしいけど。


 この時代は職名を明記したものがなく、若老中とも呼ばれていたのです。

 殿中席でも、「若老中」と書いたものがあります。




 注目しておきたいのは同志を 「浪人」 と書いてあることです。赤穂の浪人の身だから、疑われずに関所をうまく通過できるか。これが心配だったのですねえ。


「浪士」 なんて言葉は、この時代は使ってなかったのです。この話はいずれまた。



 文面をちゃんと読めばわかると思うのですが、大石内蔵助は、無事に関所を通過できるだろうか、心配だったようです。


 前にも江戸へは行っているけど、今回ばかりは違う。続いて同志もやってくる。大丈夫だろうか。


 で、江戸に着いてみたら、「若老中もご存じのようだった」。


 これ以上つっこんで検証したものは、前回書いた「TOWN-NET」誌連載のみ。


 若年寄(若老中)の職務はいろいろあるけれど、公儀としての辻番管理もそのひとつ。


 辻番は、武家地に設置された交番のようなもので、大名屋敷には必ずあったし、万石以下の家では組合を作って共同で辻番を設置し、管理・運営することになっていました。


 番人は、それぞれの家から下級武士などをつけていました。


 時代が下ると辻番を町人に請け負わせるところが出てきて、年齢制限(二十~六十歳)も守らなければ、番小屋で食べ物を売る者もいたり。ダラけてきます。


 こういったことを書いた本を読んで辻番を甘くみてる人もいますが、元禄の頃の辻番は違う。冬でも戸・障子を閉めては、いけない。仕事の内容を紙に書いて壁に貼っておけ。一時(とき)に一度は周囲をパトロールする、という義務もあったのです。


 武家地の辻番のほか、町屋には、自身番がありました。


 3分も歩けば次の辻番、というくらい。交番だらけです。


 辻番はそれぞれの家で管理するとはいえ、御上もまた管理していたのです。

 若年寄配下の目付の下に御徒目付というのがいて、御徒目付が辻番を巡回して職務をチェックしていた。辻番の職務怠慢があれば、家における管理・運営の責任者が注意される。

 その注意を無視したら、あとがこわい。


 本所吉良屋敷の南隣、相生町二丁目に、大石内蔵助の同士、前原伊助の店がありました。

 前原の店は、吉良屋敷南西角にあった辻番のすぐそばです。


 ここにはよく同士がきていた。浪人風情がちょいちょい来れば、目につくはず。

 それなのに、辻番は知らんぷり。


 そんなことから、大石内蔵助も、「なにかあるな」 と気づいたのでしょう。


 内蔵助は、今回江戸に出てくるまで知らなかった。


 すべてお膳立てが整っていたのでした。


 辻番の前をフリーパスできたのも、「だから」です・