有名人効果による賽銭増収計画 | 忠臣蔵 の なぞとき

忠臣蔵 の なぞとき

忠臣蔵に特化して。

何がホントでどれがウソか徹底追及しよう。

新しい発見も!

 歴史の専門家は古文書の文字ばかり追いかけてるから、大間違いするという見本をココで披露しましょう。


 東京都墨田区の両国に、吉良邸史跡 「本所松坂町公園」 という小さな公園があります。


 昭和9年に、むかし吉良屋敷があった場所の片隅に地元住民が土地を購入し、史跡公園を造って当時の東京市に寄付したものです。


 この史跡公園のなかに、松坂町稲荷大明神という稲荷祠があります。


なぞとき 忠臣蔵



 このお稲荷さん。もともとは江戸時代初期につくられた幕府の御竹蔵(竹材保管施設)の水門近くにあったそうで、当時は御竹蔵稲荷といっていたとか。いつの時代か、兼春稲荷になったそうで。


 本所松坂町公園ができたときに近くにあった稲荷と合祀して松坂町稲荷となりました。


 明暦三年(1657)に、江戸中を焼きつくすほどの大火(振袖火事)がありました。

 これによって御竹蔵が廃され、武家屋敷ができた。そのうちのひとつが近藤登之助の屋敷で。


 御竹蔵にあった稲荷は近藤登之助の屋敷の鎮守となり、のにちにこの屋敷は吉良上野介のものとなって吉良屋敷でも大切にしていた。


 吉良屋敷がなくなったあとは本所松坂町および隣の本所相生町の鎮守になったそうで。


 これ、伝説にすぎなかったのですが、平成になっても歴史の専門家まで史実と信じていました。


 近藤登之助は、明暦の大火のときに避難誘導で功績をあげた 「鉄砲百人組」 の頭で、名を貞用(さだもち)といいます。


 明治に作られた 「極付幡髄長兵衛」 という歌舞伎のなかにも近藤登之助がでてきます。明暦の時代に、町奴の親分、幡随院長兵衛と旗本奴の水野十郎左衛門の争いにまつわる話です。


 吉良屋敷の討入事件から100年以上もたった文政十一年(1827)ころ、町方から資料提出させて各地の歴史を集大成しようという事業がありました。そのときにできた 「文政町方書上」 と いう史料に、兼春稲荷の由緒が載ってるし、吉良屋敷の前住人が近藤登之助だったとも書いてあり、これをもとにして作られた「御府内備考」 も載っています。


 時代が下って、昭和になってから東京市が作った資料にも近藤登之助説が載っているし、平成3年に発行された 「墨田区古文書集成」 にも、疑うことなく近藤登之助説が載っているんですね。




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 この話は、むかし本所松坂町があったところの周辺だけで信じられていたようですが、昭和2年に兼春稲荷に伝わった古文書の所有者がこれの解読清書を専門家に依頼したことで、兼春稲荷の由緒がなお真実味をもって語られるようになったのです。


 明治生まれで「江戸学の祖」といわれる三田村鳶魚という人が昭和5年に出した『横から見た赤穂義士』という本のなかには、本所吉良屋敷の前住人を近藤登之助と書いてあった。これで、近藤登之助説は全国的に広まりました。





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 三田村鳶魚も書いていましたが、吉良上野介が引っ越してきた時点で古びたボロ屋敷だった。そんなふうに書いた忠臣蔵本がたくさんでました。


 ところが、大田南畝(おおた なんぽ)という人が書いた随筆集「一話一言」のなかでは、吉良屋敷の前住人は松平登之助となっていたのです。大田南畝は、「文政町方書上」が作られる前に亡くなっています。


 ホントは、大田南畝が書いたように、吉良屋敷の前住人は松平登之助なんです。


 三田村鳶魚は大田南畝の「一話一言」に吉良屋敷の前住人は松平登之助と書いてあることを知ってたし、大正時代には新聞や本でも紹介していたのです。

 それでも松平登之助説を捨てて近藤登之助説に替えたのは 「再発見された古文書」 によるものでしょう。

 
 近藤登之助は、明治に創られたものとはいえ時代設定を明暦にした芝居のなかに登場するくらいなので、長い間有名人でした。


 一方、吉良上野介は「仮名手本忠臣蔵」が大ヒットロングランになったことから、悪役・高師直のモデルとなったということで有名人でした。


 そんなころから出た間違いですが、言いだしっぺは円蔵院という山伏あがり。

 この人、文政十年に本所松坂町からの依頼で兼春稲荷の社守になったのですが、翌年に町奉行に提出したインチキの兼春稲荷由緒書を書いた人です。ご丁寧にも、享保十八年(1733)に作られたという由緒書まで偽造していたんです。


 有名人の名を使った賽銭増収計画ですな。




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 上記は、平成平成11年6月刊行の月刊 「TOWNNET」誌 連載 『忠臣蔵で江戸を探る脳を探る』(其十八・百楽天著) で詳細にわたって検証され、『新・忠臣蔵』(舟橋聖一著)を原作としたNHK大河ドラマ 『元禄繚乱』(平成11年) では、松平登之助信望に訂正されました。


 吉良屋敷はボロだったという説もボツ。吉良上野介が引っ越してきた時点で築2年ほど。新築に近いものでした。

 松平登之助という人は、将軍綱吉の御小姓でした。さらに、彼のバックには柳沢吉保とコンビで政(まつりごと)を動かしていた大物がいました。

 詳しくは、またの機会に。