元禄十五年十二月五日付(1703年1月21日)茅野和助の書状に、 「明六日朝やしきへ切り込み申す筈に御座候」 とあったとして、「五日の夜に討ち入り予定だったが」 と書いてある忠臣蔵本があるんですね。「五日夜=六日暁」 です。
で、
「将軍徳川綱吉が側用人・柳沢美濃守吉保邸へ御成りのため、当日の吉良邸の茶会が延期される。さらに市中は警戒態勢だったこともあり、六日早朝の討入りも延期される」
となったというのですが……
であれば、十二月二日の「深川会議」のことについて書いたなかに、「十二月六日暁に襲撃予定」ということがあってよさそうなものなのに。
古文書を持ってきて「ココに書いてある」「手紙に書いてあった」 というだけではねえ。
そんなものは、あとにどうにでもなる。
忠臣蔵関係の史料は他の事件とは比べものにならないくらい多いけれど、ガセネタも多い。
十二月六日では、本番の十二月十五日(1703年1月31日)未明のような討入はできません。
どうしてかというと、月明かりがまったく期待できないからです。
表門のわきに梯子をかけ、それを上って屋根の上に立ち、邸内に飛び降りたというんでしょ。
十二月五日は月齢 3.6。月没時刻は 20:55。
十二月六日未明に襲撃といっても、幼い月だし、日がかわる前にしずんでしまいます。
六日の未明といったら、星空でもまわりは真っ暗闇です。
武器を持ち、松明も持って梯子を上がる。屋根の上から松明で照らしたって下は闇です。そんななかに飛び降りるんですか?
十二月十五日は月齢 13.6。月没時刻は 5:17 です。
月没から夜明けまで約50分ほどあるけれど、この間はみな手に灯りを持っていた、と書いた史料もある。こういうのは信用できます。
十二月十五日未明であれば、空が晴れていれば松明がなくても梯子は上がれるし(今より空気が澄んでいるから月も明るい)、若者なら屋根から邸内に飛び降りることもできるでしょう。
さて、十二月十五日未明決行は、「十四日に茶会があるから吉良上野介は在宅のはず」 ということから決まったようです。
で、その情報源は、茶匠の山田宗偏に弟子入りした大高源五(おおたか・げんご)と、吉良家に出入りしている羽倉斎(はぐら・いつき)からの2ルートから得たということになってるけど。
いくつかの忠臣蔵本によれば、大石内蔵助と羽倉斎は昔から知ったなかで、内蔵助の依頼で大石無人の次男、大石三平(おおいし・みつひら)が羽倉斎からの情報を探っていたのだとか。
いや、違う。羽倉斎ルートは堀部彌兵衛(ほりべ・やひょうえ)が見つけた。そう書いてあったものもあった。
でもねえ。大石内蔵助は羽倉斎のことは、ぜんぜん知らなかったのです。
十二月十四日に大石三平と兄の郷右衛門が父の無人と相談して堀部彌兵衛宅を訪問し、そこで 羽倉斎のことを内蔵助に話したのです。
内蔵助は、「え、その人、誰?」 です。
「江赤見聞記」 という史料集のなかに収載された堀部彌兵衛の文書のなかに、「大石氏」 と羽倉斎が親しいと書いてあった。その 「大石氏」 は三平のことだったのに、大石内蔵助と羽倉斎が親しかったと思いこんでしまった人がいたのですね。
しかも、 十二月十四日に大石三平と兄の郷右衛門の兄弟は、羽倉斎から聞いたとして 「泊まり客がいるらしい」 という情報を持ってきたのです。
だから、客まで殺傷するようなことがあってままずい、と進言しにきたのです。
ま、それでも討入は決行しました。
これは、堀部彌兵衛がいなかったらどうなったことか。
堀部安兵衛が遺した文書(とくに大石内蔵助との往復書簡)を分析すれば、堀部一家がどのような立場でいたかわかりそうなものなのに。

