松の廊下、刃傷事件4 目撃者の記録 | 忠臣蔵 の なぞとき

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松の廊下、刃傷事件 1
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11095627233.html

松の廊下、刃傷事件 2
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11096228740.html

松の廊下、刃傷事件 3
http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11098599273.html



 松の廊下およびその周辺の建築構造がわかっていないと、目撃者、梶川與惣兵衛頼照[かじかわ・よそひょうえ・よりてる]の記録に書かれたことを理解することができません。


『将軍と側用人の政治』(大石慎三郎著・講談社新書・1995年6月)の69~70Pに以下のような指摘があるけれど、これが大間違い。その大間違いを丸ごと呑みこんで、井沢元彦氏が 『逆説の日本史』 に書いてるのです。


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「幕府の正式な見解では、事件が起きたのは白書院の廊下となっている。それが廊下の上の方、つまり大廊下に属する部分なのか、それとも医師溜くらいの下の方、つまり柳の間廊下なのか、そこからは読みとれない」

「芝居で演じられるように松の廊下で事件が起こったのでないことは、百パーセント確実である」

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 大石氏がいう「幕府の正式な見解」とは、「常憲院殿御實記」。次のように記されています。

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留守居番の梶川與惣兵衛頼照は御台所の使いを命ぜられていたので、そのことで高家の吉良上野介義央と白木書院の廊下で立ったまま話をしていたところ、館伴の浅野内匠が義央の後から「恨みがある」といいながら切りつけた

【原文】

留守居番梶川與惣兵衛頼照は御台所御使奉はり公卿の旅館に赴くにより、白木書院の廊下にて高家吉良上野介義央と立ながら物語せしに、館伴浅野内匠頭長矩義央が後より宿意ありといひながら少さ刀もて切付たり

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 大石氏は、この白木書院の廊下がどこだかわからない、というのです。

 目撃者、梶川與惣兵衛の日記から引用しましょう。


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「それでは大廊下へ行ってみます」 と (多門傳八郎に) 言い捨てて、大広間の後通りに行ったところ、向うから坊主が2人やってきた。


  1人は、大広間の御椽頬杉戸の内へ入り、もう1人は私とすれ違って後ろの方へ歩いていった。

【原文】
然らハ大廊下へ参り見可申と申すてゝ大広間の後通を参候処、坊主両人参り候。一人は大広間の御縁頬杉戸の内へ入申候。一人は我等後の方へ参り申候。

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 下の図をごらんください。


 梶川は、矢印のように歩いきました。

 「大広間の後通り」 がどこかはわかると思います。


 もしも、中庭側が柱しかなかったとしたならば、このあと梶川は「角柱」のところまで行く必要はない、ということになります。


 2人の坊主(城内雑用係)が向うから歩いてきて、1人は梶川から見て左の 「大広間に入る縁頬(廊下)」 の杉戸を開けて大広間に入っていったのです。




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 大廊下の中庭側の御椽の方、角柱のところから覗き見ると、大広間に近い方の御障子際に浅野内匠頭と伊達左京亮が控えている。


 御白書院の杉戸から2~3間おいた手前には高家衆が大勢いるように見えたので、坊主を呼び戻して「吉良殿を呼んでくれ」というと、坊主は行ってきて直ぐ立ち返り、「吉良殿は、ただいま御老中方との御用でがあってあの場所にはいません」と聞かされた。

【原文】

さて大廊下御縁の方、角柱の辺より見やり候へば、大広間の方御障子際に内匠左京両人被居、夫より御白書院の御杉戸の間二三間を置候て、高家衆大勢被居候体見え候間、右の坊主に「吉良殿を呼びくれ候様」申候へば、参候て即立帰り吉良殿には只今御老中方より御用の儀有之候て参られ候」由申聞候。




「それならば、内匠殿を呼んでくるように」と言ったところ、直ぐに内匠殿が来られたので、「私は今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤めるので、諸事よろしくお頼みます」と挨拶した。


 内匠殿は「心得ました」と言って元の場所に戻られた。


【原文】

左候はゞ内匠殿を呼参り候やう申遣し候処、則内匠殿被参候故、拙者儀今日伝奏衆へ御台様よりの御使を相勤候間、諸事宜しき様頼入由申候。内匠殿「心得候」とて本座へ被帰候。




 その後、御白書院の方を見ると吉良殿が御白書院の方からやって来られたので、坊主に吉良殿を呼びに遣わし、吉良殿に「その件について申す伝えるように」と言った。

 吉良殿は「承知した」とこちらにやって来た。


【原文】

其後御白書院の方を見候へば、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主呼に遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被参候間、拙者大広間の方御休息の間の障子明て有之、





 大広間に近い方の御休息之間(下部屋)の障子(襖障子)が開いていたので、私は白書院のほうから来る吉良上野介の方に歩いて行った。


 角柱より6~7間もある所で2人は出合い、互いに立ったままで、今日、御使の時間が早くなったことについて一言二言言ったところ、誰だろう。吉良殿の後ろより 「この間の遺恨覚えたるか」 と声をかけて切り付けた(その太刀音は、強く聞こえましたが後で聞くと思ったほどは切れず、浅手だったそうだ)。


【原文】

夫より大広間の方へ出候て、角柱より六七間も可有之処にて双方より出会ひ、互いに立居候て、今日御使の刻限早く相成り候儀を一言二言申候処、誰やらん吉良殿の後より「此間の遺恨覚えたるか」と声を掛け切付け申候(其太刀音は強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外、切れ不申、浅手にて有之候)。




 驚き見ると、それは御馳走人の内匠頭殿だった。上野介殿は、「これは」 と言って後の方へ振り向いたところを、また切り付けたので、上野介が私の方に向き直って逃げようとした所を、さらに二太刀ほど切られた。


【原文】

我等も驚き見候へば、御馳走人の浅野内匠殿なり。上野介殿「是れは」とて、後の方へ振り向き申され候処を又切付けられ候故、我等方へ向きて逃げんとせられし処を、又二太刀ほど切られ申候。



 上野介殿はそのままうつ向きに倒れた。そのとき私は内匠頭殿に飛びかかった(吉良殿が倒れたところとの間は、二~三足ほどだったので組み付いたように記憶している)。その時、私の片手が内匠殿の小刀の鍔にあたったので、それと共に押し付けすくめた。


【原文】
上野介其侭うつ向に倒れ申され候。其時に我等内匠殿へ飛かゝり申候(吉良殿倒れ候と大かたとたんにて、間合は二足か三足程のことにて組付候様に覚え申候)。右の節、我等片手は内匠殿小さ刀の鍔に当り候故、それともに押付けすくめ申候。


つづく



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 註:事件があったとき、左のように戸と障子は閉まっていた。右のように戸も障子もない開放状態ならば、梶川は角柱のところまで行かないうちに松の廊下の様子がわかったはず。