水戸黄門の死と討入の関係 | 忠臣蔵 の なぞとき

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 元禄十三年十二月六日(1701年1月14日)。水戸徳川家二代、光圀が亡くなりました。

 享年七十三(満71歳)。

 症状から、死因は食道がんと推定されます。


 光圀の生前の官位が参議権中納言であったことから、中納言の唐名によって「黄門」と称されていたようです。


 さて、水戸黄門が亡くなった翌年の春、三月十四日(1701年4月21日)に、江戸城内の松の廊下で殺人未遂事件がありました。


 その一年十ヶ月後に、あの集団襲撃事件があったことはよく知られています。しかし、その前に江戸時代始まって以来の大戦争が勃発しそうだったのです。


 江戸城での事件の翌月、四月から六月にかけての三カ月、麻布と小石川の離第[りだい](将軍別邸)において、幕府の軍隊を動員した銃と弓による大規模な射撃演習がくりかえし行われていたのです(合計27回)。

 これは、「常憲院殿御實記」に月日までも書かれているので、大きな図書館に行けば確認できます



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      小石川離第だったところ 今は小石川植物園

 この射撃演習とあわせて、参勤交代のときに必要以上の従者を江戸に連れてくるな、と大名家に対して厳重な注意がありました。

 また、射撃演習が終わるとすぐに江戸在府の大名が江戸城に集められ、武家諸法度を守るよう改めて沙汰がありました。


※常憲院殿御實記:徳川実記と総称される史料のうち、五代将軍綱吉の治世の代について書いたもので、集中的な大規模射撃演習については幕府の日記が出典



 これがあの集団襲撃事件に関係しているようですが、忠臣蔵に詳しくても先人が集めた忠臣蔵関係の史料しか見ていない人には、こんな重大なことも目に入らなかったのでしょう。


 五代将軍綱吉は、三代将軍家光の四男です。

 四代将軍は、綱吉の兄。家光の長男家綱でした。


 家綱には男子がいなかったため、将軍継承についてはいろいろ問題があったのです。

 家光の次男は子どものころに亡くなり、三男のの綱重も兄の家綱よりも早く亡くなった。

 そこで、朝廷から将軍を、という話もあったのですが、結局、三代将軍家光の四男、綱吉が五代将軍となったのでした。


 綱吉にはひとり男子がいたのですが、こどもの頃に亡くなっています。


 血統の序列からいけば、家光の三男、綱重の子、松平綱豊(のちの徳川家宣)が六代将軍にふさわしい、と思っていた人は何人もいました。


 ところが綱吉は自分の理想の世界を作ることは、綱豊ではできない。自分の意を継いでくれる者として、娘・鶴姫の夫である紀伊徳川家の綱教[つなのり]を次期将軍にしたいと考えていたのです。


 それをバックアップしたのが、吉良上野介です。

 吉良上野介の息子で上杉家を継いだ綱憲[つなのり]の正室は、紀伊徳川家から輿入れした綱教の妹・栄姫です。


 一方、綱豊派の大物は、当時の朝廷の実力者、関白の近衛基熙[このえ・もとひろ]と水戸光圀でした。


 綱豊の正室・熙子は、近衛基熙の娘。

 水戸光圀の正室・泰姫は、熙子にとって大叔母という関係です。


 こうした次期将軍をめぐる対立があったことから、裏では秘密裏に工作があったようです。京にいた近衛基熙が江戸での事件の知らせを受けたときの日記に、「秘密事」があったことを書いています。


 水戸光圀が亡くなったことで綱吉は紀伊の綱教を次期将軍に擁立する動きが顕著になりました。

 浅野内匠頭による殺人未遂事件の三日後、三月十七日に綱吉は初めて紀伊徳川家の江戸屋敷を訪問しています。

 吉良上野介は職務上、朝廷との折衝にあたることが多く、朝廷側としては「うるさいじじい」。抹殺したい存在でもありました。


 こうした裏事情から、吉良上野介がスケープゴードになったのでしょう。