忠臣蔵 の なぞとき -3ページ目

忠臣蔵 の なぞとき

忠臣蔵に特化して。

何がホントでどれがウソか徹底追及しよう。

新しい発見も!


 こんなのがあるんです。


 吉良屋敷襲撃前に、大石内蔵助が書いた手紙。

 書いてある内容を知って、げげげ。ビックリした忠臣蔵ファンもいたようです。

なぞとき 忠臣蔵


 最後に書かれた宛名は、恵光様・良雪様・神護寺様 となっています。

 恵光は花岳寺、良雪は正福寺という寺の住職。この二名は個人的にも親しかったのでしょう。


 花岳寺(赤穂市加里屋)、正福寺(赤穂市御崎)、神護寺(赤穂市高雄)とも現存する仏寺で、この手紙の現物は正福寺にあります。


 道中は滞りなく、心配することもなく無事に江戸の着きました。

 同志も追々に江戸に入ります。江戸では噂も色々あるようです。

 若老中もご存じのようですが、何のおかまいもありません。

 吉良屋敷を打ち破ることは格別で、その通りにさせておこうとしているようです。

 私たちが亡君のための忠義の死と感じたのでしょうか、何の障害もなく、安堵しています……


  追伸
 この手紙は家来に持って行かせようと思いましたが、若し道中で障害にあってはと思い、私の死後大津よりそちらへ届けるよう頼んでおきました



【原文】

道中御関所無滞少も心懸り之義無之下着仕候・・浪人共追々下着、拙者も罷下り候さた色々在之、若老中ニも御存知之旨ニ候得共何之御いろいも無之うち破り候上は各別其通ニ被成置候事と被察候、亡君之ため忠死ヲ感し道理か何之滞少も無之、致案堵罷有候……

十二月十三日        大石内蔵助{花押}
     恵光様
     良雪様
     神護寺様
           参
尚々此書状家来ニ可進と存候得共若道中滞候てハ如何と存さしひかへ死後大津より其元へ相達し候様ニ頼置申候


 武士が他国へ旅するときの関所の通行手形は主家が発行することになっていますが、浅野の家が潰れてしまって浪人の身。手形は寺で発行してもらったのです。


 寺のほうでも江戸への下向の目的を聞いていたので、「大丈夫か」 と思っていたのでしょう。下手をすれば、自分たちにも後難があるかもしれない、と。



 さて、文中に書かれた 「若老中」 ですが 「若年寄」 と同じです。


 某忠臣蔵ホームページでこの手紙を紹介したとき 「若老中」 と書いてあったのを見て、「若老中はミスだから若年寄に訂正したほうがいい」 と忠告した人がいるようです。


「大石は幕府のことなんて知らない田舎者だから若老中と書いてる」 と言ってた人もいるらしいけど。


 この時代は職名を明記したものがなく、若老中とも呼ばれていたのです。

 殿中席でも、「若老中」と書いたものがあります。




 注目しておきたいのは同志を 「浪人」 と書いてあることです。赤穂の浪人の身だから、疑われずに関所をうまく通過できるか。これが心配だったのですねえ。


「浪士」 なんて言葉は、この時代は使ってなかったのです。この話はいずれまた。



 文面をちゃんと読めばわかると思うのですが、大石内蔵助は、無事に関所を通過できるだろうか、心配だったようです。


 前にも江戸へは行っているけど、今回ばかりは違う。続いて同志もやってくる。大丈夫だろうか。


 で、江戸に着いてみたら、「若老中もご存じのようだった」。


 これ以上つっこんで検証したものは、前回書いた「TOWN-NET」誌連載のみ。


 若年寄(若老中)の職務はいろいろあるけれど、公儀としての辻番管理もそのひとつ。


 辻番は、武家地に設置された交番のようなもので、大名屋敷には必ずあったし、万石以下の家では組合を作って共同で辻番を設置し、管理・運営することになっていました。


 番人は、それぞれの家から下級武士などをつけていました。


 時代が下ると辻番を町人に請け負わせるところが出てきて、年齢制限(二十~六十歳)も守らなければ、番小屋で食べ物を売る者もいたり。ダラけてきます。


 こういったことを書いた本を読んで辻番を甘くみてる人もいますが、元禄の頃の辻番は違う。冬でも戸・障子を閉めては、いけない。仕事の内容を紙に書いて壁に貼っておけ。一時(とき)に一度は周囲をパトロールする、という義務もあったのです。


 武家地の辻番のほか、町屋には、自身番がありました。


 3分も歩けば次の辻番、というくらい。交番だらけです。


 辻番はそれぞれの家で管理するとはいえ、御上もまた管理していたのです。

 若年寄配下の目付の下に御徒目付というのがいて、御徒目付が辻番を巡回して職務をチェックしていた。辻番の職務怠慢があれば、家における管理・運営の責任者が注意される。

 その注意を無視したら、あとがこわい。


 本所吉良屋敷の南隣、相生町二丁目に、大石内蔵助の同士、前原伊助の店がありました。

 前原の店は、吉良屋敷南西角にあった辻番のすぐそばです。


 ここにはよく同士がきていた。浪人風情がちょいちょい来れば、目につくはず。

 それなのに、辻番は知らんぷり。


 そんなことから、大石内蔵助も、「なにかあるな」 と気づいたのでしょう。


 内蔵助は、今回江戸に出てくるまで知らなかった。


 すべてお膳立てが整っていたのでした。


 辻番の前をフリーパスできたのも、「だから」です・






 歴史の専門家は古文書の文字ばかり追いかけてるから、大間違いするという見本をココで披露しましょう。


 東京都墨田区の両国に、吉良邸史跡 「本所松坂町公園」 という小さな公園があります。


 昭和9年に、むかし吉良屋敷があった場所の片隅に地元住民が土地を購入し、史跡公園を造って当時の東京市に寄付したものです。


 この史跡公園のなかに、松坂町稲荷大明神という稲荷祠があります。


なぞとき 忠臣蔵



 このお稲荷さん。もともとは江戸時代初期につくられた幕府の御竹蔵(竹材保管施設)の水門近くにあったそうで、当時は御竹蔵稲荷といっていたとか。いつの時代か、兼春稲荷になったそうで。


 本所松坂町公園ができたときに近くにあった稲荷と合祀して松坂町稲荷となりました。


 明暦三年(1657)に、江戸中を焼きつくすほどの大火(振袖火事)がありました。

 これによって御竹蔵が廃され、武家屋敷ができた。そのうちのひとつが近藤登之助の屋敷で。


 御竹蔵にあった稲荷は近藤登之助の屋敷の鎮守となり、のにちにこの屋敷は吉良上野介のものとなって吉良屋敷でも大切にしていた。


 吉良屋敷がなくなったあとは本所松坂町および隣の本所相生町の鎮守になったそうで。


 これ、伝説にすぎなかったのですが、平成になっても歴史の専門家まで史実と信じていました。


 近藤登之助は、明暦の大火のときに避難誘導で功績をあげた 「鉄砲百人組」 の頭で、名を貞用(さだもち)といいます。


 明治に作られた 「極付幡髄長兵衛」 という歌舞伎のなかにも近藤登之助がでてきます。明暦の時代に、町奴の親分、幡随院長兵衛と旗本奴の水野十郎左衛門の争いにまつわる話です。


 吉良屋敷の討入事件から100年以上もたった文政十一年(1827)ころ、町方から資料提出させて各地の歴史を集大成しようという事業がありました。そのときにできた 「文政町方書上」 と いう史料に、兼春稲荷の由緒が載ってるし、吉良屋敷の前住人が近藤登之助だったとも書いてあり、これをもとにして作られた「御府内備考」 も載っています。


 時代が下って、昭和になってから東京市が作った資料にも近藤登之助説が載っているし、平成3年に発行された 「墨田区古文書集成」 にも、疑うことなく近藤登之助説が載っているんですね。




なぞとき 忠臣蔵




 この話は、むかし本所松坂町があったところの周辺だけで信じられていたようですが、昭和2年に兼春稲荷に伝わった古文書の所有者がこれの解読清書を専門家に依頼したことで、兼春稲荷の由緒がなお真実味をもって語られるようになったのです。


 明治生まれで「江戸学の祖」といわれる三田村鳶魚という人が昭和5年に出した『横から見た赤穂義士』という本のなかには、本所吉良屋敷の前住人を近藤登之助と書いてあった。これで、近藤登之助説は全国的に広まりました。





なぞとき 忠臣蔵


 三田村鳶魚も書いていましたが、吉良上野介が引っ越してきた時点で古びたボロ屋敷だった。そんなふうに書いた忠臣蔵本がたくさんでました。


 ところが、大田南畝(おおた なんぽ)という人が書いた随筆集「一話一言」のなかでは、吉良屋敷の前住人は松平登之助となっていたのです。大田南畝は、「文政町方書上」が作られる前に亡くなっています。


 ホントは、大田南畝が書いたように、吉良屋敷の前住人は松平登之助なんです。


 三田村鳶魚は大田南畝の「一話一言」に吉良屋敷の前住人は松平登之助と書いてあることを知ってたし、大正時代には新聞や本でも紹介していたのです。

 それでも松平登之助説を捨てて近藤登之助説に替えたのは 「再発見された古文書」 によるものでしょう。

 
 近藤登之助は、明治に創られたものとはいえ時代設定を明暦にした芝居のなかに登場するくらいなので、長い間有名人でした。


 一方、吉良上野介は「仮名手本忠臣蔵」が大ヒットロングランになったことから、悪役・高師直のモデルとなったということで有名人でした。


 そんなころから出た間違いですが、言いだしっぺは円蔵院という山伏あがり。

 この人、文政十年に本所松坂町からの依頼で兼春稲荷の社守になったのですが、翌年に町奉行に提出したインチキの兼春稲荷由緒書を書いた人です。ご丁寧にも、享保十八年(1733)に作られたという由緒書まで偽造していたんです。


 有名人の名を使った賽銭増収計画ですな。




なぞとき 忠臣蔵


 上記は、平成平成11年6月刊行の月刊 「TOWNNET」誌 連載 『忠臣蔵で江戸を探る脳を探る』(其十八・百楽天著) で詳細にわたって検証され、『新・忠臣蔵』(舟橋聖一著)を原作としたNHK大河ドラマ 『元禄繚乱』(平成11年) では、松平登之助信望に訂正されました。


 吉良屋敷はボロだったという説もボツ。吉良上野介が引っ越してきた時点で築2年ほど。新築に近いものでした。

 松平登之助という人は、将軍綱吉の御小姓でした。さらに、彼のバックには柳沢吉保とコンビで政(まつりごと)を動かしていた大物がいました。

 詳しくは、またの機会に。






 元禄十五年十二月五日付(1703年1月21日)茅野和助の書状に、 「明六日朝やしきへ切り込み申す筈に御座候」 とあったとして、「五日の夜に討ち入り予定だったが」 と書いてある忠臣蔵本があるんですね。「五日夜=六日暁」 です。


 で、


「将軍徳川綱吉が側用人・柳沢美濃守吉保邸へ御成りのため、当日の吉良邸の茶会が延期される。さらに市中は警戒態勢だったこともあり、六日早朝の討入りも延期される」


 となったというのですが……


 であれば、十二月二日の「深川会議」のことについて書いたなかに、「十二月六日暁に襲撃予定」ということがあってよさそうなものなのに。


 古文書を持ってきて「ココに書いてある」「手紙に書いてあった」 というだけではねえ。

 そんなものは、あとにどうにでもなる。


 忠臣蔵関係の史料は他の事件とは比べものにならないくらい多いけれど、ガセネタも多い。


 十二月六日では、本番の十二月十五日(1703年1月31日)未明のような討入はできません。


 どうしてかというと、月明かりがまったく期待できないからです。


 表門のわきに梯子をかけ、それを上って屋根の上に立ち、邸内に飛び降りたというんでしょ。


 十二月五日は月齢 3.6。月没時刻は 20:55。


 十二月六日未明に襲撃といっても、幼い月だし、日がかわる前にしずんでしまいます。 



なぞとき 忠臣蔵
 


 六日の未明といったら、星空でもまわりは真っ暗闇です。


 武器を持ち、松明も持って梯子を上がる。屋根の上から松明で照らしたって下は闇です。そんななかに飛び降りるんですか?



 十二月十五日は月齢 13.6。月没時刻は 5:17 です。


 月没から夜明けまで約50分ほどあるけれど、この間はみな手に灯りを持っていた、と書いた史料もある。こういうのは信用できます。



なぞとき 忠臣蔵


 十二月十五日未明であれば、空が晴れていれば松明がなくても梯子は上がれるし(今より空気が澄んでいるから月も明るい)、若者なら屋根から邸内に飛び降りることもできるでしょう。




 さて、十二月十五日未明決行は、「十四日に茶会があるから吉良上野介は在宅のはず」 ということから決まったようです。


 で、その情報源は、茶匠の山田宗偏に弟子入りした大高源五(おおたか・げんご)と、吉良家に出入りしている羽倉斎(はぐら・いつき)からの2ルートから得たということになってるけど。


 いくつかの忠臣蔵本によれば、大石内蔵助と羽倉斎は昔から知ったなかで、内蔵助の依頼で大石無人の次男、大石三平(おおいし・みつひら)が羽倉斎からの情報を探っていたのだとか。


 いや、違う。羽倉斎ルートは堀部彌兵衛(ほりべ・やひょうえ)が見つけた。そう書いてあったものもあった。


 でもねえ。大石内蔵助は羽倉斎のことは、ぜんぜん知らなかったのです。


 十二月十四日に大石三平と兄の郷右衛門が父の無人と相談して堀部彌兵衛宅を訪問し、そこで 羽倉斎のことを内蔵助に話したのです。


 内蔵助は、「え、その人、誰?」 です。


 「江赤見聞記」 という史料集のなかに収載された堀部彌兵衛の文書のなかに、「大石氏」 と羽倉斎が親しいと書いてあった。その 「大石氏」 は三平のことだったのに、大石内蔵助と羽倉斎が親しかったと思いこんでしまった人がいたのですね。


 しかも、 十二月十四日に大石三平と兄の郷右衛門の兄弟は、羽倉斎から聞いたとして 「泊まり客がいるらしい」 という情報を持ってきたのです。

 だから、客まで殺傷するようなことがあってままずい、と進言しにきたのです。


 ま、それでも討入は決行しました。


 これは、堀部彌兵衛がいなかったらどうなったことか。


  堀部安兵衛が遺した文書(とくに大石内蔵助との往復書簡)を分析すれば、堀部一家がどのような立場でいたかわかりそうなものなのに。


『赤穂義人纂書』(国書刊行会)に収載されたなかに、「多門伝八郎覚書」という史料があります。


 この史料のなかには浅野内匠頭が切腹前に詠んだという辞世のことが、次のように書かれているんですね。


 (浅野内匠頭が)硯筥[すずりばこ]と紙を望んだので差し出したところ、(内匠頭は介錯の)刀がくる前に硯筥を引き寄せ、ゆっくりと墨を摺って筆をとり、


  風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残を いかにとかせん 


 こう書いて刀を介錯人・御徒目付の磯田武太夫へ渡し、切腹となりました。
 この歌は御徒目付の水野杢左衛門が受け取り、田村左京太夫へ差し出して受け取りました。
 介錯人の磯田武太夫は古法の通り介錯して切腹が済んだことを見届けました。
 死骸などについては田村左京太夫方にて処理するので、あとは左京太夫へまかせてそれぞれ退散したのです。


【原文】
硯筥・紙を乞候故差出候処、刀参り申候内ニ内匠頭硯箱引寄、ゆる\/(ゆる)墨を摺筆を取 風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残を いかにとかせん と書て刀を介錯人御徒目付磯田武太夫エ相渡候内相待被居候、右之歌ハ御徒目付水野杢左衛門受取田村左京太夫江差出候ニ付受取被申候内介錯人磯田武太夫古法之通介錯いたし切腹相済見届之返答有之、死骸等ハ田村左京太夫方ニ而取斗候故跡之義は左京太夫江申渡各退散也


 この辞世ですが、多くの忠臣蔵本では「多門伝八郎覚書」にしか書いていない、としています。


 ところが、どっこいしょ。


 他にもあるんですよ。



 風さそふ 花よりも亦 われは猶 春の名残を いかにとかせむ


 とってもよく似てるでしょ。


 「播磨椙原」[はりますぎはら]など、都乃錦という浮世草子作家の著作とされているものに出ているのでした。



なぞとき 忠臣蔵


 都乃錦は他にも歌を書いているし、「多門伝八郎覚書」は都乃錦の作品を参考に書いたようです。

 都乃錦は元禄十六年五月(1703年6月)に大坂から江戸に出たとき無宿人として捕えられ薩摩の永野金山に配流され、脱走を試みるも失敗し、宝永二年七月(1705年8月)に鹿籠(かご)に移された。「播磨椙原」は鹿籠金山で執筆された、ということです。浅野内匠頭切腹の4年後ということですが??? 宝永八年(1711)という説もあります。


 上の画像にあるように「寶永年中」に書かれたものでしょうが、無宿者として佐渡に流され金山で水汲人足として働かされた者の労働状況を照らしてみると、金山配流中にはとても執筆活動などできません。


 宝永六年七月十六日(1709年8月21日)の大赦で釈放されたのち、上方に戻って執筆活動を再開。宝永九年(1712)に『当世智恵鑑』を著しています。

『薩摩椙原』は、宝永八年(1711)成立という説のほうが正しいとみたほうがいいでしょう。


 枕崎市には都乃錦とされる「播磨椙原」があるのですが、昨年末に大阪でも、「播磨椙原」が発見されて、これも都乃錦の真筆だそうで。



 ところで、「多門伝八郎覚書」ってのは、あちこちで名前を間違えてる。

 浅野内匠頭の切腹の場面では田村右京太夫が、田村左京太夫。「右」が「左」になってるし、柳沢出羽守や(仙石伯耆守が、のちになって改名した(柳沢)美濃守と(仙石)丹後守になってる。

 松の廊下での刃傷のところでは、梶川与惣兵衛梶川与三兵衛になってます。

 多門伝八郎覚書は、こうです。


 松之御廊下角より桜之間の方へ逃げたようで畳一面に血がこぼれていました。そのそばには顔面血走った浅野内匠頭が刀を持たず梶川与三兵衛にくみとられ、神妙にして「私は乱心ではございません」。


 【原文】
松之御廊下角より桜之間之方江逃被参候趣故御畳一面血こほれ居候、、又かたハらにハ面色血はしり浅野内匠頭無刀ニ而梶川与三兵衛ニ組留られ神妙体ニ而私義乱心ハ不仕候


 宝永元年(1704)頃成立の「介石記」にある松の廊下の刃傷のシーンを書いておきましょう。


 介石記のほうは、こんな。


 烏帽子にさわって太刀は落ち、後ろに流れました。吉良殿はハッいって倒れた。二の太刀を振りかざそうとしたところに梶川与三兵殿、御台様のご用について来ていたのでそのまま、あと、留められました。


 【原文】

烏帽子に障て太刀討チ後ロ江流連ケる吉良殿ハつといふて倒ケル二の太刀を討んとせら連ケる處尓梶川与三兵殿、御臺様御用ニ付被参合ケるが其儘跡留らる



なぞとき 忠臣蔵



 「多門伝八郎覚書」の「梶川与三兵衛」の間違いが、「介石記」の間違いそのままなのには、笑ってしまいました。



 「仮名手本忠臣蔵」の元ネタ、「碁盤太平記」は宝永三年(1706)の作だし、「多門伝八郎覚書」の作者は、いろいろなものを引っ掻き集めて書いたのでしょうね。







最近知ったことですが、『図解雑学 忠臣蔵』(菊地明・ナツメ社・2002年11月)には、こう書かれています。


「事件後の元禄16年4月、幕府は吉良邸を取り壊して跡地の居住希望者を募ったが、誰も不浄の地として望むものはなく、11月に幕臣の佐柄木弥太郎と中島甚兵衛が拝領し、町地とされた」(224ページ)



なぞとき 忠臣蔵




「易水連袂録」に書かれてることと、「文政町方書上」に載ってることをセロテープで貼り付けたんだな。


笑っちゃいます。



「易水連袂録」 ってのは、元禄十六年(1703)の序文があるんだよね。

一方「文政町方書上」 は、文政十一年(1828)の頃。


「易水連袂録」の元禄十六年は、たぶんウソ。もう少しあとに書かれたものでしょう。それにしても、100年以上も違うものを内容の検討もせず、セロテープで貼り付けて文を書いてしまうとは、すごいことをやってくれます。


だいたいさぁ、「易水連袂録」にある吉良屋敷の図ってのは、わかる人が見れば爆笑ものなんですよ。


屋敷は東西七十四間と書いてるけど、まずこれが違う。「五間通」を「四間通」と勝手に道幅を変えている。


東西南と三方に「ミゾ」があるけど、水の行き先は? え、北に向かって水が流れたって行き場所ないよ。流れて行くのなら、南の竪川でしょ。現地、見てないな。


武家屋敷のまわりには生活排水溝があるのは当たり前のことだけど、北隣の土屋・本多の屋敷との境にも溝があるんだよね。


いちばんのけっさくは、西の裏門はあるけど、表門がどこにもない(笑)


なぞとき 忠臣蔵



あと、隣人の名前。


本多孫太郎正頼・土屋主税達直・牧野長門守になってる。


本多孫太郎さんは長員、土屋主税さんは逵直。


牧野長門守さんは、討入事件の前年四月に亡くなってる。息子の一學くんにしてあげなけりゃ。


「易水連袂録」ってのは、江戸城内の構造もわからずに、刃傷事件のとこでもデタラメ書いてる。


「饂飩屋久兵衛」の話なんてのも、出所は「易水連袂録」。(饂飩/うどん)


堀部弥兵衛じいさんが、饂飩屋久兵衛に金3両を渡して、饂飩60~70人前と酒肴を予約。ここを討入最前線としたなんて。


そんな饂飩屋、元禄の頃にはない。けど、寺坂吉衛門の筆記によれば、そば切は食べた人がいる。


吉田忠左衛門組長以下数名が、新興住宅地・米沢町の堀部弥兵衛じいさんの家から両国橋を渡り、集合場所の林町五丁目の堀部安兵衛さん名義で借りた家に行く途中です。


やみ営業の亀田屋という風俗茶屋がありました。


寺坂吉衛門の筆記にある「両国橋向川岸町の亀田屋」。「向川岸町」なんて町名の町なんて、ありゃしないのです。


「忠左衛門・沢右衛門其外六、七人ハ両国橋向川岸町亀田屋と申茶屋に立寄申候そは切なと申付、緩々と休息」

」)。

竪川に架かる一之橋の手前の河岸地にあった店です。


子分や息子たちとここで最後の宴を張ったなんて、吉田組長、いきなことを。 さすが! そのとき出てきたのが、そば切。 ま、宴会のセットのようなものですな。


これが 「泉岳寺書上」 では蕎麦屋の 「楠屋十兵衛」 に化けてしまう。


9から10に出世しちまうわけだ。かつての忠臣蔵の映画の蕎麦屋の二階のシーンは、こんなところから出たものなんです。


この、風俗店があるところは、のちに岡場所と呼ばれるようになった。

好奇心旺盛で何でも知ってる平賀源内さんが書いた江戸岡場所の面白本・ 『風流志道軒伝』 (宝暦十三年/1763年) にもリストアップされてますよ。


さて、セロテープで貼り付けた 「文政町方書上」 なんだけど、『図解雑学 忠臣蔵』 は都合のいいとこだけ切りぬいて使ってるし、切り抜いたものもちゃんと読んで理解していない。




「元禄十六未年吉良上野介上り屋敷跡、先祖 佐柄木彌太郎・中島伊勢両人共同様拝領仕、當時、右彌太郎・甚兵衛所持仕候」



 ホラ、「先祖 佐柄木彌太郎・中島伊勢両人共同様拝領仕」 です。この2人が元禄の時代に生きた人です。

図解雑学 忠臣蔵』 に名前があった彌太郎(佐柄木家では代々同じ通称)さんと甚兵衛さんは、當時(文政)の人。

 100年以上も違うのに、先祖と子孫をゴチャまぜにしたら、冗談にもならない。


 それにさあ、中島伊勢の家は御鏡師、佐柄木彌太郎(代々同じ通称)の家は御研師だよ。

 武士じゃない。武士の身分にない人が勝手に「幕臣」などいったら、首が飛びます。それに、武士は町屋になんか住みません。ま、住むとしたら、浪人だな。中島さんも佐柄木さんも、手に職のある人だから、浪人なんかじゃない。


「文政町方書上」 には、「佐柄木弥太郎と中島甚兵衛」 について書いたすぐ隣に、「吉良屋敷の先住者は近藤登之助」 と書いてある。


 近藤登之助ではなくて、ホントは、松平登之助です。


 まだまだ続きはあるけれど、今回はこれまでとします。


 中信