『図解雑学 忠臣蔵』 だってさ | 忠臣蔵 の なぞとき

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最近知ったことですが、『図解雑学 忠臣蔵』(菊地明・ナツメ社・2002年11月)には、こう書かれています。


「事件後の元禄16年4月、幕府は吉良邸を取り壊して跡地の居住希望者を募ったが、誰も不浄の地として望むものはなく、11月に幕臣の佐柄木弥太郎と中島甚兵衛が拝領し、町地とされた」(224ページ)



なぞとき 忠臣蔵




「易水連袂録」に書かれてることと、「文政町方書上」に載ってることをセロテープで貼り付けたんだな。


笑っちゃいます。



「易水連袂録」 ってのは、元禄十六年(1703)の序文があるんだよね。

一方「文政町方書上」 は、文政十一年(1828)の頃。


「易水連袂録」の元禄十六年は、たぶんウソ。もう少しあとに書かれたものでしょう。それにしても、100年以上も違うものを内容の検討もせず、セロテープで貼り付けて文を書いてしまうとは、すごいことをやってくれます。


だいたいさぁ、「易水連袂録」にある吉良屋敷の図ってのは、わかる人が見れば爆笑ものなんですよ。


屋敷は東西七十四間と書いてるけど、まずこれが違う。「五間通」を「四間通」と勝手に道幅を変えている。


東西南と三方に「ミゾ」があるけど、水の行き先は? え、北に向かって水が流れたって行き場所ないよ。流れて行くのなら、南の竪川でしょ。現地、見てないな。


武家屋敷のまわりには生活排水溝があるのは当たり前のことだけど、北隣の土屋・本多の屋敷との境にも溝があるんだよね。


いちばんのけっさくは、西の裏門はあるけど、表門がどこにもない(笑)


なぞとき 忠臣蔵



あと、隣人の名前。


本多孫太郎正頼・土屋主税達直・牧野長門守になってる。


本多孫太郎さんは長員、土屋主税さんは逵直。


牧野長門守さんは、討入事件の前年四月に亡くなってる。息子の一學くんにしてあげなけりゃ。


「易水連袂録」ってのは、江戸城内の構造もわからずに、刃傷事件のとこでもデタラメ書いてる。


「饂飩屋久兵衛」の話なんてのも、出所は「易水連袂録」。(饂飩/うどん)


堀部弥兵衛じいさんが、饂飩屋久兵衛に金3両を渡して、饂飩60~70人前と酒肴を予約。ここを討入最前線としたなんて。


そんな饂飩屋、元禄の頃にはない。けど、寺坂吉衛門の筆記によれば、そば切は食べた人がいる。


吉田忠左衛門組長以下数名が、新興住宅地・米沢町の堀部弥兵衛じいさんの家から両国橋を渡り、集合場所の林町五丁目の堀部安兵衛さん名義で借りた家に行く途中です。


やみ営業の亀田屋という風俗茶屋がありました。


寺坂吉衛門の筆記にある「両国橋向川岸町の亀田屋」。「向川岸町」なんて町名の町なんて、ありゃしないのです。


「忠左衛門・沢右衛門其外六、七人ハ両国橋向川岸町亀田屋と申茶屋に立寄申候そは切なと申付、緩々と休息」

」)。

竪川に架かる一之橋の手前の河岸地にあった店です。


子分や息子たちとここで最後の宴を張ったなんて、吉田組長、いきなことを。 さすが! そのとき出てきたのが、そば切。 ま、宴会のセットのようなものですな。


これが 「泉岳寺書上」 では蕎麦屋の 「楠屋十兵衛」 に化けてしまう。


9から10に出世しちまうわけだ。かつての忠臣蔵の映画の蕎麦屋の二階のシーンは、こんなところから出たものなんです。


この、風俗店があるところは、のちに岡場所と呼ばれるようになった。

好奇心旺盛で何でも知ってる平賀源内さんが書いた江戸岡場所の面白本・ 『風流志道軒伝』 (宝暦十三年/1763年) にもリストアップされてますよ。


さて、セロテープで貼り付けた 「文政町方書上」 なんだけど、『図解雑学 忠臣蔵』 は都合のいいとこだけ切りぬいて使ってるし、切り抜いたものもちゃんと読んで理解していない。




「元禄十六未年吉良上野介上り屋敷跡、先祖 佐柄木彌太郎・中島伊勢両人共同様拝領仕、當時、右彌太郎・甚兵衛所持仕候」



 ホラ、「先祖 佐柄木彌太郎・中島伊勢両人共同様拝領仕」 です。この2人が元禄の時代に生きた人です。

図解雑学 忠臣蔵』 に名前があった彌太郎(佐柄木家では代々同じ通称)さんと甚兵衛さんは、當時(文政)の人。

 100年以上も違うのに、先祖と子孫をゴチャまぜにしたら、冗談にもならない。


 それにさあ、中島伊勢の家は御鏡師、佐柄木彌太郎(代々同じ通称)の家は御研師だよ。

 武士じゃない。武士の身分にない人が勝手に「幕臣」などいったら、首が飛びます。それに、武士は町屋になんか住みません。ま、住むとしたら、浪人だな。中島さんも佐柄木さんも、手に職のある人だから、浪人なんかじゃない。


「文政町方書上」 には、「佐柄木弥太郎と中島甚兵衛」 について書いたすぐ隣に、「吉良屋敷の先住者は近藤登之助」 と書いてある。


 近藤登之助ではなくて、ホントは、松平登之助です。


 まだまだ続きはあるけれど、今回はこれまでとします。


 中信