小説そのうちでます-山栗


『山栗』

真夏が始まったばかり。我が家の庭も小さいながらの海開き。

しかし、山は秋の仕込みに入っている。確実にやってくる毎年の、その支度に追われているようだ。

里山には里山らしい実がなる。

千葉県は栗の産地としても有名で、赤ん坊の拳ぐらいある栗もある。東京の人であればその話に信じられないという顔をつくることだろう。

味もなかなかなのである。

また、田畑が続くその日当たりが少し悪そうな山に意外とうまい栗が点在する。

山栗だ。


「最近の若い者は○○だからなぁ」

そんな言葉をテレビでも、買い物に行くスーパーでも、電車の中でもよく耳にする。


都会にあればそうした話し振りは常套句なのであろうが、男はそれが気に入らなかった。

こんな田舎では若い者でも年寄りでも関係なく懸命に生きようとしている。

そうであって欲しいとさえ思う。


「自分が感じる今、その中で目にする若者」そういう視点でものを見る上のものが嫌なのである。

それはまるで、自分達が完結している態度を表しているように見えるからだ。

年下はすべて若者である。10代、20代を限定いていようがいまいが年下である。そしてその年下が生きている時代は間違いなくその言葉を発した人間も生きている時代である。過去の自分の時代ではないのだということを忘れてはいまいか。


山栗を明け暮れるまで捜し歩き、袋一杯に抱える姿を想像する男は最近のなどと言う贅沢な老後を考えてはいないのである。


小説そのうちでます-カマキリ


『蟷螂』

子供が生まれてから、こんなに子煩悩だったのかと人に驚かれることがある。30を過ぎてからの子供だからか何なのか、自分でも分からない。

特別意識したここがない。

ただ、命一杯遊ぶことが大好きだ。

しょっちゅう叱りつける親であるのに、子供達は纏わりついて離れようとしない。

だから、こちらも容赦なく遊ぶ。周りの人はだから、映画「ミセスダウト」のシーンを見ているようだという。


家族サービスを良くする旦那という人もいるが、そんなつもりはない。

サービスとは奉仕だ。奉仕とは必ず損得の気持ちが込められる。嫌な気持ちでも無理して遣えるのが奉仕だ。素直に携わる時も奉仕だ。

だから言われるのが嫌なのである。


必死に遊ぶそれだけである。


男はその姿を自分で振り返ったとき、昔一生懸命サンドバックを叩いた頃のことを思い出した。

両手をそれぞれ何かつまむような恰好にこしらえる。そして腰を低くし片方の足のつま先に力を入れたままそっと前に出す。

中国拳法の蟷螂拳である。

手の甲を使いそのサンドバックめがけて勢いよ繰り出す。

乾いた音がすると、反対の甲でもう一度同じところを突く。

何度も繰り返したのであろう、そこだけ色が変わりへこんでいた。


後から「もう少し丹田を使って腕を出さないとだめだ」という言葉をかけてくれる人がいた。

男のことを面倒見てくれた青年である。真剣なまなざしと真剣な表情。奉仕などというやさしいものではもはやなかった。


小説そのうちでます-水筒


『水筒』

自分はせっかちだと思う。

かなりそう思う。人にも言われるが、言われる前から感じているので、指摘されると癇に障る。

書く文章もそのようである。

とにかくすべてを書き終えたいと思う。言葉を選ぶまもなく、ずらずらと並べあげてフィニッシュ。

そうして、書いたことで満足し興奮している。

別の用事を片付けて、落ち着いた頃にもう一度その文章を読んでみる。

おかしなところばかりが目に付く。

書き直すぐらいならば最初からよく考えるべきだと我ながら反省してしまうのである。


人生のうち、自我に目覚めた頃、Rapなどというものに出会ってしまったからであろうか。それが自分の思考力を加速させたのかもしれない。

言葉遊びのラップは次々言葉を繋いでいく、小説のようなものである。

電光石火の速さで口から話が生まれる。時に関連性のある話題を次々につむぎ、時に意外性のあるネタで聞く側の度肝を抜く。そして感心と笑いを誘うのだ。ほとんど休む間もない、休むことは失敗だと感じてしまう。


男はほとほと疲れてきたようだ。 ラップではない、詩を綴る文を作りたいと思い始めた。


一息つく。そんな時間を用意するために、水筒を貰い受けた。自分で買わないところがまた、いやしい。


このまませっかちでいってもよいという姿勢の中に、やっぱり落ち着きもあったほうがよいのだがと優柔不断さが見えるからである。


まぁいずれにしても、その水筒のおかげもあって、文を推敲する余裕が生まれてきた。

男の狙いは適ったようである。





小説そのうちでます


見る人が見れば分かってしまう。そんな蔓性の植物

『自然薯』


5月にはそのカワズからニョキニョキと芽を延ばし、6月の梅雨の恵みをうけて更に蔓を這わせる。

7月ともなれば雑草に混ざってどんどん上を目指し伸びる。

光合成を求める性質を蔓性ならではの利点を生かして貪欲なまでに露にする。

早い者は5m以上もある木の上に葉を広げている。

その葉を見つけると元を探すのである。

右巻き左巻きと様々な蔓がびっしりと絡んでいたり、そっくりで良く見ても間違えてしまいそうな葉がたくさんあったりする。その中から確実なものを目でたどるのである。


そうして地面の怪しげな蔓の元を探し当てる。

「これだ!」

自然を愛する人たちならば誰もがわくわくする瞬間だ。

なんとも地味な宝探しなのだ。

そう、葉の大きさ、蔓の太さ、そしてどこまでも伸びるその生命力に驚嘆して今年の獲物の成長を願うのである。


獲物とはまさにヤマイモのことだ。


一度食した時からもうすっかり虜になった男は、毎日上を見上げ葉を蔓を捜す。その獲物がどれほどのものになるか想像しながら・・・


小説そのうちでます-たまむし


『タマムシ』

まだ中学の頃、不良という言葉が似合う時代だ。

最近ではギャングといってアメリカを模した若者が赤や青のバンダナを頭に巻いて街の中で息巻いている姿がある。

一昔前の世代は暴走族を代表するグループや〇〇ハイスクールなるもののグループがあった。


そして、そうした不良の代表が制服である。

特に、チョウランやタンランと呼ばれる学ランのなかで「タマムシ」という裏地にこった物があった。

本物の昆虫のようなどぎつい色合いではないが、その裏地は確かに怪しい輝きをいくつもの色彩を重ねて出していた。

今で言うマジョーラであろうか。


タマムシを見つけた男はその当時を思い出してひとりほくそえんだ。


滅多に見つからない昆虫。

もう戻れない過去の自分。


ただそれだけを考えた。


小説そのうちでます


『コウゾの実』

アダムとイブは禁断のりんごをかじる。白雪姫もそうである。

決まって赤い色をする実の代表だ。

また、実を身として女性を表すのもおもしろい。

その身をものにすることは憚られるというわけだが、万が一射止めてしまったとしたら?

結果は不幸になるというのがおきまりである。


赤はだから危険なのだろうか。人を魅了する色。動物を狩ったときに真っ先に流れる赤色の血。

命を感じさせる色だからだろう。


クワの実に似たもので野イチゴがある。両者で共通な点は葉の形だろうか。

そして同じ時期、よく陽のあたる少し傾斜の場所に同じような実をつけるものがあった。

名をコウゾという。

これはクワの実よりも少しずんぐりと丸く、野イチゴよりも薄い赤色で花の繊維が残っている実だ。

味は甘い。しかし、一口でもういらないとなる。理由は繊維が口に触るからだけではない。

甘みの前と後になんとも言えない青臭さが来るからだ。

クワの実のすっぱさの方がよほど好みである。


流石にこのコウゾの実は鳥たちにも人気がないらしく、いつも枝についていて、1週間も過ぎれば地面にぽたぽたと落としていた。


赤い命の元は、幸いにして地に帰ったというところだろうか。



小説そのうちでます


『毒』

世の中で嫌いなものの一つが毒蛇である。

植物は手に取らなければ害はないと勝手に思う。

しかし、動物はそうもいかない。

向うから現れる危険があるからだ。

そもそも、彼等の住む世界に入っていく人間が、その姿勢がいけないのだが、止む負えず入らなければならない場合もある。


子供のころ知ったのはヤマカガシ(緑や赤や黒が混ざり合ったにぎやかな色の蛇)も奥歯に恐ろしい毒があること。

だが、やはり一番怖いのはマムシである。

その被害の報告を聞けば聞くほど、身の毛がよだつ。


男は自分の娘にも注意するように行っていた。娘は幼稚園で蛇が出てくる絵本を先生に読んでもらった時に「蛇はだめ!」と泣き叫び中断させたことがある。

その話を後で聞かされ、申し訳ないことをしたと反省した。


しかし、そうはいっても、蛇に対する注意は怠らない。

沢に入るときも、あるいは山菜を取りに里山に入るときも、始終足元を気にしている。

道路に戻った時、足首に違和感があったときなどは、こっそり噛まれたのではないかとびくびくして靴を脱ぐほどである。


本当に恐ろしいのは、なにか、男は省みずこの夏もまた、毒牙を忍ばせる蛇に出会いそうな場所とは知らずに山に入っていた。

どよう
小説そのうちでます-うなぎ


『うなぎ』

土用の丑の日はうなぎのほかにシジミもあるとこの歳になって知った。

いずれも夏の暑い盛りに、太陽光から奪われる生命の活力を回復させる手助けとなるには変わらない。


彼はかつて魚屋の手伝いをしたことがある。といっても本格的なところではなく、スーパーの一角に設けられた鮮魚コーナーの仕事である。


その中でさばかれた魚をパック詰めにしたり、仕入れられた魚を陳列したり、新鮮な氷を常につくってショーケース内を冷やしたりと仕事はいっぱいある。


男が一番したかった仕事はもちろん、魚を捌くことである。中でも大きなカツオやハマチを三枚におろし、細かな骨をとった上で刺身にして盛り付ける。その技を憧憬の眼差しでみながらいつか自分もやってみたいと思っていたものである。


「一度やってみるか?」と店主に言われたときはのどまででかかった。

「はい」と言ってしまいたかったのだ。

しかし、その度胸がまるでない。理由は失敗したら、弁償しなければならないと勝手に思ってしまっていたし、なによりも魚に申し訳ないと思ったからである。


それから、男は、自分でも出来ることを探した。


そう、その日はうなぎを一年に一番売る日だったのだ。


うなぎを捌く店主に「串は僕がさします」と申し出た。

当然一匹を焼くのではない。小さければ二等分、大きければ三等分に身を切り分けてから串に刺す。

男はその切り分けまで任せて欲しいといいたかったのである。


店主は「よし、やってみろ」といって、出刃を渡した。

丁寧にその刃の研ぎ方を教えた。

見よう見真似で研ぐその姿は、板前に成長するかもしれない、そんな真剣さを見せていた。

そして、うなぎのそのふっくらとした透明な身にためらいなく刃を引く店主の手さばきを少しも逃さず見つめた。


「いいか、皮から身がはがれないように一気にだぞ」


等分目なるものを自分で図ってから、男は刃を身の上から手前に引いた。

その感触が今でも残っている。


小説そのうちでます-チャーシュー


『チャーシュー』


これにまつわる思い出はとても浅い。

一昨年から自家製でやっている。

きっかけは、市販のものを食した時の物足りなさ。そしてなんといってもラーメンの上に乗せてある、お店ごとの異なる味わい深さに近づきたいと思ったことだ。


想像してみる。鹹水の茹で上がる独特のにおい。そして、様々な出汁、魚の中でも濃い味で少しクセのあるサバやトビウオ、はたまた、ニワトリのとさかやもみじをじっくりと煮込み、別鍋でゲンコツをぐらぐらと茹で上げている。それらを絶妙な配分で混ぜ合わせたスープの香りが街中を漂い、通行人の空いた胃袋を刺激していく。

ある者は、散点する暖簾の中からその確かなありかを探し、あるものはマップなるもので位置を定める。


今やどの店も自己主張する一品を提供しようと躍起である。食べる側もその個性を受け止めてやるとばかりの姿勢がある。

両者の駆け引きの中、ひっそりとだが、自分の位置をわきまえているものがある。


それでも決して卑下することはない。むしろ脇役ながら堂々とした陰の立役者だ。


一枚しか乗せられていない場合にはスープを啜るときに邪魔にならない位置におき、あくまでも趣味に興じるがごとく味を確かめ、ニ枚ならばその奥深さに陶酔するべく最初に味わう。
当たり、はずれはあれど、それは確かに受けて側の心を真の意味で玩んでくれるかわいい存在なのだ。

男はだから、こだわった。
スープをそのためにこしらえ、醤油ダレを彼のためにと手間をかけた。手間のかけようは涙ぐましいほど凝っていた。煮詰めすぎず香りとコクが出るようにと何度も寝かせた。


たった1キロにも満たないその塊。贅沢な寝床は、肉を入れられるたびに新鮮な醤油が注がれて常にまろやかさをだす。


そしてついに今日も漆黒の漬けダレの中から姿を表わした。うまみの詰まったそれは、焼きが入れられ本来の味わいを閉じ込められた上に、脂の照りをだし、醤油のえも言われぬ香りを立ち上らせていた・・・

皆さまに読んでいただいておりました小説『弁天』を一旦削除しようかと思います。

まだ途中までしか読まれていない方にとっては非常に申し訳ないことと、私も心苦しい限りです。


かの小説家 三島由紀夫は 文章読本の中でこう記しております。

『自分の感覚を誠実に突き詰めないで、読者に対する阿り(おもねり)やいいかげんなリアリズムやいいかげんな想像力や、世間へほどほどのところで妥協した精神の上に書かれているので、醜悪な文章になるのであります。作家の個性が強化のように最高度にはっきされれば、それはそれなりに文章の完全な亀鑑となるのであります。 』


また前述でも


『私はこのような悪文のお手本を書いてみました。つまりこんな文章は鴎外の「水が来た」のたった一句とちがって現実の想像やら、心理やら、作者の勝手な解釈やら、読者への阿りやら、性的なくすぐりやら、いろいろなものでごちゃごちゃに塗りたくられています。これが古代の情景に対していつも時代物作家が、現代の感覚を持ち込もうとする過ちであります。彼等は古代の物語りのおそろしい簡潔さにたえられないで、現代の生活感覚でベタベタと塗りたくってしまいます。描写すればするほど古代支那の簡潔な物語りの、すっきりした輪郭は崩れ、たとえばその衣装を描写すればするほど、それはわれわれの感覚からかえって遠くなって、紙芝居のようになってしまいます。 』


としました。これだけでは何のことか、分からないと思います。

ようは、物を書くにあたり、もう少し修行をしてみることというのです。


エンターテイメントという娯楽小説を書き上げる私も、及ばずながらその執筆に固執したいと考えてしまうことは自然なことです。

もっとよいものを、皆さんが喜んでもらえるものをと邁進していきたいのですが、がむしゃらにいるだけでは良い結果にはならない。


そこで、新たな試みをしながらも、過去の作品を更に良い形でお届けしたいと思った次第です。

執着ばかりしていてはという意見も生まれそうですが、如何せん頭の弱いものの浅知恵ですのでどうか御勘弁願いたいと思っております。


本日7/9を持ちまして明日7/10には削除させていただきたいと思います。

勝手申し上げましてすみません。

筆者より