小説そのうちでます-神秘


『セミ』


少し前にセミの抜け殻なる写真を掲載したが、今朝は、朝日の、既に空気が暖められたそれと共に、顔に張り付くような日差しの中で珍しいものと出合うことができた。


神秘との接触。


日光に浴するその体はまだ未完成の作品である。

瞳が黒いのは彼が静を選んだこの瞬間に、ひたすら落ち着いて進化を待つために用意された、必然のまぶたである。

もし白の、あるいは透明の瞳を有しているならば、既に物が見えてしまい穏やかにはなれないであろう。

彼にとっては今が夜なのである。

そして、時折吹く丁度良い自然のドライヤーがふやけた全身を乾かすのである。

硬い鎧へと変貌するまでの時間は、だから見えてはいけないのである。


どうしてこのような、段階、段取りめいた順序を用意したのであろうか。

手っ取り早く卵が割れて、動き出すような生き物に何故作られなかったのであろうか。


それこそが神秘の入り口なのだと男は思った。


今日のめぐり合わせに、朝日はそのまぶしさを二つの額へ落とした。



小説そのうちでます-さかみち


『坂道』


上れば下る。登っても降りる。UPとDOWNはよく人生に例えられる。

少しいぢわるにみるならば、人生はのぼりしかない。理由は片道だから。

上にいって下へ降りるという一連の流れは、同じところに戻ってくるという意味合いではなく、目的を達成するという最初と最後を象徴するわけである。


だから、人生の目的の達成とは死しかないのであればUP&DOWNはないのである。

言ってみればUPし続けるだけなのだ。DOWNを見た人がいるならば一度ゆっくり話を伺ってみたい。おそらく、今世紀最大の小説が書けそうだ。


ただ、その過程の起伏はあるだろう。気分の浮き沈み。前を向いて進んでいても、気持ちが萎える時はある。立ち止まる時もある。そして「よし」と奮起して進むのだ。それは生きているからこそのUP、DOWNだ。


男が感じてその人生の岐路に立たされた時、ふと坂道の位置を確認しようとした。

今はどの辺なのであろうかと。

この坂を行くべきか、別の坂に行くべきか。

辛く急な坂で、暑さにめげず進むときはそのようなことは考えず、とにかく足を前に蹴りだすことだけに気力を使っていた。

少し余裕が出来たり、周りに人がいなくなると寂しくなって立ち止まる。

そして登ってきた坂の上から下を見下ろしてどうも間違いじゃないかと不安に駆られる。


今もそうだ。人が生きるという漠然とした、先人の通った道を疑わず進む。

それは男にしかない道であり、誰もが折り重なって歩む道である。

自分の道には他の者は通らない。透けた人間が通るだけである。

だから手を繋ぐことも、一緒に呼吸することもない。

そんな道は自分が通るべき道なのであろうか。


声は聞こえる。応援される。それもテレビの画面のように映る男の道を傍観するから聞こえるだけなのだ。決して男のその道の上に立ってではない。手を繋ぎ一緒に並んで歩む道にいるならば、そのものに問うことはできよう。しかし、それがありえないからこそ戸惑うのである。


その昔、自転車で本州や四国を回ったことがある。その時感じたのは、何故こんなことをするのだろうかということであった。

自分で思い立ったことではあるが、やめることはいつでも出来た。

しかし、断念などの選択はしなかった。がむしゃらに走ったのである。


不安や余裕を生みたくはない。ただひたむきに走る自分の姿をいつしか思い出すはずだと信じて走った。

若かったからではない。男が完走出来たのは、今の自分を見据えてである。これから先の自分に期待したからである。


そんな自分を楽しませる坂が男は好きであった。



小説そのうちでます-NIARA


『韮』

どう見ても雑草だ。

これが野菜とは誰も思わない。

もうしばらくすると、そう入道雲が盛んに発生し、夕立やせみ時雨が多くなる8月。真夏の外気で体のエネルギーが奪われる時期に、白い麦の粒くらいの大きさのつぼみが膨らむ。

一塊の束の群の中に2つくらいに花が咲くのだ。

どうやらその塊は根に起因するようだ。

葱のように一本一本のびるこのニラも、じつは地中では複雑に根が絡み合ってしまい、もつれた根の間から親戚のように次々草をはやす。

だから、この雑草にも似た草を見る時は決まって群を構成している。


最初はその存在に全く気がつかなかった。

それから、何度も同じところを通るたびに、白い花が目立ち始めた。

気になりそのつぼみを抜き取った時、おどろいた。

臭いがまるで餃子なのだ。

男が知る餃子は、ニンニクの香り以上にニラが際立っている。

翌日は口臭より、体臭自体がニラの臭いを帯びた感じだ。

だから、決まって、土曜日に餃子をこしらえるのである。

健康で、エネルギーの源として男は夏によく食べた。


なるほど、自然では理に適った連鎖として育っていたのである。

野生の野菜は、原種としてあるものもあれば、肥沃ではない土壌で細々と生きながらえるものもある。

この韮はどちらかといえば後者なのであろう。


「あと少し大きくなるまで」と男は丁寧に眺めた。


そして、「今年の暑さは、花ごと細かくして油とニンニクを混ぜ合わせた特性ラー油が必要になる」とあごに垂れる汗をぬぐいながらつぶやいた。


小説そのうちでます-P


『落花生』


この年になるまで良く食べた物がある。

それは三食の合間につまむものだ。

やめられないつまみ、その間食を愛した原因はピーナッツであった。


柿ピーにはじまり、殻つきの落花生、そして時々紅色の内皮だけで覆われたそれ。

面倒になると一粒一粒になったものをほうばる。口いっぱい膨らます姿はリスのようである。こんなことが出来るのは大人になって自分で稼ぎはじめてからであった。

それまでは、父親が友人を招いて宴会を開いた、その残り物を片付ける母の目を盗んで、丁寧にピーナッツだけを拾い集めたり、買い物かごの下側奥底にこっそりと沈ませて買ってもらったものを仕方ないという表情で奪い取ったりしてやっと食べられたのである。


お小遣いが増えた頃は殻付を大事に食べた。

夜に英語辞書を引きながら意味不明な日本語訳を付け加えて宿題と格闘した時に活躍した。

かっかする頭は、その回転がおぼつかないからで、辞書に載る不可解で日常離れした日本語をいかにそれっぽい現実語にするか思案に暮れた結果である。

限界という時の冷却剤がピーナッツであった。

殻を割る作業。中身を掌に乗せる作業。一つを親指と人差し指ではさみ、残りを掌の内側に忍ばせる作業。はさんだそれをクルクルとすべらせ皮をはぐ作業。紅のそれを食べないように、薄黄色の粒を口に放り込む作業。

連続して行われる動作がずれるとそれだけでいらいらとし、冷却するはずが余計にヒートアップする。


男は長年、その動作の失敗を繰り返して余程うまくなった。

口の中で繰り広げられる独特の噛み応えと、その後に広がる甘みと風味だけを十分に味わうようになった。ピーナッツの感触だけに集中するのだ。


気がつくと一袋が残骸の山に変わっていた。人差し指でまだ口に運ばれずに取り残されていないか丹念にさぐる。時々不恰好な奴や、薄皮がしおれすぎて、ピーナッツ自体も細く痩せているのを見つける。味は良くないがそのまま放り込む。



今は脂肪が多いことが男を苦しめたと反省し、余程のことがないかぎり食べるのを控えた。

食べ始めた頃頭蓋骨と頭皮の間にそれこそピーナッツぐらいのしこりが現れ、やがて成人し25をすぎるころとても大きくなった。指で押すとグニグニとグミのように動くしこり。電車の窓に寄りかかって寝ていたときはそれが引っかかって寸での位置でバランスよく顔が止まるほどであった。

痛いわけでも不快なかんじでもないそれは、ピーナッツがもたらした愛しき相棒なのである。


男はそう自分に言い聞かせている。


小説そのうちでます


『トウモロコシ』


近所に無人販売所がある。そこに朝取れたてのトウモロコシが置いてあった。所々色が違うのは虫のせいだ。だからこそうまい。皮がはいであるのはすぐに調理できるようにと店の人が気遣った親切心のあらわれだ。


焼くもよし、茹でるもよし、取れたての1時間ぐらいであれば生でだってよい。


歯の隙間にかじった後で実の汁がなくなり薄く皮だけになった一粒が挟まる。

あるいは一粒一粒、核のような白く三角の実が奥歯に詰まる。

そんなことに頓着せず無心にかぶりつく。

左から右に口を使い削いでいく。

口の中は甘みと風味で一杯だ。

そのほとんどを飲み込むと、今度は上下に回す。

相当数が歯に挟まる。

だがかまわない。

トウモロコシの甘みを十分に含んだ汁を落としたくはないのだ。

黄色に色づいたそれは既に雑草の根のようにたわいもなくけばだち、白くなった。

その残骸を置くと、男はもう一本と、腕を伸ばした。

今度のは余程大きいものであった。


小説そのうちでます


『夏の夕暮れ』

男は、頭が少しふらつくのを覚えた。

最近増えた気がする。

ぐわんと目が回る。2~3秒したらおさまるのだが、たまに立ちくらみに似た症状も同時に起こる。

血糖値が下がったからだと自分に言い聞かせていた。


思えば事故のリハビリとして書き始めたのである。

自分の記録。

自分自身への問いかけ。


最初はラップを作るための、ネタになるように書きなぐっていた。

ファイルに毎日テーマを決めて書いていたのである。

脳を使う。

細胞を死滅させるだけが能ではない。

最近の研究ではシナプスは再生するといわれている。

「繋いでいこう、文字も生活も神経も」

様々なことに悩む彼がいる。

その悩みを分析し払いのけようとする時、それが何かに乗り移る。

苦悩の代わりになって別の美という普遍なものへと変わっていく。

悩みが多い者は、どこかで仕立てている、そんな宿命を負っているんだろう。

作品を作るという代償は悲しみや辛さなのだ。

今日の夕日は悩みの中を生きた証。

明日も生きたいと願いながら、また一つ美を綴っていった。


小説そのうちでます-せみのぬけがら


『油蝉の抜け殻』


脱皮というのであろうか。少し違和感のある表現だ。

カニや蛇やトカゲ。そうした類のものはより大きなものになるためにきつくなった服を脱ぎ捨てるというもの。

そういう主旨が見て取れるが、セミの場合には蝶のさなぎから出てくるのと同様の主旨がある。

大きくなるというのではなく変化を遂げるということだ。

全く形が異なるもの。


男は下町は葛飾区出身だった。

いわゆる心郷(ふるさと)がそこである。

そして思い出したことがあった。

小学生の夏の盛り。宿題も程ほどに、虫取り網を持って外に出た。

木々が多く残るそこはセミの恰好の住処である。

ニイニイゼミ、ハルゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクホウシが毎年出る。残念ながら、平地なのでヒグラシはいない。

それでも虫取り網の柄を更に継ぎ足して長く伸ばしたものを使い、あちらこちらの木からセミを捕まえていた。

専ら胸元が大きく張りあがったオスだけだ。

メスはすぐに逃がすのである。


1時間もすると大分林からセミの声が消えた。代わりに、おびただしい数のそれが虫かごの中にひしめいていた。

もう良いだろうと自宅に帰る男は、得意げな顔をしていた。

何をすると言うのであろうか。


麦茶を飲み干すと、自分の部屋に入った。クーラーがよく効いていて一気に汗がひく。

そしてカーテンを閉めた。電気もつけないその部屋は、ひっそりとした夏以外の空間であった。

そして、一気に虫かごを開け放った。

セミはけたたましい声をあげて一斉に飛ぶ。

あるものは天上に、またあるものはカーテンに。散り散りににげたのである。

男はカセットを開けて空のテープを差し込んだ。

約20分部屋から出たのである。


部屋の中では様々な鳴き声が響いていた。セミの鳴き声。ただそれを自分の物にしたくてこのようなことをしたのだった。



あれから大人になり、里山に暮らす男は、ヒグラシの声をきき、アブラゼミの抜け殻をみておもった。

やはり、ヒグラシが好きだと。


脱皮はしていない。殻も破ってはいない。人の心の成長とは、所詮変わりえない部分があるのだと今更ながら感じたのである。


小説そのうちでます-ナナフシモドキ

『ナナフシモドキ』


子育てに関して他の親とは明らかに違う部分がある。

絵や音楽、何かを自分で表現しようとする時、決して指示を出さないようにする。そこには基本などという文法めいた話はいらない。

好きにやれば良いのである。

その子が持つ感性は完成されていない。これからなのである。

何かを感じ取った。心が動いたからそう表現した。

それで良いのである。

心の動きをうまく表現できないからといって手助けをするのは、正しいと思い込みそう成長を遂げた人の文脈にその子供をつれてこさせるようなものなのである。


きゅうりがある。

自然に伸びたきゅうりは理由があって曲がる。しかし農家は、出荷する時の合理性とスーパーで並べられた時の適合性と、更には消費者が料理する時の便利性を思いそうした曲者を除外してしまう。

農家という立場からみた適宜はやがて真っ直ぐなきゅうりを作る方法をも生むのである。

別にそれが悪いわけではない。そうした方が良い場合もある。

ただ、男はそのきゅうり自体が好きなのである。曲がったものは曲がったままが良いのである。


子供の感性も曲がったなら曲がったままで良いのである。適宜を加える理由はなんなのだろうか?

画一的な感性で何を期待するのか。期待する人間とは何を根拠にそうさせたいのか。

もし、自分が信じて、そのまま育った感性がそのままではやはりダメだということになるなら、そこからまた学べば良いのである。

絵が下手だなぁと感じたら、上手になる基本をそこから学べばよいのである。

楽譜が読めない、書けないと思ったら、その時からやればいい。


先にそうしたことにとらわれれば、とらわれている間は、少なからず自分の感性ではなくなる。既成のあるいはそれを導いてくれた人の感性に乗っているという事実はぬぐいされないのである。


だから、子供はもどきで良いのだ。やっているふり、かいているふり、真似しているふり。ふりをわざわざ丁寧に教えたら、コピーになってしまう。なんとなくというアバウトさがなければ子供の膨らむ思考が縮めらててしまうではないか


男は感性を磨く間は都合で去勢するなということをナナフシモドキをみながら思った。

この不可解な生き物。蟷螂か?バッタか?それとも枝か?そんな風に見た上で、自然界という表現者が作った個性的な作品を眺めた。


小説そのうちでます-現場


『事故のこと』


一昨年、2009年8月4日午後7時頃

会社から帰る男は、いつものように愛車の白いロードレースタイプの自転車をこいでいた。信号で待っていたときである。

ふと、5年前に起こした自転車事故のことが思い出された。

いわゆるフラッシュバックである。

夜の道を同じように自転車に乗って帰るその日に事故を起こしたのである。

急な坂道で街灯も無い田舎道。自分の自転車は派手で大げさなくらいのライトをつけていた。カーブを曲がり更に加速する自転車。

そしてライトに反射したものを男は見た。

とろとろと登ってくる自転車である。

相手は無灯火、しかも左右に蛇行していた。

ブレーキをかけやり過ごそうとするが、男の自転車以外に明かりもなくどう滑らせれば良いか的確な判断が難しい。

相手も気がついたようだ。

男の体が左に傾くと相手も左、今度は右にとすると、あわせたように右に移動する。

そして、とうとうブレーキが間に合わず相手とぶつかった。

その拍子に男は自転車から飛び出されてしまった。

鎖骨の骨折。相手は無傷であった。

苦い経験をしたものである。

その状況を思い返してしまった信号待ちで、すぐに頭を振った。

もう思い出すまい。いや、坂は気をつけよう。

そんなことを考えてペダルをこいだ。


しばらく行くといつも通るゆっくりとした下り坂が待ち構えていた。

タイヤがすべりだす。かなりの勢いをつけながら進む。

半分を過ぎる頃、ブレーキをゆっくりとかけた。

後は惰性で平坦な道をと考えたのである。

しかしそのブレーキをかけたとき、ハンドルがぐらつくような気がした。

そして、平らな道の上にある小さな段差を前輪が通過した瞬間である。

前かがみに持っていたハンドルが落ちたのである。

視界が下に下がった。

見えていた景色が一段も二段も急に下がって写ったのである。

ブレーキすらかけられないまま、男は前のめりに頭から転がった。

左側の腰でバウンドしながら前回転。

側溝の縁に頭を打ち付けて体が止まる。

激痛が走ったのは頭を抑え飛ばされたメガネを拾ったときであった。


予知夢。男はすぐに今さっきみた過去の事故のことを思い出した。

そして、この転倒事故。男は押さえていた掌を目の前に持ってきた。

文字にするのも恐ろしい・・・救急車を何とか呼んだ。自宅にも電話した。


恐怖の瞬間からもうすぐ1年である。


小説そのうちでます-花火


『花火』

どこでも今では目にする花火。

大きな大会はいうまでもないが、地域のコミュニティーで行われる花火大会も意外と面白い。

最近の花火はさまざまな工夫がされていて、打ち上げものも本格的なものがある。

それなりに高い位置まで花火の玉が上がる。一つ一つなどちまちま打ち上げるものではない。それは、それ自体にお金や労力をかけたふさわしい会でやればよい。

乾いた音をたてて、勢いよく連続して上がると空に花開いた。

子供の目でも十分楽しめる火の粉の花だ。

また、打ち上げられた。

それを見る瞳は夏の蒸し暑い夜を忘れさせて、代わりにかけがえのない美しい思い出を写した。


男は今年も夢心地の夏に浸たることが出来た。


そんな夏が好きだ。今の夏、昔の夏。いつでも暑い、とことん暑いほうがいい。

こんな素敵な時が流れてくるのなら。

汗を流す水風呂につかり、明日も楽しもうじゃないかと子供の頭に水をかけてあげた。