小説そのうちでます-ナナフシモドキ

『ナナフシモドキ』


子育てに関して他の親とは明らかに違う部分がある。

絵や音楽、何かを自分で表現しようとする時、決して指示を出さないようにする。そこには基本などという文法めいた話はいらない。

好きにやれば良いのである。

その子が持つ感性は完成されていない。これからなのである。

何かを感じ取った。心が動いたからそう表現した。

それで良いのである。

心の動きをうまく表現できないからといって手助けをするのは、正しいと思い込みそう成長を遂げた人の文脈にその子供をつれてこさせるようなものなのである。


きゅうりがある。

自然に伸びたきゅうりは理由があって曲がる。しかし農家は、出荷する時の合理性とスーパーで並べられた時の適合性と、更には消費者が料理する時の便利性を思いそうした曲者を除外してしまう。

農家という立場からみた適宜はやがて真っ直ぐなきゅうりを作る方法をも生むのである。

別にそれが悪いわけではない。そうした方が良い場合もある。

ただ、男はそのきゅうり自体が好きなのである。曲がったものは曲がったままが良いのである。


子供の感性も曲がったなら曲がったままで良いのである。適宜を加える理由はなんなのだろうか?

画一的な感性で何を期待するのか。期待する人間とは何を根拠にそうさせたいのか。

もし、自分が信じて、そのまま育った感性がそのままではやはりダメだということになるなら、そこからまた学べば良いのである。

絵が下手だなぁと感じたら、上手になる基本をそこから学べばよいのである。

楽譜が読めない、書けないと思ったら、その時からやればいい。


先にそうしたことにとらわれれば、とらわれている間は、少なからず自分の感性ではなくなる。既成のあるいはそれを導いてくれた人の感性に乗っているという事実はぬぐいされないのである。


だから、子供はもどきで良いのだ。やっているふり、かいているふり、真似しているふり。ふりをわざわざ丁寧に教えたら、コピーになってしまう。なんとなくというアバウトさがなければ子供の膨らむ思考が縮めらててしまうではないか


男は感性を磨く間は都合で去勢するなということをナナフシモドキをみながら思った。

この不可解な生き物。蟷螂か?バッタか?それとも枝か?そんな風に見た上で、自然界という表現者が作った個性的な作品を眺めた。