二十九

美しい音色だ。
隙間風の雑音の上に丁寧に雅楽を奏で直すことでこの部屋に澄んだ時をもたらす。
それは、波立つ湖面に凪ぎを広がるように心の落ち着きを取り戻した。また、指揮者がタクトを振りかざした時のようなある種の緊張感をもともなった。
橙は唇を横に引き息を溜めた。
細く長いそれが、笛の穴をくぐり音となって生まれ変わる。
高い音は指に操られて自由な音階へと変化する。
音楽という幾何学的な色彩が目を閉じる利二の脳裏に見えた。
枯れた葉がゆっくりと舞い落ちて、その残像が見せる孤線のような、あるいは、岩に打ちつける白波が弾けて、小間送りが作る放物線のような、時に静かに時に激しい音の連続を橙は奏でた。
太古の倭人が山神海神を宥め崇めたこの笛の音を神の一人であろう目の前の女が吹く。
利二には、本来こうした業が自分達も知りえない、元々の姿だったのではないだろうかと思えたのである。
やがて、笛の音に呼応するように、利二のいる地面がビリビリという振動を伴って揺れはじめた。
肉眼でもわかる。
時々、うねるような、まるで小船に乗って大海原に浮かんだような感覚がした。
明らかに何かが変わる。
バスに乗るシュウも車内が揺さぶられる度に、利二の語りの中で夢現のまま同じ感覚を味わっていた。
あの、家の中に入った時から、現在に至るまで続いている笛の効果に護られて、利二と橙が繰り広げた世界の中に魂ごと同化させられていたのである。
シュウは話しの続きを、遠くはなれたこの車内で聞いているのであった。
バスの中は彼と運転手以外はいなかった。
それ故に雑音に邪魔されず夢の中に留まることができた。
そして、薄暗い宵の口が一層不可思議な現象へといざなっていったのであった。
笛を吹くのをやめた橙がすっと立ち上がり、利二に告げる。
「目を閉じていてくださいな」
利二は言われるがままじっと目を閉じ耳を澄ませた。
橙は傷をかばうようにして腕を上げた。
そして、自身が何であるかを象徴する、因縁の印を作り切ったのである。
目を瞑る利二もシュウもその様子をまぶたの裏側から感じ取っていた。
両親指を上に向け右手の指を包むようにして組む。
外縛の印を作るやすかさずもう一つの真言を唱えた。
「オン シラ バッタ ニリ ウン ソワカ」
今度は両手が開かれた。力を込めて左手を胸の辺りに隙間を作りつつ折り曲げた。
そして余った右手を左手の内側に向けて拳が突かれる恰好を作ったのである。
利二は驚いた。
(これは・・・ダ、ダ、ダキニ天では)
橙は今度は利二の心の中の言葉が聞こえたか聞こえまいかなど構わず真言を発した。
「オン ダキニ サハハラキャティ ソワカ」
(やはり・・・顔に似合わず・・・)
「ふ・・・いうよねぇ」
彼女のはにかむ様子を境にこの敷地に異様な空気が広がった。
ぼんやりと、霞のような雲が彼女の前に漂い始めた。
霧や湯気ではない。粒子がもっと細長く厚みのあるものに変わったもので、そこに人影が見え始めたのである。
何者かがその雲の中で横たわっていた。
「オン マカ キャラ ヤ ソワカ」
(何故にその真言を?・・・まさか!)
「人間は同じ顔をしたものが世の中に三人いるといいます。というより、そういう風に神が創ったのですから」
「性格や性質は違う、異なった環境や文化、風習ゆえに相違となって、個性となってその人の人格を形成するでしょう。でも、本質は同じものであるの」
利二は目を閉じたまま聞き入っていた。
「目の前のお方もそう。それぞれの人格を持ったものが、その自分の宿命に身を投じて、生きてきた。二つの命が重なり合ったの。残す一人を待ち続けて今は深い眠りについている」
(ドッペルゲンガー?)
「そう、多くの研究者は同時に三人が集まるということは不吉なことと位置づけたわ。でも実際にはそうではないの。魂の融合が新しい未来を作るということなのよ」
「そして、このお方こそ、それを可能にする・・・」
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二十八

橙を車から抱え出した利二は辺りを見渡し横になれる場所を探した。
廃墟とは言いながらも、部屋らしき格好はとどめ、また床はまだ十分に認められる。
井草はささくれ立ち、所々穴が開き朽ちてはいる。それでも何畳もの畳がそのままの状態で残っている部屋が見えた。
また、埃とシミで汚れながらも深紅の色合いの絨毯がかつての活気を現している部屋もあった。
(人の手から離れたとして、十年やそこいらか)
首を伸ばし隅々を見渡す。
(しかし、こんなボロでは丸見えですぐに見つかってしまうのでは)
心の中で、そう呟くと突然橙がしゃべりだした。
「そう、十五年も使ってないわ。でも大丈夫、知り合いの持ち物だから、不法侵入にはならないから。それに、奴はもう来ない」
利二は思わず彼女の顔を見た。
まだ幾分青白い顔表のまま目を閉じていた。
さっき見せた勇ましい姿はそこにはなく、ただの、か弱い女性の姿を見るばかりであった。
(読心術というやつか?)
橙は怪訝な顔で自分を見つめる利二に少しだけ口許を緩めて見せた。
幾つかの部屋を物色した後、埃と煤で汚れた床板が張られ、それでも小綺麗に見える場所に橙を連れていった。
土間の広がりをみせるそこは炊事などをする場所なのだろう、壊れた竈らしき窪みの中に薪の燃えカスなどが蜘蛛の巣とともに見えた。
そのすぐ上を這う水道管は元から取り外されているようでパイプの切断された一部のみが頼りなくぶら下がっていた。
利二は思った。
(ここも昔は盛んに単織物や染め物を作っていたのであろう。政府が余計な政策を強いたばかりに・・・)
「意外と正しい見方ができるのね」
またである。橙が利二の思いに答えたのだ。
「人はみな都合主義でしか現世を駆け回ることが出来ないものだから。昨日まで喝采し応援していたとて、船頭が変わってしまえば全くの逆。今日は受け入れられないというものよ」
その答えに、利二は不思議と驚かなかった。
橙の様子を見ずに、代わりにこう告げた。
「伝統あるもの、それは人が学んでできた結晶。我々はその思いを紡いでいかせたい。その連鎖が数珠のように形となって残る」
利二は優しい顔つきで天井を眺めた。
「そこには都合などという欲張った考えなど入り込む隙はないんだ」
真っ黒に煤けたその梁や屋根裏をしげしげとたどると更に口を開いた。
「あなたは、かつての英雄の生き残りですね。いや、神であるならば残るという表現は失礼な言い回しでしょう。何も言わずとも今日あったことを鑑みれば説明がつくというものです」
橙は利二の視線に応えるかのように、優しい笑みをまた作った。
否定も肯定もしないその様子を見ても、利二は詰め寄ることは決してしなかった。むしろ満足であった。
竜という伝説で神話の世界の生き物が目の前にあらわれた事、そして、自分が憧憬し、あまねくもとめていた神がこうして目の前にいるという事実。
それを自分のために、捨て身になって助けようとした事実に深い尊敬の念を抱いていたのであった。
黙ったまま二人は琵琶湖に向かい、吹く風の強さに乗せてゆっくりと息をつむいだ。
互いの息づかいだけが時間を気にせず響く。
「橙さん・・・今度は私が、私があなたを助ける番です」
筒をそっと取り出すと橙は利二に開けてほしいと言った。
中からは、見たこともない古めかしい横笛がきれいな絹の敷物の中から出てきた。
それを大事そうに手に取るや、利二は不思議な感情にかられた。
「何とも骨董なもんだ・・・それに・・・えもいわれぬ・・・」
(心の奥底で震える、躍動はなぜなのだ?)
利二の戸惑いを感じる橙はその笛を口元に持ってくるように指示してから奇妙なことを口にした。
「今から監視小屋を建てるわ。そして、あのお方に報告しなくては」
「あのお方?」
「ふふふ、黄泉を護りし、いざないの古国を譲る我らの主へ・・・」
「何をいいたいのだ?」
「もう一つあるわ。あなたは自分と同じ人を見たことがありますか?」
「・・・」
突拍子もないことを口にする橙に利二はただ、黙って見ているしかなかった。聞くしかなかった。
体をようやく起こしつつ、橙は壁にもたれかけながら利二の目を見つめた。
「この場所は近江を見渡す古くからの監視小屋だったの。もう何世紀も前から姿を変えてしまってはいるけど」
「もう一度その小屋を復活させて、目覚めさせた竜が他の一族を連れて海に潜ってしまわぬように監視しなければならないの」
「もし、ではもし、あの黒竜が、あるいは他の竜が集まったとしたら?」
「・・・その霊力により、それは恐ろしい時代の到来になるわ」
「なんですと!」
「それを阻止するために、力を使うというわけ」
「力?人間にそのようなことが出来るとでも?あの滝つぼで私ですら何も出来なかったのにか?」
「あのお方は違うわ」
利二はその話の中身が徐々に明かされることへの興奮が隠せなかった。

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二十七


シュウはバスの中にいた。何かに導かれるように虚ろな眼差しで一段高くなった、一番後の端の席に腰かけていた。

利二の問い掛けにも応えずすうっと立ち上がり、家の、玄関の木戸を跨いでからこうしている間中、全くの無表情を作ったままであったのだ。

車窓の景色は灰色の雲におおわれ、山の裾辺りにわずかな夕焼けが生まれていた。

眩しさなど全く気にしない様子で外を見つめていた。

夕日を遮る民家が多くなる。その国道を通る中で、ときおり覗かせるその夕焼けは次第に紫がかったそれへと変わっていく。

まるで山賊でも現れるのではとおもわれる様相を見せた麓にさしかかっても、シュウは瞳をただ湖がある辺りに向けるばかりであった。

大きな窪みにバスのタイヤがとられた。上下に弾んだ車内でシュウの意識が飛んだ。

レコードの針がずれて元あった溝に戻るがごとく、利二の話の中に再び入ったのである。

「彼女は腕を怪我した。ひどいものであったが、動じずわしをかばったんだ」

黒龍は歪みの狭間に分け入ったのである。

どうやったのかなど到底わからない。あの橙でさえまさかと侮っていたほど唐突な事であったのだ。

滴り落ちる鮮血など気にも止めず彼女は竜の行方を追った。

「このままではだめだわ。ここから出るのよ。その前にあなたの分身をつくる」

橙は黒龍が大きく空を旋回している隙に利二の髪の毛を数本抜き取って掌にのせた。

震える腕。

顔はやや青ざめたようにさえ見えた。

ハタリと垂れた前髪に鋭い眼光を覗かせ、まじないのような動作をつくった。

直ぐ傍にいる利二でさえも聞き取れないほどの声で何やら呪文を唱えた。

その後に手の上に息を吹き掛けたのである。

やがて掌から漂い落ちるその毛から蒸気のようなものが吹き出した。そしてその煙の中から人影らしきものが現れたのであった。

「いざ、この迷宮を、その形果てるまで、疾走せい」

橙はそういってその影に、疑似生命ともいおうか、動く命を宿らせそれに指図したのだ。

そしてすぐに、利二に再び杖を握らせこの世界を脱出したのである。

竜はまんまと橙の策にかかった。利二の影を追うべく狭間の中を翻弄したのである。

影が尋常ならざる速さでその空間を駆け巡る。それをどこまでも追いかける黒龍の姿に安堵した橙は滝壺の前で崩れてしまったのだ。

「わたしは彼女の肩をとり下山したんだ。山深い場所とはいえすぐに道に出るはずなのにその時ばかりは道のりが長く果てしなく感じたもんさ。後ろを振り返り黒龍の追随に怯えた。草木が騒いだり小枝を踏み鳴らす音がする度に立ち止まった」

ひたすら道を急ぎついに駐車場にたどり着いた。

止めてあった軽自動車のドアを開けると橙をいたわるようにして窮屈な後部座席に寝かせた。

エンジンをかけ、そそくさと逃げるようにその場から離れた。

どこをどう走ったか等忘れるほど無我夢中に加速させる利二に橙は時おり苦しそうな呻き声を立てつつ話しかけた。

「近江・・・」

「どうした?」

「八幡は琵琶湖の北、萩の寺へ・・・うっ」

そういって意識を失ってしまった。

「何!琵琶湖か、琵琶湖の萩の寺だと」

利二は慌てながら記憶をたどった。

「萩の寺といえば確か神照寺」


バスは暗闇が広がる林の中に入っていく。

シュウの記憶は利二の話と何者かの語りかけの間を行ったりきたりした。

「坊やこっち・・・こっちよ・・・さぁ・・・」

例の金属の擦れる高い音が、彼を余計に朦朧とさせた。

すると、前に聞いた男の声がその催眠作用をかき消した。

「だめだ、眠ってはだめだ。誘われてはいけない。近づくな……絶対に」

利二が橙を起こす声がした。

「着いたぞ。神照寺だ、萩の寺だよ」

橙は薄目を開けて本堂から漂う線香の香りをかいだ。

「あぁぁぁ、懐かしい。そこの傍に祠があるの。扉を開けて中から筒をとりだし・・・うっ」

「わかった、わかった。無理にしゃべるな。祠だな、筒だな。よし、取ってくる」

車を勢い良く降りて寺の敷地内を探った。程なく彼女が行ったように社が、稲荷の鮮やかな社が見つかった。

そこに祠が鎮座し扉が小さいながらも重々しく閉ざされていた。

一礼をし、利二はその扉を開けると中に確かに筒が置かれていた。

急ぎ車の中で横たわる橙に持っていった。

「さぁ筒だ、これを・・・」

橙は今度は再び車を走らせて欲しいと訴えた。

「ああ、わかった。どこへ行けばいい」

「この近くに廃墟があるの。私はもう大丈夫、あと少し我慢すれば楽になるから」

「死んではならん、死んでは。絶対に死なせはせん」

「ふふふ、あんなに業突く張っていた人が・・・うっ」

利二は指示された場所を探した。確かに言われたような廃墟があった。

そこは、昔の何かの工場のようで壁も崩れ、屋根もほとんど残っていないような無惨な建物であった。


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二十六

この滝はかつての落水、緩やかに蛇行し滑らかに水を落とすそれなどではなかった。
まるで、女性の曲線美を思わせるような岩肌をスルスルと這う優しい感じなどではない。

利二はこの滝が以前と今とどれほど異なっていたのか、直接見たわけではない故しらなかった。それでも、外観の検討はおおよそついていたのである。
善女竜を語ることから鑑みる、柔らかい肉体美を堪能せしめる、あるいは、充足感のような、触れ合いから感じとれるような感覚を想像することで、嘗ての様子を思い描くことができたのである。
イメージから期待する、その一部を垣間見てもなお、目の前の滝は水の固まりを容赦なく流れ落としている。荒々しい落水だ。
利二が見る滝はあの忌まわしい大災害がもたらした自然の傷跡であった。
大きく張り出した岩がその重みに耐えかね途中から落ち、ツルツルとした表面からゴツゴツと、のこぎりの刀のように鋭く尖った部位を所々露出させていた。
そして、確かにこの外観だからこそよほど適合するであろう黒竜が、目の前で眈々と機会を窺っているのだ。
「私が合図したらこの杖を握りなさい。そのまま絶対に離さないこと、いいわね」
シュウは橙の不思議な行動と不思議な能力の話に圧倒されていた。
古の神や信仰に明るいといった学術的な類いの話では当になくなっていると悟った。
そして、次の言葉、橙が開く扉によって偶然のそれが必然のパンドラの開錠であることを知るのであった。
「命を加護する狭間に入るわよ」
「なんと?」
「いいから息を止めて。三界三有!」
シュウはもちろん理解出来なかった。
それは神仏に疎いからだけではない。超常現象などこれだけ科学が発達した現代ではあり得ないと否定していたからである。
それ故に、平成の天孫降臨も非現実的であるとその事実を心のどこかで排斥していたのだ。
「わしは信じられない世界におった」
話をし話を聞く者共の目が見つめ合う。双方の瞳はあたかも橙が導き入れた世界を見ているような眼差しに変わっていたのである。

目の前には少し前と変わらぬ滝が流れている。
木々や岩、湿気によって作られた苔に、淀みに溜まる落ち葉でさえ先程と違わない。
ただ不思議とヒンヤリとした空気が体に被さるようなものを感じとった。

「わたしはすぐに違和感を覚えた。音、音だよ。あの世界には流れても流れても響くことのない静寂しかなかったのさ」
無音の空間に押し入った橙は利二の目の辺りに指を差し出した。クルリと輪を描くとまるで小さな覗き窓のような歪みが現れ、やがて空間の一部がくり貫かれていった。
「見なさい。やつはもうこの世界には入れないわ。同時に私たちもここからは出られない」
確かに竜はその滝上に黒い影を浮かび上がらせてはいる。だがそれはその窓から覗く場合に限っていた。少し目の位置をずらせばたちまち滝の落ちる様子があるばかりなのであった。
「どういう事だ?それに、ここはいったい?」利二は窓と外を交互に見比べながら現実的な見解を求めた。
三界三有・・・死者が天国と地獄、あるいは輪廻を繰り返すまでの待機場所、その死者の行き先が相応しいかどうかの審判を下すまでの拘留地といわれる。
「あなた逹人間が死んだ後に必ず訪れる場所」
「では、私は死んだのか?」
「言ったでしょう、あなたは死ぬべきではないって」
「では一体・・・本当にこうした世界があろうなどとは、全く想像ができん」
「よくみて、あなたの今まで観てきた、その知識とやらで。あなた達人間はそうした検索が自慢だったのでしょう?もっとも異端児といわれたあなたなら、解りきっていたことじゃなくて?」
解説など到底できない、反論すらできない。自分の中で処理をする愚かさをまじまじと見せつけられた彼にはもはや橙に歯向かえる道理などないのである。
「あちらの世界もこちらの世界もどちらも存在するの。見るだけに頼る人間の感覚では解らないわ。いいえ、わかろうとしてもただ苦しくって気が触れてしまうことだわ」
利二は橙の口元と瞳を交互にみつめ、時おり窓枠へ横目を流した。真剣な彼女の話とこの現実を受け入れようと少しずつ気持ちを落ち着かせた。
「事実なの、これもね。あなたがそれを望んだ」
一方竜は忽然と消えた慇懃な不審者を探すように滝の中を上下に行ったり来たりしていた。
そして、何かを悟ったごとく、利二が覗く小窓に体をターンさせたのである。
蛇や魚の鱗以上にくっきりとしたその輪郭が浮き上がり、古代魚のようなさびれた色彩の中に、緑と紺のまざったような毒毒しいエナメルの質感が深い、肉質の奥底までに広がっているのがわかった。
角度によってはその名の通り黒々しく色めき立ってさえいた。
突然顔がこちらを見るように映ったのである。
頭頂部あたりから伸びる二本の角は船艇の受信アンテナのように幾重にも折れ曲がり、濁った血を思わせる茶褐色の光沢を放っていた。
そして顔である。
「忘れはせん。あの精気を吸わんとするしなだれた口。頬の肉と顎から垂れ下がる厚みのある白髭のせいで余計にそう見えた」
「更に、どこに隠れようとも嗅ぎ付けんばかりに広がった鼻腔は長い触手のような鬢を器用に動かしつつ細く長い息を繰り返していたんだ。目、そして目は白目などない」
「ただ漆黒の無機質な硝子玉のように冷たく光り、見る者の背筋を氷つかせるようにしか感じなかったんだ」
橙の顔がこわばった。
「ちっ、感ずかれたわ。まさかとは思うけど、まさかとはー」
黒龍の目が角の色のように輝き始める。橙の言葉と同時に利二は緊張した。
「来るわ!」
物凄い風圧を感じた。何かを切り裂く音がした。
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二十五


「橙の忠告は嘘だと思ったんだ。はったりとな。だからそれからも構わず調べ続けた。最初は確かに気にはしておったが、一年も過ぎればそんなことは全く気にならなくなったもんさ」
そう言って後ろの書棚からいくつかのノートを取り出した。
ノートを開くとびっしりと書き綴られた独特の字体がカビ臭いにおいを伴って見えた。
半ば日記の役目を持っているのか、日付毎に割り振られているようで○年○月という見出しから下にかきなぐられていた。
所々赤い文字やら挿し絵やらが点在しているのが見てとれる。
事あるごとに利二は注釈しそのノートの中身を説明した。
だがシュウには専門過ぎることばかりで話の半分が解らなかった。
「あったあった、ここだ、ここ」
二冊目を広げるや思い出したように目的の頁を見開いたのである。
「奈良は竜鎮の滝に向かいて暫し座禅を組み、徐に書物を取り出すこと十数分。我、野太い声をもちて、竜神の真言を滝壺へ放たんとす。すなわち、これ神界からの言霊を聴かんがための極意なり」
「時刻にして半日、いよいよ身体の疲れ著しく、一息と思うにいたりて目を開けるが後に、滝壺の白く泡立ちたる、その巻き返しの中に何やら怪しげなる光り一つ、仄かに輝かん部位を認める」
「禅を崩さず我固唾を飲んでしばし見つめるが、光はそこから動くでもなく消えるでもなくただ、ポツンと明かりを放つばかりである」
「我思うところあり、竜の印を作りて今一度真言を発す。それに反応するがごとく光り大きく揺れるように輝く。我興奮のあまり更に真言を連称す。光りみるみる目映さを伴いとうとう滝壺より浮かび上がり、そのまま水流に逆らいて遡上するに至る」
「我、恐ろしさにおののき印を解きその場にて腰砕けし体をようやく支え、まばゆい光りの筋を追う」
まるで今其処でみたかのような臨場感を醸し出した様子にシュウは興奮した。そうしながら集中していたのである。
「すると、後ろに立っておった」
顔をあげた利二はシュウの目を見つめてそう告げた。
「橙さん、ですか」
「うむ、前に会ったときとかわらぬ出で立ちで顔をこわばらせていた。何も言わずに彼女はすぐ私の腕を取り後ろ側に引いたんだ。私は彼女に身を任せるだけで精一杯じゃったよ」
利二は茶を急須に入れ直した。
例の心地よい風に乗って新しい茶葉の香りがシュウの鼻の上に残った。
外は日が傾き、鋭い光りから植物を労るような影を作るそれへと変わっていた。
「私をかばってくれるのか?」
「言ったでしょう、深入りするなって。この竜はだめよ。起こしてはダメな竜なんだから」
橙はそういうなり、どこに隠していたのか、見たこともないような不思議な形をした杖を取り出した。
神呪看経・・・
利二でもわかるそれを声を張り上げながら発した。
「至真至誠、一心奉祷、神通自在、神力深妙、感応速通、如意随願、決定成就、無上靈法、神道加持、太元元気、玄妙至真、至誠妙諦」
「天地真理観、天地真理観、天地真理観、天地真理観」
一度ばかりでなく何度も繰り返した。
そうするうちに竜の体から発せられる目映い光りは薄らいだ。
まるで憤る主をなだめたような作用を与えたのである。だが、滝の流れに逆らうそれは依然悠々と泳いでいる。むしろ不気味で隙あらばこちらに向かって来るのではないかとさえ感じられた。
それほどの緊張をみせた様子であったのだ。
「動かないで、動いてはだめよ。やられるわ」
「私はもはや逆らう気など無くなっていた。『やられる』という意味が手に取るほど身近に感じたからだ」
橙は杖を握り変えた。
「この竜はね、黒竜。毒を持つ竜神よ」
「まさか、善女竜王を崇めし竜穴堂にそのようなる悪竜が」
利二は震えた。前に言っていた橙の言葉の真意を目の当たりしたからである。
「だから浅はかだと言うのよ。あなたは、丁度山に入った山菜採りみたいなもんよ。たかだか生きている間で、全部を知った気になってキノコをあさる人みたいにね」
そう言いながら杖の先を滝壺へ向けたのである。
「運良く死なない期間があるだけで常に失敗と隣あわせであることには変わらないわ。いってみれば素人と同レベルってわけ」
彼女の後ろから竜の様子を探った。
「この竜はね、招聘された善女竜王神のなきあと、鎮魂の竜王としてこの地を守るために遣わされたいわば門番。開けてはならぬ扉の中には想像だにしないものがあるものよ。そして、知ってしまった先に待つものは」
利二はもはや詮索するまでもなかった。
『死』
確実なるそれは、橙がいなければ回避できないものであった。
「パンドラを守るのは私の務めではないけど、そのパンドラを頑なに守る者からの言伝を私は守りたいだけなの」
「言伝?・・・・一体お主は?」
「今は、この龍をなだめあなたへの報復をやめさせることが必須。神呪看経で交信を試みてるけど、後は向うの出方を見るしかないわ。場合によってはあなたを守れない」
「どうして私を守ろうと?前の話であれば、わし等守るべきに値しないと・・・」
「そうね。そうかもしれないわ。でも、あなたは今死ぬべき人ではないことだけは知っているの」
龍がかすかに動き出す。その中で橙ははっきりと言ったのである。
「あなたには役目があるのよ」

二十四

シュウの利二を見つめる瞳孔が大きくひらいた。
「私が古い文献の痕跡をたどってこの地の羽衣伝説を調べていると、随分と派手な今風のおなごがあらわれた。そして私の傍にやってくるなりこういうたんだ」
「貴方、随分熱心ね。天女の体を舐め回すように調べているじゃない。何かの執着?でなきゃ単にエロオタクかしら」
「いきなりなんだ。それに人を侮辱したものいい。聞き捨てならん」
利二は持っていた天眼鏡を強く握りしめ憤る呼吸を女に浴びせながら更に言葉をだした。
「わたしは自分の名誉などという陳腐な欲のためにこんなことをしているのではない。それに、見ず知らずにこちらの考えなどお構い無く好き勝手に宣われるいわれなどない」
「あら、そうかしら。あなた確か神仏研究の異端児だったわよね?それも、学会ではその知識足るや誰一人としてかなうものがいないとか。そういうのをオタクっていうんじゃない?あっ、死語だったかしら平成語のオタクって。ふふふ」
不適に笑うその顔はあくまでも人を見下しているものであった。
「知りたい、知りたいと思うのは人の性、それが故に過ちも犯すものよ」
「何が言いたい」
口元に唾を溜めながら利二は反発した。
「趣味も度を越すと後戻りがきかないってこと。あなたのしようとしていることは神と人間を隔てている境界に入ることを意味しているのよ。パンドラの箱はご存じよね?正に開けてはならぬ箱をあなたは開けようとしているの」
利二は今ある額の皺の上に、更に深いそれを作り、その険しい顔から、より厳しい視線を投げ掛けながら悠々とした女に向かいこう言った。
「そんな大それた事をしようなどとは思わん。科学がその神秘を、マクロの不思議を追求するがごとく、或いは医学のそのミクロを知り尽くすように私も精神が作り出す念の象徴をただ研究しているにすぎん。人が暮らすその真理を紐解く、それが私のしている事」
話を続けようとする彼に女は首をちょっと振りつつ、割って入った。
「大義名分はこの際いいわ。結局のところ江ノ島に現れた女性や耳に聞こえた声の主が現実であって幻ではなかったことを証明したいだけでしょう?そして、あなたが今の今まで疑問に思っていた水神との関連、それを探しだそうとしている」
まるで全てを見透かしたような口ぶりに利二は不覚にも瞳をドギマギとさせた。それを確認するや女は話を続けた。
「いい?それはね、いきつくところ、人間であるあなたが、知るべきではない世界に踏み入ることを意味しているの。どうやっても結局はそうならざるをえない、必ず行き着く場所よ」
幾重にも刻まれる皺を赤く照らす顔に作った彼を、臆することなく彼女は諫めた。
彼は無論、意味がわからなかった。ただ彼女が今風に見えて適当なことばかりを意見する、そんな人物には到底見えないことだけはわかったのである。
(こやつ相当な曲者・・・まさか・・・)
女は更に続けた。
「神が居る世界に図々しく入り込めばどうなると思う?死者でさえ行くことが許される世界の前に裁きがあるというのに、その資格が無い、しかも人間などという無知で浅はかな、煩悩の固まりが近づいたとしたら?」
利二は躊躇した。それは彼がよく知る報いであるからだ。
「結果は酷いことになるのよ」
何かを隠す。十分な説明がないまでも今していることを止めさせようとしていることは利二にもわかった。その理由が何であるのかを、余計に知りたくなったのである。
(何をかくしておる?)
「こう考えてみなさい。過去に文献がない、あるいは、言い伝えが曖昧でそうした神話じみた話がいくつもある。人は浅はかな考えで『知恵』などと言う無責任な建前をふりかざして、謎に迫った気でいるのよね」
「でもね、それを広めたこと、そもそもの発端が曖昧であること、それはそれなりに意味があるといいたいの。前述が無いのは詳しく知る必要はないからなのよ。だからパンドラの箱は絶対に開けてはならないの」
黙って聞いていた利二は女にこう言い放った。
「随分と都合のいい解釈だな。その言いようは何かを隠しているだけとしか見えんよ。それに文献を書いたのは人間」
「お主の言う浅はかな奴が書いたからこそ言葉が足りないか書き損じかはたまた、推理推測を余儀なくさせる手法、つまり想像を求めさせた過去の人物からのメッセージだとも言えるものよ。物事を一方的にしか見せないことならば記録として残す意味はないではないか?」
今まで面と向かって話をしていた女は急に体を変えて室内の窓側へと歩み寄った。
水分をぬきとった、まるで筆で書きなぐったようなちりぢりでかすれた雲が窓辺から見上げる女の前に広がっていた。
しばらく無言の時が過ぎた。
利二は返事がないことで、やはりといった具合の息を鼻から漏らしたのである。
「人は長く生きると……」
「なんだ?何が言いたいのだ?図星だったようだが」
「小さいわね。私いな……ううん、橙という名前の人間として言わせてもらうのならば、隠すべき物があるのならば、当然見てはならないというわ。それでいいじゃない?」
くるりと向き直り、背を窓辺につけながら利二を見つめた。
「十分な理由だと思うけど、それでは足りないというのよあなたは」
「橙?お前の名か?一体何者なんだ?」
「詳しくは言えないけどね。まぁ忠告はしたわ。災いを招きたくなければ言うことを聞くことね」

そういって女はその部屋からでたのである。そればかりではない。後を追うように利二が部屋を出ると、姿が消えていたのである。
そして、彼の目に、図書館の脇へ小さいながら設置された稲荷の祠が少し熱気を帯びたような淀みゆがんだ空気を少し残したのが見えたのである。

シュウは真剣なまなざしでその話を聞いていた。
更に利二は、二度目に彼女と会いこの地に定住した話をし始めたのである。

二十三

シュウは再び利二の庭に立っていた。今度ばかりは八方塞がりであった。
それだけではない。父の生死がかかっている。
何か手立てはないか湖を探ったが手がかりはおろか、これだけ広大である湖面を監視するすべはない。
ピーターはボンベが持って一時間であれば当に浮上していると話した。それでも見つからなかった。
止むなく、ピーターの指示で舞い戻ったのである。
「どうだった?」
優しく気遣う利二の前でこらえていた涙が流れた。
「見つからないんです」
地安隊や政府捜査省にも連絡した。ピーターが全て手配したのだ。
「お役所はなんと」
「ただ待っていろと。僕はずっと湖岸で待つと言ったんだ」もはや悲壮の顔をみせていた。
「でも、どれ程待つかわからないといわれて帰されたんです」
真っ赤な目で自分の気持ちを訴える、その青年の想いに何か役立つ事は出来まいか、利二はしきりに知恵を絞った。
タンスからタオルを取り出し彼に渡した。
「大丈夫さよ、きっと生きとる。龍神は誰彼構わず命を奪ったりはせんって」
受け取るタオルもそのままに、橙が言っていた言葉の事を思い出した。
この家は不思議と落ち着いた。
古い家屋の趣に慣れているシュウならば至極当然のことであった。だが彼を和ませる理由はそれだけではない。
見たことのない家具や家財道具、そして数々の書物や趣味の用具など本来であれば一つ一つ丁寧に見て確かめるに値するものばかりであった。
そんな珍しい物に囲まれていても、家屋に漂う空気が、庭から、敷地全体から流れ、開け放たれた窓を通してシュウの五感を刺激した。
それが何であるのかははっきりとわからない。
遠い記憶の中に、知っているような、体験したような感覚がシュウの体を落ち着かせた。

涙も、その心をくすぐるような風に誘われて自然と流れたのである。
そして、利二に尋ねた。
「あの、橙さんは?父が潜ったって知っていた、そのことをどうしても聞きたい。なんで、何も言っていないのに潜るなんて言葉が出たのか知りたいんです」
利二はただ黙っていた。
「あの人が何かを知っていて隠しているのは、最初に来た時から分かっています。だから……」
そう言いかけた時、利二は煙草盆を手繰り寄せてその手を止めた。
「どうも癖だ。いかん。煙草は、今日はおしまいだった」
「そうか、知りたいか」
意味あり気な様子を見せた。シュウはようやくタオルで顔をぬぐった。
「彼女はな私の命を救ってくれた恩人だよ」
「時に不意に現れ時に居なくなる。最初にであったのは平成の天孫降臨を研究していた時だった」
閉まっていた埃まみれの日記を紐解くように重い口を開けたのであった。

今から半世紀前、日本を沈没させるほどの自然災害が起こった。東海大地震である。
それは未だかつて経験したことのないものであった。東海地震の誘発は死火山である富士山を蘇らせたのである。そればかりか大いなる天空からの力が落雷となって東京をおそったのだ。
自然の驚異の前に文明と科学はなすすべはなかったのである。人々は逃げ惑いそして多くの命が失われた。
その時である。人々の頭に声が響いた。それは神からの開示であった。一人や二人ではない。ほとんどの人々がその声をとらえたのである。
神はこの災害を止めるには人間が費やしてきた過剰な浪費、地球に与え続けたその資源の摂取をやめることだといった。
世界人口が膨れ上がる当時において抜本的な解決策を余儀なくされた人類の生活圏に於いて地球からの代償は計り知れないものであった。
人々はその声をうたがった。疑いながらも神に頼らざるをえなかった。
やがて地震はおさまり火山の噴火も止んだ。
当に神のちからであった。
「私もその場所に居た一人であったんだ。御殿場より遥か遠い江ノ島まで逃げおおせた私は、目の前に浮遊する天女を見た。神の声が言っていた事は嘘偽りや幻でないとわかったんだよ」
シュウはこれまでに聞かされたどの話より説得力があると感じた。
それは単に臨場感があるというだけではなく、まるで時を違えてそこにいるかのような錯覚に陥っていたのである。
「どんな人だったのですか」
鼻声気味のシュウに利二は穏やかな顔を照らし応えた。
「あれは若い、それでも今のそなたよりかは幾分上ぐらいか、哀愁の漂う瞳に気迫が全身から溢れておった。宙に浮くその天女はあろうことか水を、海水を操り江ノ島のまわりに海の壁をつくっていた」
「昔私の祖父が言っていた水神の神秘の力という言葉の意味を垣間見たような心持ちだった。そして彼女は私を含め手を合わせる人々に頷き空を駈けていった」
利二がいうには、その時から龍に対する信仰心がうまれたのだという。彼女はどんな神であるのかを調べるきっかけにもなった龍の存在が彼の心を突き動かしたのである。
「大学を卒業してすぐに、神仏の研究にはいった。天照をしらべ、インドの神々を紐解き、更には古代ローマの神をも覗いた」
「それでも龍の存在はおぼろげなるものでしかなかった。そして、天部の神々をもう一度調べている時、彼女があらわれたのだ」


まだまだ時間が取れません。約一ヶ月かけて一話ですから・・・
お許しください。

本当、大変です。

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二十二


城の中に大きな足音のような地響きが続く。

「万事うまくいった。ようやく手に入ったぞ」

「来たか、五陰の主」

例のごとく、ずかずかとあらわれ、勝手を知ったように女の傍に座り込んだ。

「コレだコレだ、まぁみてみろ」

家来の一人が両手を主の前へ丁寧に差し出した。

その上に、塊にして椿の実ほどで全く透明な水晶の如く曇りを持たない玉が置かれた。


向きを変えた家来に今度は女が指を近づける。

親指と人差し指ではさみあげ、天上に向けてかざした。

「ほほう。これが何でも適うという、『祈願の露』、『神の雫』か」

瞳が血走った。

口元は震えていた。

女の、女の胸が激しく躍動する。

男も高まる彼女の感情を具に捉えた。

もはやその力を手に入れた如く振舞おうとしているようにさえ見えたのだ。

「よもや止められぬ。我が力によって、世界を再び」

その様子に、主が諫言した。

「待たれ、待たれ。姫には酷だがそのままでは意味がない」

「何を今更、何故妾の邪魔をしようとする」

横槍を入れられることを嫌う女に肝心なこと伝えようと、主は拳を両膝の上に乗せ身を乗り出して伝えた。

「そうではない、早まる出ないというのだ」

女はきつい目をしながらも、男の口元を見た。

隠し事や嘘をつけば、何かいいわけめいた貞操を保とうとする様子が現れるはず。無理に繕えれば、必ずその場所にボロが出る。そう分かっていたのだ。

だが、男は余裕の様子で、表情もおろか態度も何も変わらなかったのである。

「この雫は元来持っていたとされる者の力を借りねば、その効力を得ることは出来ぬ」

女の、玉を見つめるその目がより一層鋭くなった。

「厄介なのがその所有者だ。我ら鬼一族をもってしてもその所在を掴めなかった。残念ながら・・・」

どのような者が持っていたにせよ、現にこうしてここにある以上、自分の意のままにするだけである。そうと言わんばかりの態度を女はみせた。

「世を震え上がらせた酒天童子ともあろう、五陰の主がわからぬと?ふん、その持ち主の正体を恐それたからではあるまいか?借りるなどというシモベめいた言い訳など似合わぬな」

酒天童子は眉間にしわを寄せ女を睨んだ。

「図星か?ふふふん」

女のせせら笑いに憤りを隠せない様子で、それでも少し落ち着きをみせながら伝えた。

「姫、いや、あえて名乗らせてもらうならば、海龍こと、乙姫が、それでも手が出せず、震撼させる程の相手であることは知っておるぞ」

「ほう、面白い。誰だ?釈迦か?ふふふん」

からかいを、この期に及んでまだそうしたことを言わんとしていた。

「大国主神は、天部の生き残り……大黒のものだ」

「何?」


乙姫は遠い過去を探った。記憶の中に仕舞われた、むしろ甦らせたくはない、それほどの苦い仕打ちが彼女の冷静さを打ち消したのである。

「大黒だと」

主は彼女の震え出した肩を見た上で話した。

「世界をも滅ぼしそしてまた世界を造るという大黒、異国ではそのパワーの前に数多の神がひれ伏すという。我ら鬼族は地獄や宴界に住むゆえ聞き伝えにしか解らぬがあの閻魔でさえ屈服するそうではないか」

口許からつばをとばしながら言い放った。

「しかも、乙姫はその未曾有の力の前になすすべもなく財を奪われたと」

「いうな!ええい、いうでない。それ以上、口にすれば例え酒天童子と言えど容赦はせぬ」

乙姫の首元が煌めいた。龍の鱗が浮かび上がったのである。

瞳の中が蛇のような黒目に覆われる。

白い部分が失われた彼女の目におののいた酒天童子は、頭を垂れ陳謝した。

「ここで力を無駄にすることはなかろう。我も刺し違える程愚かでもない。しかも、姫の力を忘れるほどもうろくしてはいない。激鱗を納めてくれたもう」

「ふん、妾が本気にならば刺し違えなどはあり得ん。それは、大黒とて同じことよ」

「まぁよい。お前に頼みがあって呼んだ。この雫はそれが済んだ後ゆっくりと吟味しようではないか」

元の様子にもどる乙姫は、家来にその雫を渡した。

「何かあったか?」

「うるさい狐がおってな。どうも箱を隠したようだ」

「ほう?稲荷か?」

「鋭いな」

「奴のことは、我が同胞から聞いておった。それに、大黒の所在にも一枚噛んでいるようだ」

「ならば話が早い。餌を撒いて欲しい。これは鬼族ではなければなしえぬこと。頼めるか?」

「御意」


城の中が寒々とした霊気が立ち込めた。鬼と龍のひそかな企てがその冷気を立ち上らせたのである。




未完


筆者の身辺の不幸により、執筆活動休止を余儀なくされました。

ようやく展開の部分にさしかかった、この「僕が僕でなくなるとき」はストックがなくなりましたゆえ、今回をもちまして、一旦このまま保留とさせていただきたいとおもいます。

再開はまだメドが立ちませんが、余裕が出来ました際に改めてご報告させていただき、続けてまいりたいと思います。
それまで、今しばらくお待ちいただけたらと思います。
応援してくださいました読者の皆さま、また読んでいただいた方々、本当に申し訳ございません。

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二十一


シュウとピーターの顔が変わったのは低い山並みがきれ視界が広がる中で、湖岸に沿って続く道の、繰り返し現れるカーブの、その最後と思われる箇所に差し掛かった時であった。

「お父さんの車だ」

ピックアップと呼ばれる車の、車高があり後ろ側に長く伸ばした荷台が僅かに錆び付き、泥などで汚れたそれは間違いなく父のものだとわかった。

車から降りたシュウはすぐに運転席を開けた。

「お父さん」

いないことは既に判ってはいた。しかし、期待を、想いを込めるしかなかったのである。

中を調べてみると鍵は不用心についたままである。そして、バッテリーのランプが点滅したままであった。

全くありえない状況に鼓動が自然と早くなった。

ピーターが「来てくれ」というとシュウは更に動揺した。

父の服は荷台の外に脱ぎ捨てられていた。靴も下着もそのままである。

荷台には予備のタンクが積まれ固定されていた。他の機材はみあたらない。

更にピーターは彼の足取りを探った。ダイビングのフィンと同じ模様を写したものが足跡となってその場から絶壁へと続いていたのである。

二人はそこへ進んだ。

足取りが慎重になるシュウは今にも泣き出したい気持ちへと変わっていった。

「とうさ~ん」

何度も何度もそう叫んだ。

そしてとうとう戦慄いた。

「ダイジョウブ、リョウハイキテイルッテ。シヌワケガナイ」ピーターはそういうのがやっとであった。



「姫様、運び屋の消息が判らなくなりました」

うなだれる頭がわずかながら動いた。

「何?役に立たない連中め」

そういうと、あの鋭目を作りすぐさま霊気を伴わせた。

「申し訳ございません。申し訳ございません」

容赦なく家来の一人に浴びせる。

「何卒お慈悲を……」

彼女の力によってまた一つこの世界から抹消させられた。

「この期をどれほど待ったことか。うぬらにはわかるまい。長期に渡る遠島、左遷は単なる追放ではない。厳重な監視すら持たぬこの地の永住は、妾の復活を阻止せんがため。どうにもならぬことを知っての処置」

「だが、あの窓の明かりを眺めるばかりの妾であっも、その羨望は消えぬ」

立ち上がって天窓に腕を伸ばした。

「わかるか、あそこを出るという意味が。この手に力がみなぎる、その喜びを得るためならばどんなことでもしようぞ」

「妾には見える。あの先にある栄光が。欲の限りを尽くす我が楽園の復興がもうすぐ。それをお前達ごときに邪魔されとうないわ」

家来の一人が足早に近づいた。

「まだ、大丈夫です。子息が傍におります」

「ほう、息子がいたか」

女は少し考えて続けた。

「それは面白い。ならば、念を使って操るのみ」

「お待ちください」

「妾に口答えをするつもりか」

「いえ、滅相もございません。ただ……」

「なんだ?いうてみよ」

「どうやら、狐がかぎまわっているといううわさを聞きました」

「出どこはどこからだ」

「はい、京のオニゴからでございます」

「あの三つの稚児の霊か。ならば確かだな」

情報に関してはかなり慎重さをみせていた。

そして、今後のことを告げた。

「そうか。だとしたら狐に餌をやらねばならぬ。我等眷属の同類であれば必ず乗ってくるであろう物をな。主を呼べ。もう帰っておるころだろう」

「ふふふ……あははっは……」

女がようやく笑った。確実な未来を予見した高らかな笑いには余程、余裕を見えていた。 



橙はまた利二に断った。

「ちょっとおひまをもらおうかしら」

「どうした?」

橙の真剣な表情は彼に真意を伝わらせた。

「まさかあの男が来るのか?」

「いえ、彼が来ることは出来ないわ。それよりも恐ろしいものが」

「なんだ?」

「それを調べるために行くのよ。あなたを助けて、そして隠密まがいな生活を送って来た。いつかはこうなると予想してね。それもこれでおしまい」

「帰ってはこれぬか?」

「さあ三人目がいるからそのうち会えるわよ。そんな寂しい顔しないで、大丈夫よ。貴方に危害を加える奴が現れたら、真っ先に駆けつけてあ・げ・る」

家の戸を開けたとき利二は前に橙が作っていた奇妙なポーズをまねて胡座をかいて座った。

「死ぬ出ないぞ橙」


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二十

「ある人を経由して私のところにやってきましてね」
はじめてみたその石は全く化石のように模様が石の表面に見えるだけのものであった。
いわれれば確かに大きな魚や蛇の鱗のようにも見える。あるいは、知らないものならば植物の葉というかもしれないそれは、龍の体に付く側と思われる場所から外側に向け、放射線状に細くこまかな筋をいくつも伸ばしていた。
その中に年輪を思わせる扇の、先程よりも大分はっきりとした線も見えた。
「間違いなく龍のものだよ」
そういうや、自分で集めたという様々な写真や図を持ち出し比較し始めた。
「ナルホドドンナイキモノニモナイモヨウデスネ。デモソレガリュウデアルショウコニハナラナイノデハ?」
ピーターがそういうや利二は決定的な物を金庫から取り出した。
「今から十七年ほど前に奈良県宇陀郡室生村のとある滝で見つけたものだ」
それは明らかにシュウの父が持っていた化石と同じ大きさ、そして模様を作っていた。
生きたものの鱗が包み紙の上で緑と紺のはっきりとしない色彩の上でエナメルのような光沢を煌めかせていた。
まじまじと見つめる二人に彼は信じがたい事実を伝えた。
「その滝で龍に遭ったんだ」
部屋に張り積めた空気がはじめて聞く二人の体を緊張させた。

全てを聞き終えると、シュウは視点を例の鱗に写した。
歳をとれば物事の本質を敷衍的に捉えるものだと父はいっていた。
それは得てして自分の考えの範疇から出ることはない。故に回りから見れば、導き出された結論そのものが随分自分勝手で独りよがりに見えるであろう。また、なるべく自分が意図した結論に近づけようとさえする。それは都合が良いからである。
結果正しさを欠き、科学的にも根拠のないものとなる。
実証の伴わない利ニの話は、シュウには疑うべきことだらけである。だがどこかで父が探していたロマンや神秘への憧憬めいた感覚があったのも事実である。鱗がそれをあらわしていた。
しばらく考え、父が失踪したことの関連を尋ねようとした。

橙はまた眉をもちあげた。
どうやら例の男の息子だと既にわかっていたようである。
そして今までとは異なる態度をみせた。
「琵琶湖にはね、多くの龍が行き来するの。それに住んでいるともいわれているの。理由は日本のへそだからよ。だから無闇にあらしたり汚したりすると祟られるの。まして勝手に湖底に潜るなんてご法度よ。神聖な遺跡を荒らすなと政府ですらいってるんですから」
シュウはまだ何も話してはいない。自分の父がダイバーなど知るはずもない。なのにこの先読みした話振りはどうだと少しうろたえた。
すると利二が煙草盆を手繰り寄せた。
「まぁ、政府が言うのは本当だが。昔と違って環境保護法が定まって以来琵琶湖への立ち入り規制がきびしくなってな」
彼は補足しながらシュウを見た上でまた彼女の方を向いた。
「しかし橙何か知っているのかな。この方の父上がここへ来て何かをしたとか?」
彼女は口をつむんだまま目だけをシュウに向けていた。それはまるで登校時にみたカガチの瞳のようで冷たい視線であった。
しかも、彼の心の片隅に穴を開けて除き見るような鋭さもみえた。
シュウは彼女が声の主なのかと疑った。
『テレパシー』
彼の脳裏を掠めたのはオカルトに詳しい学校にいた例のアメリカ人から聞いた話である。

現実にいる人がその念道力によって発せられる脳波伝達方法のことでった。
最初彼の話はまるで出鱈目のことと思っていた。ただでさえ今回のことで祟りだの蛇だのと根拠のない信じがたい迷信に翻弄されている。
どうしてと悩み何故父なのだと悔しがった。まだ本当のところ確信にいたってはいないが、父はいなくなった。あの声と共に。それは事実で間違いのない現実である。
(今度はSFか?いい加減にしてくれ)
彼は沸々と沸き上がる懐疑心にうんざり気味の気持ちを覆いかぶせた。
だが今まで父親の痕跡が見えなかった中で、手がかりとして唯一何かを知っていると思われる人物に出会ったのである。
ピーターは利二と橙のやり取りをただ見ていた。
彼女は利二が煙草を積めようとするとその手を叩き、こういった。
「知らないわよ。でも状況判断でわかりそうな推理をしただけよ。蛇、龍の遣いに祟られているんでしょう」
鼻で笑うような素振りを見せながら利二に話続けた。
「ということは利ちゃんがされたようにこの海に呼び寄せられて水中に引きずりこませるってことでしょう。別に実際、何か私が見たわけじゃないわよ」
「しかし彼はまだそうとわかったわけではないだろう?」
「あら鱗と関わっているだけでも同じになるんじゃない」
「すると、彼は既に来ていると?」
「知らないわよ」
明らかに何か隠している素振りだ。シュウでもすぐにわかるものであった。第一潜るという言葉がでた理由が伝えられていない。
彼がその疑問を解決しようと座り直した時再び橙が先に話し出した。
「着ているとしたら、龍にゆかりのある湖岸にいっているはずよ。だったらそこへ行ってみてればいいじゃない」
「うむ、そうだな。それはいいかもしれない」
この家の二人に阻まれて、疑問もそのままに地図を渡されてしまった。
数箇所マークされた跡の中に葛籠尾崎という名前を見た。シュウは数ある印の中でこの文字が一番気になった。理由こそ分からないが、すぐにそこへ行くべきだと感じたのだ。
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