二十六

この滝はかつての落水、緩やかに蛇行し滑らかに水を落とすそれなどではなかった。
まるで、女性の曲線美を思わせるような岩肌をスルスルと這う優しい感じなどではない。

利二はこの滝が以前と今とどれほど異なっていたのか、直接見たわけではない故しらなかった。それでも、外観の検討はおおよそついていたのである。
善女竜を語ることから鑑みる、柔らかい肉体美を堪能せしめる、あるいは、充足感のような、触れ合いから感じとれるような感覚を想像することで、嘗ての様子を思い描くことができたのである。
イメージから期待する、その一部を垣間見てもなお、目の前の滝は水の固まりを容赦なく流れ落としている。荒々しい落水だ。
利二が見る滝はあの忌まわしい大災害がもたらした自然の傷跡であった。
大きく張り出した岩がその重みに耐えかね途中から落ち、ツルツルとした表面からゴツゴツと、のこぎりの刀のように鋭く尖った部位を所々露出させていた。
そして、確かにこの外観だからこそよほど適合するであろう黒竜が、目の前で眈々と機会を窺っているのだ。
「私が合図したらこの杖を握りなさい。そのまま絶対に離さないこと、いいわね」
シュウは橙の不思議な行動と不思議な能力の話に圧倒されていた。
古の神や信仰に明るいといった学術的な類いの話では当になくなっていると悟った。
そして、次の言葉、橙が開く扉によって偶然のそれが必然のパンドラの開錠であることを知るのであった。
「命を加護する狭間に入るわよ」
「なんと?」
「いいから息を止めて。三界三有!」
シュウはもちろん理解出来なかった。
それは神仏に疎いからだけではない。超常現象などこれだけ科学が発達した現代ではあり得ないと否定していたからである。
それ故に、平成の天孫降臨も非現実的であるとその事実を心のどこかで排斥していたのだ。
「わしは信じられない世界におった」
話をし話を聞く者共の目が見つめ合う。双方の瞳はあたかも橙が導き入れた世界を見ているような眼差しに変わっていたのである。

目の前には少し前と変わらぬ滝が流れている。
木々や岩、湿気によって作られた苔に、淀みに溜まる落ち葉でさえ先程と違わない。
ただ不思議とヒンヤリとした空気が体に被さるようなものを感じとった。

「わたしはすぐに違和感を覚えた。音、音だよ。あの世界には流れても流れても響くことのない静寂しかなかったのさ」
無音の空間に押し入った橙は利二の目の辺りに指を差し出した。クルリと輪を描くとまるで小さな覗き窓のような歪みが現れ、やがて空間の一部がくり貫かれていった。
「見なさい。やつはもうこの世界には入れないわ。同時に私たちもここからは出られない」
確かに竜はその滝上に黒い影を浮かび上がらせてはいる。だがそれはその窓から覗く場合に限っていた。少し目の位置をずらせばたちまち滝の落ちる様子があるばかりなのであった。
「どういう事だ?それに、ここはいったい?」利二は窓と外を交互に見比べながら現実的な見解を求めた。
三界三有・・・死者が天国と地獄、あるいは輪廻を繰り返すまでの待機場所、その死者の行き先が相応しいかどうかの審判を下すまでの拘留地といわれる。
「あなた逹人間が死んだ後に必ず訪れる場所」
「では、私は死んだのか?」
「言ったでしょう、あなたは死ぬべきではないって」
「では一体・・・本当にこうした世界があろうなどとは、全く想像ができん」
「よくみて、あなたの今まで観てきた、その知識とやらで。あなた達人間はそうした検索が自慢だったのでしょう?もっとも異端児といわれたあなたなら、解りきっていたことじゃなくて?」
解説など到底できない、反論すらできない。自分の中で処理をする愚かさをまじまじと見せつけられた彼にはもはや橙に歯向かえる道理などないのである。
「あちらの世界もこちらの世界もどちらも存在するの。見るだけに頼る人間の感覚では解らないわ。いいえ、わかろうとしてもただ苦しくって気が触れてしまうことだわ」
利二は橙の口元と瞳を交互にみつめ、時おり窓枠へ横目を流した。真剣な彼女の話とこの現実を受け入れようと少しずつ気持ちを落ち着かせた。
「事実なの、これもね。あなたがそれを望んだ」
一方竜は忽然と消えた慇懃な不審者を探すように滝の中を上下に行ったり来たりしていた。
そして、何かを悟ったごとく、利二が覗く小窓に体をターンさせたのである。
蛇や魚の鱗以上にくっきりとしたその輪郭が浮き上がり、古代魚のようなさびれた色彩の中に、緑と紺のまざったような毒毒しいエナメルの質感が深い、肉質の奥底までに広がっているのがわかった。
角度によってはその名の通り黒々しく色めき立ってさえいた。
突然顔がこちらを見るように映ったのである。
頭頂部あたりから伸びる二本の角は船艇の受信アンテナのように幾重にも折れ曲がり、濁った血を思わせる茶褐色の光沢を放っていた。
そして顔である。
「忘れはせん。あの精気を吸わんとするしなだれた口。頬の肉と顎から垂れ下がる厚みのある白髭のせいで余計にそう見えた」
「更に、どこに隠れようとも嗅ぎ付けんばかりに広がった鼻腔は長い触手のような鬢を器用に動かしつつ細く長い息を繰り返していたんだ。目、そして目は白目などない」
「ただ漆黒の無機質な硝子玉のように冷たく光り、見る者の背筋を氷つかせるようにしか感じなかったんだ」
橙の顔がこわばった。
「ちっ、感ずかれたわ。まさかとは思うけど、まさかとはー」
黒龍の目が角の色のように輝き始める。橙の言葉と同時に利二は緊張した。
「来るわ!」
物凄い風圧を感じた。何かを切り裂く音がした。
「うっ」 人気ブログランキングへ にほんブログ村 小説ブログ ホラー・怪奇小説へ
にほんブログ村 小説ブログ SF小説へ