彼は出来るだけ便器に近づこうと車椅子を何度も何度も操作し器用に位置をとっていた。すると、今度は手すりをたぐって片足を地面につけながら立ち上がったのである。
僕自身それをみておどろいてしまった。このフロアーで立ち上がっている患者など終ぞみたことがなかったからだ。そして、痛そうな素振りも声すら出さずにやってのけたのだ。
今の僕の位置ではここまでしか垣間見ることは出来なかったが、何故にドアを閉めないのかなどまったく気にしなかった。感心だけが僕の左足の装置と、右足の包帯の上で交差していた。
三十六
「いくら魔界の刺客といえども、私が作る魔法陣を跨ぐことは出来まい」
ガタガタと震える建物中の窓枠からその殺気を読み取る橙。店では地震でも起こっているのかとやんややんやと騒ぐ声がする。
「この臭気、覚えがあるわ。その昔、四天王の二人、多聞天と広目天とがそれぞれの力を鼓舞しあう場に遭遇した私が、嫌な臭いだとおもって思わず顔をしかめた時のもの、まるで同じ」
「広目天が波動を放つと一体の邪鬼がつぶれた。その度にたちこめる、そう、生き物が腐っている臭い・・・なるほど、極臭鬼、これはプータナね」
一瞬扉のガタツキが弱まった。
「ナーガ(那伽)はわざわざ雑魚を送り込んだって訳、私も甘く見られたものね。それにしても何故こうも広目天とかかわりがある輩が?」
頭をひねっても答えは容易に出ない。もどかしさの中でこの後の処置を同時に考えていた。
店主がふすまを勢い良く開け放ち血相を変えて入って来た。
「お嬢ちゃん、何だか外の様子が変です。嵐でもおきるかってくらい風が強いんでさ。車呼んであげるから、ここは帰った方がいいかもしれんよ」
橙はやさしい顔をしたまま店主に「大丈夫ですよ、たとえ空がバリバリ言っても、地響きがしてもこの店にいる方が安全だから」と返した。
すると、彼女が言ったように本当に空からカミナリを落としたようなすさまじい音がこだました。テーブルのグラスさえ小刻みに揺れていた。
「ひぁぁ。こえぇ、こえぇ。こんな都会でついぞこんな音はきいたこたぁねえぞ。田舎にいたとき以上のもんだ」
腰をぬかした店主は座敷にそのまましりもちをついて倒れた。
そしてすぐに、二度目の現象が現れたのである。
「来るわよ、みんなに何かに掴まるように言って!」
橙はひろしの上に覆いかぶさるようにして備えた。
今度は大きな地震とも言えるほどの揺れだ。
床が突き上げられたような、強烈な縦揺れが起こったのである。
客の悲鳴と同時に戸棚から食器が落ち、テーブルにあった飲食物は床にばら撒かれた。
店主は座敷の上にうつぶせになりながら目を瞑っていた。
店の柱も上下し天井板がいくつも落ちてきた。
「うわぁぁ、こりゃだめだ、こりゃだめだ」
「おちつきなさい、これ以上のことは無いんだから、少しの辛抱でしょう」
橙の一喝も効き目が無く、うろたえるばかりである。
先ほどまで高いびきの仲間たちも流石に慌てふためき、目をあけて状況を把握しようとした。
「こりゃ一体なんだ!地震じゃないか」
枕にしていた座布団をわしづかみにすると頭に当てて店主のすぐそばにやってきた。
「にげましょう!早く店が潰れちゃいますよ」
「そうだそうだ、うちらも下敷きになってしまう」
揺れる床板から靴も履かずに外へ急ごうとする客陣に橙は声を張り上げたのである。
「外に出てはだめよ!今は家が持たないように見える揺れだけど、この中のほうがまったく安全なの!だから外へ出ては駄目」
「ない言ってやがんだい、こっちは命がかかってるんだ。こんな状況で大丈夫もへったくれもねぇだろう。危ないなんて誰だってみりゃわかるじゃねぇぁ」
「酒飲んでるやつだってこのくらいの危機感はあらぁ」
そういって何人かはとうとう外へ出てしまったのである。
静まった。今までの揺れがうそのようにおさまり、静寂が戻ったのである。
店主はまだぶるぶる震えていた。
「ばかが・・・」
橙はすぐに、外に出たものが大黒の身代わりに連れ去られたと悟った。それゆえに揺さぶりを終わらせたのだと。
「さて、大黒、これからが見ものよ。少なくても数日は平穏無事でもね、必ず第二波、第三派がくる」
心の中でつぶやく彼女は顔をあげて店主にすぐに店の残りの客の安否を確かめるように指示した。
震える彼は声を裏返しながら「わ、わかりまし、し、た。す、すみませんでした」とうろたえたまま返事をして部屋を出た。
彼女は大黒の体をきれいに整えて仰向けのまま寝かせた。
「まったく、こんな地震でも平気なんだから、大したお方よ」
彼の前にすっと立ち上がるや、印を切り始めたのである。
「オン シラ バッタ ニリ ウン ソワカ」
二つ目の印。
「オン ダキニ サハハラキャティ ソワカ」
静かに真言を唱えるや最後に彼の暗号を解き放ったのである。
「オン マカ キャラ ヤ ソワカ・・・三界三有」
三十五
寝顔を見つめながら昔を想う橙の心にはっきりと彼の姿が浮き上がった。
母の前を何度も何度も行きかう。必死にボールを蹴り追いかけてはつま先を使いはじいた。
得意な彼の表情は、その母の視線を意識してのこと。
橙の心にあどけなさの十分な大の姿が焼きついていったのである。
「あの頃も無邪気、今だって平和に世俗を観察しているのだから、やっぱりっていう感じね、ふふふ」
彼はそんな彼女の言葉に反応したのか大きないびきの中で、時折口ごもったようなしぐさを見せていた。
「でもね、大、危険が迫っているの。例の飛行機を落としたやつら…」
切れ長の彼女の目が大きく見開いた。そして、つぶやいたのだ。
「今度はあなたを狙ってくる」
こんな路地裏に風など舞い込んではこないだろうに、店の戸ががたがたと揺れた。
店主は洗い物の手を止めるや、顔をそのほうに向けた。
「はて?珍しいな、もう秋風か?」
橙はそんなことに頓着せず、ただじっと大を見つめていた。
店の扉を開ける店主は、客に「寒いからしめてよ」としかられていた。
彼女はそっと彼の耳元に顔を近づけ、これからのことを話し出したのである。
「あなたも気がついていることでしょう。あなたの母、彼女は奇跡的にその事故で生存こそ出来た。確かにたったの一瞬、一時だけれどね。でも、その一時のおかげで私は彼女の思いをしることができたの。」
彼女のいう飛行機事故。
大と再開したその前の年に起きた事故である。
羽田発ジャンボ旅客機が韓国に向けて空路を南西に移してからしばらく、日本海が見えたあたりでそれは起こった。
回収されたフライトレコーダーによると、自動操縦での飛行にもかかわらず大きく旋回しようと機体が傾き始めたという。急な不具合にパイロットは冷静に対処すべく手動操縦に切り替えたがまったく機体の操縦がきかなくなった。
そして突然エンジンが停止したというのである。
上空200キロメートルにあった機体は急激に高度を下げ始めたのである。その時今まで生じていた不具合がうそのように元に戻り、機体も安定を取り戻していった。機長も副操縦士も、その誰もが奇跡に歓喜した。
「これで飛べる」
そうつぶやいた瞬間、尾翼のまさにその上から何かが絡みつくかのようにじりじりと進行方向の逆側に引っ張ったのである。
更に、上空でありえない停止を余儀なくされた機体はその尾翼を残し二つに折れ海へまっさかさまに落ちていったのである。
「メーデー、メーデー何かが…何かが…機体を・・・うゎぁぁぁぁっ!」
落ち行く機体はところどころで爆発を起こし海の藻屑となってしまった。
当然生存者はゼロ。乗客420名は絶命であったと報じられた。ただ独り、体にキズ一つ無く日本海の沖合いで漂う彼女以外は。
大の母のことであった。
12時間後彼女の体は石川県のとある大学病院の集中治療室にあった。微かだが命の兆しが見えたのである。
「おちゆく体の中から魂が、彼女の魂が抜け出した。そして何かの力が彼女の体を加護したのね」
「彼女の声がはっきり聞こえたわ。近江の海のほとりに立っていた私に彼女は『すぐに来て』といった」
「その顔は昔の活躍で見せた荘厳さはなかった。今にも朽ち果てそうな、か細いもの…」
そして、すぐさま石川に向かった橙は薄れ行く彼女の意識の中に入っていった。
店主が気を利かせて彼女に薄手のタオルケットを持って客室にはいってきた。
彼は大のすぐ横で顔を並べていた彼女のことをちらりと見て「ちょっと冷えてきたから」とそれを手渡した。
橙は座りなおし、「ありがとう」というなり、グラスをとって一気に飲み干した。
「わたしも酔ったみたい。もういいわ。少し横になるから」
かえり際にグラスは引き取られ、客室の扉が閉まった。
「あの飛行機には管夫妻もいたそうよ。そればかりではないみたい。あまりニュースにはならなかったけど四国でベテランの雲水が崖から転落事故をおこしていたり、同じ時期に伊豆の神社が全焼したことも、すべて絡んでいるって」
もらったタオルケットを肩からかけてひざを抱えながらそうつぶやいた橙は鋭い目を大に向けた。
「母を、母達をやった奴等がくる」
「とても危険な、そして、今後の未来を破壊する那伽……」
「我ら天部の片割れを抹殺。狙いは判らない……。でもこれだけはわかる。今度は大が、あなたが危ないの…」
先ほどより大分大きく店の扉が震えた。
「私が護るから」