三十六


「いくら魔界の刺客といえども、私が作る魔法陣を跨ぐことは出来まい」
ガタガタと震える建物中の窓枠からその殺気を読み取る橙。店では地震でも起こっているのかとやんややんやと騒ぐ声がする。
「この臭気、覚えがあるわ。その昔、四天王の二人、多聞天と広目天とがそれぞれの力を鼓舞しあう場に遭遇した私が、嫌な臭いだとおもって思わず顔をしかめた時のもの、まるで同じ」
「広目天が波動を放つと一体の邪鬼がつぶれた。その度にたちこめる、そう、生き物が腐っている臭い・・・なるほど、極臭鬼、これはプータナね」
一瞬扉のガタツキが弱まった。
「ナーガ(那伽)はわざわざ雑魚を送り込んだって訳、私も甘く見られたものね。それにしても何故こうも広目天とかかわりがある輩が?」
頭をひねっても答えは容易に出ない。もどかしさの中でこの後の処置を同時に考えていた。
店主がふすまを勢い良く開け放ち血相を変えて入って来た。
「お嬢ちゃん、何だか外の様子が変です。嵐でもおきるかってくらい風が強いんでさ。車呼んであげるから、ここは帰った方がいいかもしれんよ」
橙はやさしい顔をしたまま店主に「大丈夫ですよ、たとえ空がバリバリ言っても、地響きがしてもこの店にいる方が安全だから」と返した。
すると、彼女が言ったように本当に空からカミナリを落としたようなすさまじい音がこだました。テーブルのグラスさえ小刻みに揺れていた。
「ひぁぁ。こえぇ、こえぇ。こんな都会でついぞこんな音はきいたこたぁねえぞ。田舎にいたとき以上のもんだ」
腰をぬかした店主は座敷にそのまましりもちをついて倒れた。
そしてすぐに、二度目の現象が現れたのである。
「来るわよ、みんなに何かに掴まるように言って!」
橙はひろしの上に覆いかぶさるようにして備えた。
今度は大きな地震とも言えるほどの揺れだ。
床が突き上げられたような、強烈な縦揺れが起こったのである。
客の悲鳴と同時に戸棚から食器が落ち、テーブルにあった飲食物は床にばら撒かれた。
店主は座敷の上にうつぶせになりながら目を瞑っていた。
店の柱も上下し天井板がいくつも落ちてきた。
「うわぁぁ、こりゃだめだ、こりゃだめだ」
「おちつきなさい、これ以上のことは無いんだから、少しの辛抱でしょう」
橙の一喝も効き目が無く、うろたえるばかりである。
先ほどまで高いびきの仲間たちも流石に慌てふためき、目をあけて状況を把握しようとした。
「こりゃ一体なんだ!地震じゃないか」
枕にしていた座布団をわしづかみにすると頭に当てて店主のすぐそばにやってきた。
「にげましょう!早く店が潰れちゃいますよ」
「そうだそうだ、うちらも下敷きになってしまう」
揺れる床板から靴も履かずに外へ急ごうとする客陣に橙は声を張り上げたのである。
「外に出てはだめよ!今は家が持たないように見える揺れだけど、この中のほうがまったく安全なの!だから外へ出ては駄目」
「ない言ってやがんだい、こっちは命がかかってるんだ。こんな状況で大丈夫もへったくれもねぇだろう。危ないなんて誰だってみりゃわかるじゃねぇぁ」
「酒飲んでるやつだってこのくらいの危機感はあらぁ」
そういって何人かはとうとう外へ出てしまったのである。
静まった。今までの揺れがうそのようにおさまり、静寂が戻ったのである。
店主はまだぶるぶる震えていた。
「ばかが・・・」
橙はすぐに、外に出たものが大黒の身代わりに連れ去られたと悟った。それゆえに揺さぶりを終わらせたのだと。
「さて、大黒、これからが見ものよ。少なくても数日は平穏無事でもね、必ず第二波、第三派がくる」
心の中でつぶやく彼女は顔をあげて店主にすぐに店の残りの客の安否を確かめるように指示した。
震える彼は声を裏返しながら「わ、わかりまし、し、た。す、すみませんでした」とうろたえたまま返事をして部屋を出た。

彼女は大黒の体をきれいに整えて仰向けのまま寝かせた。
「まったく、こんな地震でも平気なんだから、大したお方よ」
彼の前にすっと立ち上がるや、印を切り始めたのである。
「オン シラ バッタ ニリ ウン ソワカ」
二つ目の印。
「オン ダキニ サハハラキャティ ソワカ」
静かに真言を唱えるや最後に彼の暗号を解き放ったのである。
「オン マカ キャラ ヤ ソワカ・・・三界三有」