二十四

シュウの利二を見つめる瞳孔が大きくひらいた。
「私が古い文献の痕跡をたどってこの地の羽衣伝説を調べていると、随分と派手な今風のおなごがあらわれた。そして私の傍にやってくるなりこういうたんだ」
「貴方、随分熱心ね。天女の体を舐め回すように調べているじゃない。何かの執着?でなきゃ単にエロオタクかしら」
「いきなりなんだ。それに人を侮辱したものいい。聞き捨てならん」
利二は持っていた天眼鏡を強く握りしめ憤る呼吸を女に浴びせながら更に言葉をだした。
「わたしは自分の名誉などという陳腐な欲のためにこんなことをしているのではない。それに、見ず知らずにこちらの考えなどお構い無く好き勝手に宣われるいわれなどない」
「あら、そうかしら。あなた確か神仏研究の異端児だったわよね?それも、学会ではその知識足るや誰一人としてかなうものがいないとか。そういうのをオタクっていうんじゃない?あっ、死語だったかしら平成語のオタクって。ふふふ」
不適に笑うその顔はあくまでも人を見下しているものであった。
「知りたい、知りたいと思うのは人の性、それが故に過ちも犯すものよ」
「何が言いたい」
口元に唾を溜めながら利二は反発した。
「趣味も度を越すと後戻りがきかないってこと。あなたのしようとしていることは神と人間を隔てている境界に入ることを意味しているのよ。パンドラの箱はご存じよね?正に開けてはならぬ箱をあなたは開けようとしているの」
利二は今ある額の皺の上に、更に深いそれを作り、その険しい顔から、より厳しい視線を投げ掛けながら悠々とした女に向かいこう言った。
「そんな大それた事をしようなどとは思わん。科学がその神秘を、マクロの不思議を追求するがごとく、或いは医学のそのミクロを知り尽くすように私も精神が作り出す念の象徴をただ研究しているにすぎん。人が暮らすその真理を紐解く、それが私のしている事」
話を続けようとする彼に女は首をちょっと振りつつ、割って入った。
「大義名分はこの際いいわ。結局のところ江ノ島に現れた女性や耳に聞こえた声の主が現実であって幻ではなかったことを証明したいだけでしょう?そして、あなたが今の今まで疑問に思っていた水神との関連、それを探しだそうとしている」
まるで全てを見透かしたような口ぶりに利二は不覚にも瞳をドギマギとさせた。それを確認するや女は話を続けた。
「いい?それはね、いきつくところ、人間であるあなたが、知るべきではない世界に踏み入ることを意味しているの。どうやっても結局はそうならざるをえない、必ず行き着く場所よ」
幾重にも刻まれる皺を赤く照らす顔に作った彼を、臆することなく彼女は諫めた。
彼は無論、意味がわからなかった。ただ彼女が今風に見えて適当なことばかりを意見する、そんな人物には到底見えないことだけはわかったのである。
(こやつ相当な曲者・・・まさか・・・)
女は更に続けた。
「神が居る世界に図々しく入り込めばどうなると思う?死者でさえ行くことが許される世界の前に裁きがあるというのに、その資格が無い、しかも人間などという無知で浅はかな、煩悩の固まりが近づいたとしたら?」
利二は躊躇した。それは彼がよく知る報いであるからだ。
「結果は酷いことになるのよ」
何かを隠す。十分な説明がないまでも今していることを止めさせようとしていることは利二にもわかった。その理由が何であるのかを、余計に知りたくなったのである。
(何をかくしておる?)
「こう考えてみなさい。過去に文献がない、あるいは、言い伝えが曖昧でそうした神話じみた話がいくつもある。人は浅はかな考えで『知恵』などと言う無責任な建前をふりかざして、謎に迫った気でいるのよね」
「でもね、それを広めたこと、そもそもの発端が曖昧であること、それはそれなりに意味があるといいたいの。前述が無いのは詳しく知る必要はないからなのよ。だからパンドラの箱は絶対に開けてはならないの」
黙って聞いていた利二は女にこう言い放った。
「随分と都合のいい解釈だな。その言いようは何かを隠しているだけとしか見えんよ。それに文献を書いたのは人間」
「お主の言う浅はかな奴が書いたからこそ言葉が足りないか書き損じかはたまた、推理推測を余儀なくさせる手法、つまり想像を求めさせた過去の人物からのメッセージだとも言えるものよ。物事を一方的にしか見せないことならば記録として残す意味はないではないか?」
今まで面と向かって話をしていた女は急に体を変えて室内の窓側へと歩み寄った。
水分をぬきとった、まるで筆で書きなぐったようなちりぢりでかすれた雲が窓辺から見上げる女の前に広がっていた。
しばらく無言の時が過ぎた。
利二は返事がないことで、やはりといった具合の息を鼻から漏らしたのである。
「人は長く生きると……」
「なんだ?何が言いたいのだ?図星だったようだが」
「小さいわね。私いな……ううん、橙という名前の人間として言わせてもらうのならば、隠すべき物があるのならば、当然見てはならないというわ。それでいいじゃない?」
くるりと向き直り、背を窓辺につけながら利二を見つめた。
「十分な理由だと思うけど、それでは足りないというのよあなたは」
「橙?お前の名か?一体何者なんだ?」
「詳しくは言えないけどね。まぁ忠告はしたわ。災いを招きたくなければ言うことを聞くことね」

そういって女はその部屋からでたのである。そればかりではない。後を追うように利二が部屋を出ると、姿が消えていたのである。
そして、彼の目に、図書館の脇へ小さいながら設置された稲荷の祠が少し熱気を帯びたような淀みゆがんだ空気を少し残したのが見えたのである。

シュウは真剣なまなざしでその話を聞いていた。
更に利二は、二度目に彼女と会いこの地に定住した話をし始めたのである。