二十五


「橙の忠告は嘘だと思ったんだ。はったりとな。だからそれからも構わず調べ続けた。最初は確かに気にはしておったが、一年も過ぎればそんなことは全く気にならなくなったもんさ」
そう言って後ろの書棚からいくつかのノートを取り出した。
ノートを開くとびっしりと書き綴られた独特の字体がカビ臭いにおいを伴って見えた。
半ば日記の役目を持っているのか、日付毎に割り振られているようで○年○月という見出しから下にかきなぐられていた。
所々赤い文字やら挿し絵やらが点在しているのが見てとれる。
事あるごとに利二は注釈しそのノートの中身を説明した。
だがシュウには専門過ぎることばかりで話の半分が解らなかった。
「あったあった、ここだ、ここ」
二冊目を広げるや思い出したように目的の頁を見開いたのである。
「奈良は竜鎮の滝に向かいて暫し座禅を組み、徐に書物を取り出すこと十数分。我、野太い声をもちて、竜神の真言を滝壺へ放たんとす。すなわち、これ神界からの言霊を聴かんがための極意なり」
「時刻にして半日、いよいよ身体の疲れ著しく、一息と思うにいたりて目を開けるが後に、滝壺の白く泡立ちたる、その巻き返しの中に何やら怪しげなる光り一つ、仄かに輝かん部位を認める」
「禅を崩さず我固唾を飲んでしばし見つめるが、光はそこから動くでもなく消えるでもなくただ、ポツンと明かりを放つばかりである」
「我思うところあり、竜の印を作りて今一度真言を発す。それに反応するがごとく光り大きく揺れるように輝く。我興奮のあまり更に真言を連称す。光りみるみる目映さを伴いとうとう滝壺より浮かび上がり、そのまま水流に逆らいて遡上するに至る」
「我、恐ろしさにおののき印を解きその場にて腰砕けし体をようやく支え、まばゆい光りの筋を追う」
まるで今其処でみたかのような臨場感を醸し出した様子にシュウは興奮した。そうしながら集中していたのである。
「すると、後ろに立っておった」
顔をあげた利二はシュウの目を見つめてそう告げた。
「橙さん、ですか」
「うむ、前に会ったときとかわらぬ出で立ちで顔をこわばらせていた。何も言わずに彼女はすぐ私の腕を取り後ろ側に引いたんだ。私は彼女に身を任せるだけで精一杯じゃったよ」
利二は茶を急須に入れ直した。
例の心地よい風に乗って新しい茶葉の香りがシュウの鼻の上に残った。
外は日が傾き、鋭い光りから植物を労るような影を作るそれへと変わっていた。
「私をかばってくれるのか?」
「言ったでしょう、深入りするなって。この竜はだめよ。起こしてはダメな竜なんだから」
橙はそういうなり、どこに隠していたのか、見たこともないような不思議な形をした杖を取り出した。
神呪看経・・・
利二でもわかるそれを声を張り上げながら発した。
「至真至誠、一心奉祷、神通自在、神力深妙、感応速通、如意随願、決定成就、無上靈法、神道加持、太元元気、玄妙至真、至誠妙諦」
「天地真理観、天地真理観、天地真理観、天地真理観」
一度ばかりでなく何度も繰り返した。
そうするうちに竜の体から発せられる目映い光りは薄らいだ。
まるで憤る主をなだめたような作用を与えたのである。だが、滝の流れに逆らうそれは依然悠々と泳いでいる。むしろ不気味で隙あらばこちらに向かって来るのではないかとさえ感じられた。
それほどの緊張をみせた様子であったのだ。
「動かないで、動いてはだめよ。やられるわ」
「私はもはや逆らう気など無くなっていた。『やられる』という意味が手に取るほど身近に感じたからだ」
橙は杖を握り変えた。
「この竜はね、黒竜。毒を持つ竜神よ」
「まさか、善女竜王を崇めし竜穴堂にそのようなる悪竜が」
利二は震えた。前に言っていた橙の言葉の真意を目の当たりしたからである。
「だから浅はかだと言うのよ。あなたは、丁度山に入った山菜採りみたいなもんよ。たかだか生きている間で、全部を知った気になってキノコをあさる人みたいにね」
そう言いながら杖の先を滝壺へ向けたのである。
「運良く死なない期間があるだけで常に失敗と隣あわせであることには変わらないわ。いってみれば素人と同レベルってわけ」
彼女の後ろから竜の様子を探った。
「この竜はね、招聘された善女竜王神のなきあと、鎮魂の竜王としてこの地を守るために遣わされたいわば門番。開けてはならぬ扉の中には想像だにしないものがあるものよ。そして、知ってしまった先に待つものは」
利二はもはや詮索するまでもなかった。
『死』
確実なるそれは、橙がいなければ回避できないものであった。
「パンドラを守るのは私の務めではないけど、そのパンドラを頑なに守る者からの言伝を私は守りたいだけなの」
「言伝?・・・・一体お主は?」
「今は、この龍をなだめあなたへの報復をやめさせることが必須。神呪看経で交信を試みてるけど、後は向うの出方を見るしかないわ。場合によってはあなたを守れない」
「どうして私を守ろうと?前の話であれば、わし等守るべきに値しないと・・・」
「そうね。そうかもしれないわ。でも、あなたは今死ぬべき人ではないことだけは知っているの」
龍がかすかに動き出す。その中で橙ははっきりと言ったのである。
「あなたには役目があるのよ」