二十九

美しい音色だ。
隙間風の雑音の上に丁寧に雅楽を奏で直すことでこの部屋に澄んだ時をもたらす。
それは、波立つ湖面に凪ぎを広がるように心の落ち着きを取り戻した。また、指揮者がタクトを振りかざした時のようなある種の緊張感をもともなった。
橙は唇を横に引き息を溜めた。
細く長いそれが、笛の穴をくぐり音となって生まれ変わる。
高い音は指に操られて自由な音階へと変化する。
音楽という幾何学的な色彩が目を閉じる利二の脳裏に見えた。
枯れた葉がゆっくりと舞い落ちて、その残像が見せる孤線のような、あるいは、岩に打ちつける白波が弾けて、小間送りが作る放物線のような、時に静かに時に激しい音の連続を橙は奏でた。
太古の倭人が山神海神を宥め崇めたこの笛の音を神の一人であろう目の前の女が吹く。
利二には、本来こうした業が自分達も知りえない、元々の姿だったのではないだろうかと思えたのである。
やがて、笛の音に呼応するように、利二のいる地面がビリビリという振動を伴って揺れはじめた。
肉眼でもわかる。
時々、うねるような、まるで小船に乗って大海原に浮かんだような感覚がした。
明らかに何かが変わる。
バスに乗るシュウも車内が揺さぶられる度に、利二の語りの中で夢現のまま同じ感覚を味わっていた。
あの、家の中に入った時から、現在に至るまで続いている笛の効果に護られて、利二と橙が繰り広げた世界の中に魂ごと同化させられていたのである。
シュウは話しの続きを、遠くはなれたこの車内で聞いているのであった。
バスの中は彼と運転手以外はいなかった。
それ故に雑音に邪魔されず夢の中に留まることができた。
そして、薄暗い宵の口が一層不可思議な現象へといざなっていったのであった。
笛を吹くのをやめた橙がすっと立ち上がり、利二に告げる。
「目を閉じていてくださいな」
利二は言われるがままじっと目を閉じ耳を澄ませた。
橙は傷をかばうようにして腕を上げた。
そして、自身が何であるかを象徴する、因縁の印を作り切ったのである。
目を瞑る利二もシュウもその様子をまぶたの裏側から感じ取っていた。
両親指を上に向け右手の指を包むようにして組む。
外縛の印を作るやすかさずもう一つの真言を唱えた。
「オン シラ バッタ ニリ ウン ソワカ」
今度は両手が開かれた。力を込めて左手を胸の辺りに隙間を作りつつ折り曲げた。
そして余った右手を左手の内側に向けて拳が突かれる恰好を作ったのである。
利二は驚いた。
(これは・・・ダ、ダ、ダキニ天では)
橙は今度は利二の心の中の言葉が聞こえたか聞こえまいかなど構わず真言を発した。
「オン ダキニ サハハラキャティ ソワカ」
(やはり・・・顔に似合わず・・・)
「ふ・・・いうよねぇ」
彼女のはにかむ様子を境にこの敷地に異様な空気が広がった。
ぼんやりと、霞のような雲が彼女の前に漂い始めた。
霧や湯気ではない。粒子がもっと細長く厚みのあるものに変わったもので、そこに人影が見え始めたのである。
何者かがその雲の中で横たわっていた。
「オン マカ キャラ ヤ ソワカ」
(何故にその真言を?・・・まさか!)
「人間は同じ顔をしたものが世の中に三人いるといいます。というより、そういう風に神が創ったのですから」
「性格や性質は違う、異なった環境や文化、風習ゆえに相違となって、個性となってその人の人格を形成するでしょう。でも、本質は同じものであるの」
利二は目を閉じたまま聞き入っていた。
「目の前のお方もそう。それぞれの人格を持ったものが、その自分の宿命に身を投じて、生きてきた。二つの命が重なり合ったの。残す一人を待ち続けて今は深い眠りについている」
(ドッペルゲンガー?)
「そう、多くの研究者は同時に三人が集まるということは不吉なことと位置づけたわ。でも実際にはそうではないの。魂の融合が新しい未来を作るということなのよ」
「そして、このお方こそ、それを可能にする・・・」
人気ブログランキングへ にほんブログ村 小説ブログ ホラー・怪奇小説へ
にほんブログ村 小説ブログ SF小説へ