二十八
橙を車から抱え出した利二は辺りを見渡し横になれる場所を探した。
廃墟とは言いながらも、部屋らしき格好はとどめ、また床はまだ十分に認められる。
井草はささくれ立ち、所々穴が開き朽ちてはいる。それでも何畳もの畳がそのままの状態で残っている部屋が見えた。
また、埃とシミで汚れながらも深紅の色合いの絨毯がかつての活気を現している部屋もあった。
(人の手から離れたとして、十年やそこいらか)
首を伸ばし隅々を見渡す。
(しかし、こんなボロでは丸見えですぐに見つかってしまうのでは)
心の中で、そう呟くと突然橙がしゃべりだした。
「そう、十五年も使ってないわ。でも大丈夫、知り合いの持ち物だから、不法侵入にはならないから。それに、奴はもう来ない」
利二は思わず彼女の顔を見た。
まだ幾分青白い顔表のまま目を閉じていた。
さっき見せた勇ましい姿はそこにはなく、ただの、か弱い女性の姿を見るばかりであった。
(読心術というやつか?)
橙は怪訝な顔で自分を見つめる利二に少しだけ口許を緩めて見せた。
幾つかの部屋を物色した後、埃と煤で汚れた床板が張られ、それでも小綺麗に見える場所に橙を連れていった。
土間の広がりをみせるそこは炊事などをする場所なのだろう、壊れた竈らしき窪みの中に薪の燃えカスなどが蜘蛛の巣とともに見えた。
そのすぐ上を這う水道管は元から取り外されているようでパイプの切断された一部のみが頼りなくぶら下がっていた。
利二は思った。
(ここも昔は盛んに単織物や染め物を作っていたのであろう。政府が余計な政策を強いたばかりに・・・)
「意外と正しい見方ができるのね」
またである。橙が利二の思いに答えたのだ。
「人はみな都合主義でしか現世を駆け回ることが出来ないものだから。昨日まで喝采し応援していたとて、船頭が変わってしまえば全くの逆。今日は受け入れられないというものよ」
その答えに、利二は不思議と驚かなかった。
橙の様子を見ずに、代わりにこう告げた。
「伝統あるもの、それは人が学んでできた結晶。我々はその思いを紡いでいかせたい。その連鎖が数珠のように形となって残る」
利二は優しい顔つきで天井を眺めた。
「そこには都合などという欲張った考えなど入り込む隙はないんだ」
真っ黒に煤けたその梁や屋根裏をしげしげとたどると更に口を開いた。
「あなたは、かつての英雄の生き残りですね。いや、神であるならば残るという表現は失礼な言い回しでしょう。何も言わずとも今日あったことを鑑みれば説明がつくというものです」
橙は利二の視線に応えるかのように、優しい笑みをまた作った。
否定も肯定もしないその様子を見ても、利二は詰め寄ることは決してしなかった。むしろ満足であった。
竜という伝説で神話の世界の生き物が目の前にあらわれた事、そして、自分が憧憬し、あまねくもとめていた神がこうして目の前にいるという事実。
それを自分のために、捨て身になって助けようとした事実に深い尊敬の念を抱いていたのであった。
黙ったまま二人は琵琶湖に向かい、吹く風の強さに乗せてゆっくりと息をつむいだ。
互いの息づかいだけが時間を気にせず響く。
「橙さん・・・今度は私が、私があなたを助ける番です」
筒をそっと取り出すと橙は利二に開けてほしいと言った。
中からは、見たこともない古めかしい横笛がきれいな絹の敷物の中から出てきた。
それを大事そうに手に取るや、利二は不思議な感情にかられた。
「何とも骨董なもんだ・・・それに・・・えもいわれぬ・・・」
(心の奥底で震える、躍動はなぜなのだ?)
利二の戸惑いを感じる橙はその笛を口元に持ってくるように指示してから奇妙なことを口にした。
「今から監視小屋を建てるわ。そして、あのお方に報告しなくては」
「あのお方?」
「ふふふ、黄泉を護りし、いざないの古国を譲る我らの主へ・・・」
「何をいいたいのだ?」
「もう一つあるわ。あなたは自分と同じ人を見たことがありますか?」
「・・・」
突拍子もないことを口にする橙に利二はただ、黙って見ているしかなかった。聞くしかなかった。
体をようやく起こしつつ、橙は壁にもたれかけながら利二の目を見つめた。
「この場所は近江を見渡す古くからの監視小屋だったの。もう何世紀も前から姿を変えてしまってはいるけど」
「もう一度その小屋を復活させて、目覚めさせた竜が他の一族を連れて海に潜ってしまわぬように監視しなければならないの」
「もし、ではもし、あの黒竜が、あるいは他の竜が集まったとしたら?」
「・・・その霊力により、それは恐ろしい時代の到来になるわ」
「なんですと!」
「それを阻止するために、力を使うというわけ」
「力?人間にそのようなことが出来るとでも?あの滝つぼで私ですら何も出来なかったのにか?」
「あのお方は違うわ」
利二はその話の中身が徐々に明かされることへの興奮が隠せなかった。
橙を車から抱え出した利二は辺りを見渡し横になれる場所を探した。
廃墟とは言いながらも、部屋らしき格好はとどめ、また床はまだ十分に認められる。
井草はささくれ立ち、所々穴が開き朽ちてはいる。それでも何畳もの畳がそのままの状態で残っている部屋が見えた。
また、埃とシミで汚れながらも深紅の色合いの絨毯がかつての活気を現している部屋もあった。
(人の手から離れたとして、十年やそこいらか)
首を伸ばし隅々を見渡す。
(しかし、こんなボロでは丸見えですぐに見つかってしまうのでは)
心の中で、そう呟くと突然橙がしゃべりだした。
「そう、十五年も使ってないわ。でも大丈夫、知り合いの持ち物だから、不法侵入にはならないから。それに、奴はもう来ない」
利二は思わず彼女の顔を見た。
まだ幾分青白い顔表のまま目を閉じていた。
さっき見せた勇ましい姿はそこにはなく、ただの、か弱い女性の姿を見るばかりであった。
(読心術というやつか?)
橙は怪訝な顔で自分を見つめる利二に少しだけ口許を緩めて見せた。
幾つかの部屋を物色した後、埃と煤で汚れた床板が張られ、それでも小綺麗に見える場所に橙を連れていった。
土間の広がりをみせるそこは炊事などをする場所なのだろう、壊れた竈らしき窪みの中に薪の燃えカスなどが蜘蛛の巣とともに見えた。
そのすぐ上を這う水道管は元から取り外されているようでパイプの切断された一部のみが頼りなくぶら下がっていた。
利二は思った。
(ここも昔は盛んに単織物や染め物を作っていたのであろう。政府が余計な政策を強いたばかりに・・・)
「意外と正しい見方ができるのね」
またである。橙が利二の思いに答えたのだ。
「人はみな都合主義でしか現世を駆け回ることが出来ないものだから。昨日まで喝采し応援していたとて、船頭が変わってしまえば全くの逆。今日は受け入れられないというものよ」
その答えに、利二は不思議と驚かなかった。
橙の様子を見ずに、代わりにこう告げた。
「伝統あるもの、それは人が学んでできた結晶。我々はその思いを紡いでいかせたい。その連鎖が数珠のように形となって残る」
利二は優しい顔つきで天井を眺めた。
「そこには都合などという欲張った考えなど入り込む隙はないんだ」
真っ黒に煤けたその梁や屋根裏をしげしげとたどると更に口を開いた。
「あなたは、かつての英雄の生き残りですね。いや、神であるならば残るという表現は失礼な言い回しでしょう。何も言わずとも今日あったことを鑑みれば説明がつくというものです」
橙は利二の視線に応えるかのように、優しい笑みをまた作った。
否定も肯定もしないその様子を見ても、利二は詰め寄ることは決してしなかった。むしろ満足であった。
竜という伝説で神話の世界の生き物が目の前にあらわれた事、そして、自分が憧憬し、あまねくもとめていた神がこうして目の前にいるという事実。
それを自分のために、捨て身になって助けようとした事実に深い尊敬の念を抱いていたのであった。
黙ったまま二人は琵琶湖に向かい、吹く風の強さに乗せてゆっくりと息をつむいだ。
互いの息づかいだけが時間を気にせず響く。
「橙さん・・・今度は私が、私があなたを助ける番です」
筒をそっと取り出すと橙は利二に開けてほしいと言った。
中からは、見たこともない古めかしい横笛がきれいな絹の敷物の中から出てきた。
それを大事そうに手に取るや、利二は不思議な感情にかられた。
「何とも骨董なもんだ・・・それに・・・えもいわれぬ・・・」
(心の奥底で震える、躍動はなぜなのだ?)
利二の戸惑いを感じる橙はその笛を口元に持ってくるように指示してから奇妙なことを口にした。
「今から監視小屋を建てるわ。そして、あのお方に報告しなくては」
「あのお方?」
「ふふふ、黄泉を護りし、いざないの古国を譲る我らの主へ・・・」
「何をいいたいのだ?」
「もう一つあるわ。あなたは自分と同じ人を見たことがありますか?」
「・・・」
突拍子もないことを口にする橙に利二はただ、黙って見ているしかなかった。聞くしかなかった。
体をようやく起こしつつ、橙は壁にもたれかけながら利二の目を見つめた。
「この場所は近江を見渡す古くからの監視小屋だったの。もう何世紀も前から姿を変えてしまってはいるけど」
「もう一度その小屋を復活させて、目覚めさせた竜が他の一族を連れて海に潜ってしまわぬように監視しなければならないの」
「もし、ではもし、あの黒竜が、あるいは他の竜が集まったとしたら?」
「・・・その霊力により、それは恐ろしい時代の到来になるわ」
「なんですと!」
「それを阻止するために、力を使うというわけ」
「力?人間にそのようなことが出来るとでも?あの滝つぼで私ですら何も出来なかったのにか?」
「あのお方は違うわ」
利二はその話の中身が徐々に明かされることへの興奮が隠せなかった。