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シンデレラの魔法使いのように

あなたの理想に近づいていただく気功・占いをしています太田マスミです
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なんか縦長じゃないですか!??↑



  【私のこと⑥】


上智大学に入って、まあ何とかなるだろうと思っていたのが大間違いであったことに気づきました。


授業が、またも宇宙語なのです。


先生が身振り手振りで何かをおっしゃっているのですが

英語に聞こえない。

宇宙語に聞こえます。


今まで私が中学・高校で学んできたものは何??


と思えるほど、

先生やクラスメートの発音と自分の思っていた英語とがちがいました。


先生のお話を聞いて

クラスのみんながドッと笑います。


「あ、ここ、笑うとこなのね」

と、少しだけ笑ってみる。


そういう人が、私のほかにもクラスに4-5人いたのが救いでした。


「あー、この人も分かってないんだ」


救われる瞬間です。


しかし、そういう瞬間は、短いのです。


あとの全部の時間は、

みなさん、良くお分かりで、良くお答えになっていて、

良くお話になっています。


我々4-5人は

チンプンカンプン。ここは英語科なのか、アラビア語科なのか、

そんな勢いでした。


入試の時に泊っていた寮に入れて、

授業が終わる→寮に帰る→友達と宿題をする→そのまま話し込む→いつのまにか夜11時→寝る


と、「毎日が修学旅行」状態♪


とても楽しかった半面、

「勉強ができんぞ。どうする、私!?」

という気持ちが常にありました。


寮での私の友人は、「林理生子さん」、とても頼りになる「りおちゃん」と、ほかにも頼りになる同級生21人がいました。


華麗そうなテニス同好会に少し入ってみましたが、

ラケットになかなかボールが当たらない。


自分は、バレーボールみたいに、直接、ボールにさわるスポーツのほうが向いていると思いました。


かといって、勉強もできないのに、部活に入る余裕はありません。


語学は、フランス語をとりました。


朝から晩まで学校に居て、ともかく授業についていこうと必死でした。


りおちゃんは同じ英語科でしたので、

お昼とかも学食で一緒に食べていた気がします。


テニス同好会をやめて、英語教育研究会に入りました。


それと、面白そうだったので演劇研究会にも入りました。


平和な日々が続きました。

 

 

 


ところが、大学1年生の秋にバレー大会があったのです。私は久しぶりにボールにさわれるので嬉しくて張り切りました。


そうしますと、帰りがけ、私をつけてくる人が。


「あの人、バレー経験者に声をかけているらしいよ」


と、英語科の人が言っていて、私は足早に逃げました。


と、翌日、寮の玄関の前に、山下佳江さんというフランス文学科の人が待っていたのでした。


「あなた、バレーやっていましたか?」


「は、はい。」


「体育会女子バレーボール部に入りませんか?」


「いいえ、私はほかのサークルに2つも入っていますし、勉強もしたいので、入りません」


翌日も、その翌日も

山下さんは待っていました。


「まあ、1日くらい 見学に行ってみるかな」


熱意にほだされて、体育館に行きました。


「ああ、ここ、ここじゃな~~」


自分のたましいの声がしたように思いました。

 

 

 


気が付くと私は体育会に入っていたのでした。


演劇部を早々に辞め、語学も難しいフランス語をやめ、日本語に発音が近いスペイン語にかえました。


部に入って最初に「皇居一周マラソン大会」がありました。


マラソンといえば、倒れるまで走るタイプだった私は、ほんとうに走ったあとに倒れていました。


脆弱になっていた体にマラソンはこたえたのでした。


朝から夕方まで授業に出て、放課後は部活。

中・高校時代と変わらない生活が待っていたのでした。


おかしいなぁ、上智大学で花の女子大生生活をする予定だったのに・・・


と思いながら、授業が6時半過ぎまであって、部活が7時から始まっていたので、体操服で授業に出ることにしました。


これ、のちに聞いたのですが、職員会議で話題になっていたのだそうです。


「体操服で授業に出る生徒が居るが、許可すべきか」、と。


最近の投稿に、コメントをくれた寮の同級生の河崎紀子さんは

「カチャは武闘派だったから・・」

と書いていましたが


本当。私は「武闘派」という言葉がぴったりな学生生活をしたのだと思います。


勉強にも、部活にも、戦っていたのだと思います。


 

 

 

結果だけ書きますと、そのまま4年間、朝から晩まで授業を受けつづけて、

そのまま4年の秋まで体育会で部活をして、


英語教育研究会も参加して、

 

 

4年の秋で部活が終わると、就職活動もできなかったのですが、

さいわい、私は教職志望になっていましたので

岡山県の教員に受かり、


部は東京リーグ8部にいた上智大学が、3部の入れ替え戦まで行けて、

入れ替え戦では都留文科大学に負けましたが


30連勝したのでした。

 

 

 

最後の監督の伊東龍司さんは、都内の高校の教頭先生になられ、

山下佳江さんは明治大学でフランス語教授になられ、


「あの地獄の部活ができたんだから、

人生、なんでもできるよね」


という、関係者全員にとって、「いい経験」ができたのでした。

 

 

 

 

たしか、私はフライングレシーブをしていて鎖骨を骨折して、そのまま試合に出たりもしたりしました(汗


自分の骨折が治って、今度は山下さんがひざを故障したら、エースアタッカーのポジションには、私が入っていたようでした。


当時、私は夜、布団に入って目を閉じるとそこにはネットが張ってありました。


 

 

 

どうやって攻撃したらいいか、

どうやって拾ったらいいか

ともかく、関心ごとがバレーボールになっていたのでした。


当時の同級生のメンバー、「よっちん、ユキ、ノリ」のことは、たぶん一生忘れません。ボケても。

 

 

 

 

そして、勉強では、朝から晩までずっと授業に出続けた成果が出て、

アラビア語だった英語が、卒業時にはちゃんと英語に聞こえるようになりました。


  

 


ある日、英語科の先生に呼び出されて、


なにごとかと思って おそるおそる英語科の職員室に入ると、


外国人の神父様の先生がおっしゃいました。


「片山さん、あなたは 成績がイチバン。


シュセキです」


その瞬間、自分は目の前が真っ白になって、「このまま気絶するかな」と思ったのでした。


いいことでも、悪いことでも、キャパを超えたことを言われると気絶ということが 起こりうるとわかりました。


 

 

  

 

その後、学科長のニッセル先生の面談があり、


その時は、まだ「英語に聞こえる」ところにしか語学力が至ってなくて、


ものすごく早く言われたものですから分からなくて、


「おっしゃっていることが分かりません」


というと


「あなたは首席ですが、総代は英語が聴きとれる人になるでしょう。


成績は、良かったけど、英語のちからじたいは、まだ少ない」


と言われたのでした(たぶん)

 

 

 

 

 

武闘派、


戦う女の学生生活は、


たくさんの寮生、級友、先生方、部のかたがたの善意によって

支えていただいたのでした。

 

 〜〜〜〜〜〜



【私のこと⑦】

 




3月に大学を卒業して、4月には、もう中学校の教師になっていました。


きのうまで東京にいたのに、

きのうまで学生だったのに、

もう、今日から私は教師、なのです。


右も左もわからないうちに

岡山県井原市の中学校教師に赴任しました。

 

 

 

岡山市が実家だったのですが、たいていの教師は最初の三年、どこか地方に赴任して また実家付近に帰ってくると言われました。


ですので、タイムリミットは3年。

きっと、地方で楽しく教師をしていると思っていました。

 

 

 

ところがどっこい。


当時は、学級崩壊とか 校内暴力とか いろんな嵐が吹き荒れている時代で、

最初の1年生は可愛かったのですが、

次の2年生はなかなかで(汗、

(とはいえ、最後には可愛くなってくれました)


3年生は、また可愛く、


きのうまで学生だった私は、その日から教師として ほぼ毎年、40人から43人の生徒たちを担任していったのでした。 

 

 

 


 

 

3年目まで、同僚の女性の先生と一緒に暮らしていました。


3年生の担任が始まった4月のある日、

ずっとバレー部の副顧問をしていたのですが、

その練習試合の帰りに

なんと、

お見合いをすることになったのでした!


鴨方というところから

山を越えて、選手を送迎し、最後の生徒を送り終わって、

お見合いのお店に直行しました。


お相手は小学校の先生。

小学校の時、PTA会長だった人が、息子さんが中学生になり、私をごらんになって、

「あの2人、合うかも」

と、企画してくださったのでした。


 

ところが、山を越えて生徒を送迎していたものですから、私は遅刻してしまいそうだったのです。


「これは いかんぞ」


いそいで運転しました。が、20分の遅れ。


「ヤバい」

汗だくで来ました。


そこには、カッコいいふうの人が!


お腹が減っていたので、出されたおまんじゅうを食べていると、


「僕のもどうですか。食べてください」


と、3つも下さるではないですか。


「なんて、優しい!」


と、思って、思えばその時にすでに結婚を決めていたかもでした(爆


そして、教師3年目に担任しながら結婚して、

そのまま井原市に居つくことになりました。

 

 

(その夫と新婚旅行に行き、

彼が 旅行のローンを払い終わったころに別れることになろうとは、

その時は知る由もなかったのでした)

 

 

翌々年、27歳のときに子どもが生まれ、


産休・育休で子育てをしながら、学生時代に落ちていた英検1級に合格しました。


当時の夫は、

「本当に受かるとは思わなかった」

と 驚いていました。


そして、また副担任をして、2年後、次の子が生まれ、

 

しばらく平和な時を過ごしたのでした。


2人目の子育てのときは、通訳案内業試験に挑戦して、

これも無事 受かりました。


学生時代に「見かけ倒し」だった英語の力を

卒業して7年かけてジワジワつけていった感じです。


しゅうと・しゅうとめ・夫・娘・息子、そして私の6人家族は、

仲良く平和に暮らしていました。


32歳のときに、美星中学校という星が綺麗に見える山の上の学校に転勤しました。


そこから、また 昔やっていたバレーボールを再開して、

顧問になり、

とても運動神経のいい生徒たちが体育館で跳ねるのを楽しみに見ていました。


転勤してすぐに大山(だいせん)登山という行事があり、

当時は、まだ下の息子が乳飲み子でしたので

大山の山頂で 自分の乳をしぼっていました。


「これ・・・

もったいないなぁ」


しかし、飲む人は家にいたので、

山の精にあげたのでした。


 

 


美星の子たちは性格もいい、運動神経もいい、賢い、


どうしたんだ、何があったんだ、と思う子が多かったです。


しかし、たまには「この子、テニス部に入って


朝から晩までテニスのことしか考えてないんです。


大丈夫でしょうか?」

お母さんが心配されているような生徒さんがいました。


「お母さん、

大丈夫ですよ。


私も、そうでしたから」

 


 

 

英語ができなくて、

数学しかしない、

国語が苦手で

理系はいいのに、文系がダメ、という子どもさんがいました。


「先生、大丈夫でしょうか?」


「大丈夫ですよ。

私も、そうでしたから」


(私の場合は、数学ができなかったのですが)。

 

 

 

 

 

朝から晩まで、部活のことしか頭にない。


給食を楽しみに学校に行っている。


「先生、この子、大丈夫でしょうか?」


「大丈夫ですよ。

私も、そうでしたから」

 

 

 

 

そして、バレー部のお子さんたちは、

毎年、毎年 どんどん強くたくましくなっていかれて

ついに、7年後には 岡山県で第2シードを取るチームになったのでした。


「県大優勝!!」

と 

全員で声をかけてから練習が始まる、

そんなチームでした。


(その数年前から、ずっといいチームだったと思います)

 

  

 


普通にいったら勝てるだろう、という試合で、


相手チームの監督さんが

神社のおふだを貼りまくった「ほこら」みたいなのを


副監督の席に置いていて、


「なんだか、イヤな予感がするなぁ・・・」


と思っていたのですが、その最後の試合だけ、負けたのでした。


 

 

「勝ちに不思議の勝ちあり

負けに不思議の負けなし」


と言いますが、


あれは若干、不思議の負けに分類されたかなと思います。

 

 


のちになって分かったのは、


敗因の1つに、ユニフォームの布の縫い方、が あったということでした。


冬用のユニフォームは

体に良かったのですが、


夏用のそのユニフォームは、持っているだけで

咳が出てくる

なんだか、体に悪い製品であったと記憶しています(冬用だけにしておけば良かったです・・・)

 

 

 

 

布の手触り、とか

布の目の向き、とか

すごく細部のところに

「体に良い・悪い」があり、


伝統的なチームは、先輩からうけつがれた

伝統的なユニフォームを着て、


新興チームは そういう

「新しい、けれども体に良いとはいえない」系の

速乾、であるとか

ギザギザな手ざわり、

パサパサな手ざわりの

長く着ていたら疲れるユニフォームを着ていたことが


新興チームの敗因の1つであったとは


15年くらい過ぎないと気が付かなかったことだったのです。

 

 

 

 

それでも、自分が監督していたチームの選手たちが

のびのび、自分たちで考えて

自分たちで楽しんでがんばって部活をしてくれたことは


とても良かったなぁと思います。

 

 

 

 

 

たとえば、対戦相手のチームが

ビシッとした緊張感があるチームで


丸坊主で

「ハイ! ハイ!!」

しか言わなくて

監督さんに直立不動の姿勢で言うことをきいていたチームだった

ということが

とても多かったのですが、


「ワ――ッ!!」

と キャプテンを中心に 楽しそうに挑んでいく

美星中学校の子どもたちが


だんだん熱を帯びてきて調子が出て来て

アタックは決まるはサーブは決まるわしていると


相手チームの監督さんが

椅子を投げたり靴を投げたり

しまいには、選手たちをむんずと襟首つかんで


バシバシッと平手打ちする人もいて・・


選手の白いユニフォームが鼻血で赤く染まる、といったところも見てきました。


 

 

私は、終始、

「ナイス!いいぞ!」

しか、言ってなかったですからね・・


それでも、岡山県ベスト8,そして、第二シード(2位を期待できるシード)までいきましたし

気高杯という鳥取県の大会で準優勝したチームもありました。


 

選手たちは、教師がコントロールしてるものではないと思います。

 

 

選手たちは、自分で考えて自分でやる力はあるんですね。

 

 

「ナイス!」しか言わない監督でも、怖くて厳しい監督さんのチームに勝つことは、あるのでした。 

 

 

「勝てば選手と保護者のおかげ

負ければ自分のせい」


監督は、これでいいのだと思います。 

 

 

選手たちには、感謝です。 

 

 

さて、家ではしゅうとめが どんどん年とともに権力を増してきました。


その、「県大会で第2シード」を取った春の予選では、私はしゅうとの介護をして、福山市民病院に寝泊まりしながら体育館に行ったのでした。

 

しゅうとが、ボケてしまって、徘徊するというので、家族の誰かがついておかなければならず、


最初は、元夫、しゅうとめ、私の3人でローテーションを組んでいたのですが、2人が風邪や病気になり、最後は私ひとりが2週間、毎日そこから学校に行っていたのでした。


そのあいだは、家事をしなくて良かったので、自分としてはとてもラクでした。


しゅうとが徘徊するくらい、家事に比べればなんともないのでした。


自分は介護系や、施術系は得意分野なのかもしれないです。


(逆にいうと家事がすごくニガテ)


 

 

 

 

 

家では 家事をする私に、猫としゅうとめが追いかけていつも後ろを付いて来ていました。


猫は文句を言いませんが、しゅうとめは言います。


自分で何をするわけでもないのに、ただついてきて文句だけ言われていると本当にイヤになってきて、


ある日、学校から帰るとストーブを4台使っていて、

灯油を使いつくしていました。


「おばあさん、灯油の入れ方を教えてあげようか。


そうしたら、私がおらんでも(居なくても)、自分で入れられるからなぁ」


と言って、しゅぽしゅぽ入れるやり方をレクチャーしていましたら


そこに帰ってきた元夫が


「何をしよるん?」

というので


「おばあさんに灯油の入れ方を教えてあげよる」

と言うと、


「教えんでええ。ぼくがやるから」


と しゅうとめをかばうので、


「あー、もう ご勝手にどうぞ」


と 私はそのまま家を去ったのでした。


去る前に、


「おばあさん、お風呂の焚き方はな、

赤いじゃくちを回せばええからな」


と 伝えて出ました。


しゅうとめは、年齢が行ってしまったので、


家事をまったくしなくなっていたのでした(もともと


学校に行きながら、私が朝5時に起きて洗濯したり


6人分の食事を朝と夜 毎日作ったり、

 

「そりゃー、ムリだよね。1人の人間のやれる仕事量じゃないよ」

と 思っていたので、


家事がなくなったら、ほんとうに自分は解放されたような気がしたのでした)

 

 


結婚17年目のことでした。


それまで、家事はほぼカンペキにやっていたと思います。


努力だけは得意でしたので。


別居を3年して、


結婚20年目、2004年に別れたのでした。


 

 

 

大阪気功  太田マスミ
 

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